悪源太 義平の㚑 難波の六郎を引割く
鎌倉の悪源太は、近江国石山寺の傍らに、重病に冒され居りたるけるを、難波三郎経房
聞及で、病席へ押寄て生け捕り、六波羅へぞ参りける。...同廿一日の午の刻に、難波三
郎に仰せて六條河原にて切られける時、悪源太申しけるは、「清盛はじめて、伊勢平治
程の、ものにも覚えぬ奴原こそなけら。保元の合戦の時、源平両家の者共、あまた誅せ
られしに、夜陰にこそ切られしか。弓矢取る身は敵に恥を与えじと、互いに思うこそ本
意なれ。さすがに義平ほどのものを、白昼に切る不当人やある。雲のいわめなれば、今生
にてこそ合戦にうちまけて情けなき目にもあいければ、恥辱をばかくとも、死しては大
魔縁となるか、しからずは雷となって、清盛をはじめ汝に至るまで、一々に蹴殺さんず
るぞ。...とうとう切れ」『平治物語』より。
八町礫(はっちょうつぶて)の鬼平次太夫
「一叢芒(ひとむらすすき)のしげき中より、一人の男あらはれ出たり。その打扮(いでたち)、頭
には鹿皮の頭巾を被り、身には栲(たへ=ウルシ科の落葉高木)の衣着て、脚には栟櫚(へ
いろ=ヤシ科の常緑高木)の脚絆を結び、腰に長き刀を服(さし)て、身の丈六尺、年紀(としのころ)
は三十あまりとおぼして、山の猟夫(かりうど)かと見れば弓矢を持たず。こは引剥(ひきは
ぎ=追剥)する山客(やまだち)ならんとて、なかなかに憚り給う気色もなく、弓杖に携(すがり)て
そなたを瞻(まもり)おはしたるに、彼(かの)男も為朝を見てちかく歩み来つ礼儀(いや)を正
しくしていへりけるは、君は近曽(ちかごろ)この州民(くにたみ)の稱(たゝえ)まゐらする、八郎
御曹司にてましますべし。今この狼のよく狎れたるを見まゐらすれば、久しく養(かひ)給
ふものにや。斯(かく)いへばなほ怪しともおぼさんが、それがしは紀平治という猟夫(か
りひと)なり。祖父は元琉球国の人なりしが、一年漂流してその船筑紫に着きしかば、遂
に日本(やまと)に留りて、肥後の菊池に奉公せり。しかるに祖父没して後父なるもの故あ
りて浪人し、この豊後に移り住むといへども、世わたる便(たつき)なきまゝに、猟夫の業
(わざ)をなして一生をおくり、それがしに至りともなほ業を更(あらため)ず。父の時より獣を
捕るに、弓矢剱戟(けんげき)を用ひず。只礫(つぶて)をもて狙撃(ねらひうつ)に、百発百中の手練
あり。凡(およそ)八町の内に狙いを定めて撃つときは、疾(と)き鳥、勇(たけ)き獣といへども、
打殺さずという事なし。こゝをもて人口順(くちずさみ)にあだ名して八町礫(つぶて)紀平治太
夫と呼びて候。それがし今かく村落(かたいなか)にありといへども、聊(いささか)星雲の志な
きにしもあらず。よりて君が文武の道に冨て、ひろく人を愛し給ふ事を傅へ聞。渇望甚
しかりつれど、身賤しければ見えまゐらすによしなかりしを、意(おもは)ずもこの深山に
て、尊容(そんよう)を拝し奉りしは、僥倖(さいはひ)何かこれにます事の候はんといへりける。
為朝聞給ひて、さてはこの狼どもが怕(おそ)れてすゝみ得ざりしは、紀平治があるをもて
なりなん。しかれば彼が礫(つぶて)に妙ある事しかるべしとて、心の中に感じおぼし、叮
嚀(ねんごろ)に回答(いらへ)して、路に迷ひたる事、狼の事など、すべて物かたり給へば、紀
平治只顧(ひたすら)嘆賞し、君が徳既に禽獣に及ぶ事、いといと有りがたくも賢くおはし
ますことよ。終日(ひねもす)路に迷ひ給はゞ、さこそ飢へもし給ひけめ。わが家はこの山
の麓にありもし茅屋(ばうおく)を厭ひ給はずは、立よりて憩ひ給え、といふ固辞(いなみ)がた
く、打つれだちて麓のかたへ赴き給へば、彼二頭の狼も、後方(あとべ)につきて門まで来
にけり」(当ブログ『鎮西弓張月』2021/07/28より)