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街の散歩…ひとりあるき

15-16 悪源太 義平の㚑 八町礫の鬼平次太夫

2025年03月14日 | 絵画・彫刻

悪源太 義平の㚑 難波の六郎を引割く
鎌倉の悪源太は、近江国石山寺の傍らに、重病に冒され居りたるけるを、難波三郎経房
聞及で、病席へ押寄て生け捕り、六波羅へぞ参りける。...同廿一日の午の刻に、難波三
郎に仰せて六條河原にて切られける時、悪源太申しけるは、「清盛はじめて、伊勢平治
程の、ものにも覚えぬ奴原こそなけら。保元の合戦の時、源平両家の者共、あまた誅せ
られしに、夜陰にこそ切られしか。弓矢取る身は敵に恥を与えじと、互いに思うこそ本
意なれ。さすがに義平ほどのものを、白昼に切る不当人やある。雲のいわめなれば、今生
にてこそ合戦にうちまけて情けなき目にもあいければ、恥辱をばかくとも、死しては大
魔縁となるか、しからずは雷となって、清盛をはじめ汝に至るまで、一々に蹴殺さんず
るぞ。...とうとう切れ」『平治物語』より。

八町礫(はっちょうつぶて)の鬼平次太夫
「一叢芒(ひとむらすすき)のしげき中より、一人の男あらはれ出たり。その打扮(いでたち)、頭
には鹿皮の頭巾を被り、身には栲(たへ=ウルシ科の落葉高木)の衣着て、脚には栟櫚(へ
いろ=ヤシ科の常緑高木)の脚絆を結び、腰に長き刀を服(さし)て、身の丈六尺、年紀(としのころ)
は三十あまりとおぼして、山の猟夫(かりうど)かと見れば弓矢を持たず。こは引剥(ひきは
ぎ=追剥)する山客(やまだち)ならんとて、なかなかに憚り給う気色もなく、弓杖に携(すがり)て
そなたを瞻(まもり)おはしたるに、彼(かの)男も為朝を見てちかく歩み来つ礼儀(いや)を正
しくしていへりけるは、君は近曽(ちかごろ)この州民(くにたみ)の稱(たゝえ)まゐらする、八郎
御曹司にてましますべし。今この狼のよく狎れたるを見まゐらすれば、久しく養(かひ)給
ふものにや。斯(かく)いへばなほ怪しともおぼさんが、それがしは紀平治という猟夫(か
りひと)なり。祖父は元琉球国の人なりしが、一年漂流してその船筑紫に着きしかば、遂
に日本(やまと)に留りて、肥後の菊池に奉公せり。しかるに祖父没して後父なるもの故あ
りて浪人し、この豊後に移り住むといへども、世わたる便(たつき)なきまゝに、猟夫の業
(わざ)をなして一生をおくり、それがしに至りともなほ業を更(あらため)ず。父の時より獣を
捕るに、弓矢剱戟(けんげき)を用ひず。只礫(つぶて)をもて狙撃(ねらひうつ)に、百発百中の手練
あり。凡(およそ)八町の内に狙いを定めて撃つときは、疾(と)き鳥、勇(たけ)き獣といへども、
打殺さずという事なし。こゝをもて人口順(くちずさみ)にあだ名して八町礫(つぶて)紀平治太
夫と呼びて候。それがし今かく村落(かたいなか)にありといへども、聊(いささか)星雲の志な
きにしもあらず。よりて君が文武の道に冨て、ひろく人を愛し給ふ事を傅へ聞。渇望甚
しかりつれど、身賤しければ見えまゐらすによしなかりしを、意(おもは)ずもこの深山に
て、尊容(そんよう)を拝し奉りしは、僥倖(さいはひ)何かこれにます事の候はんといへりける。
為朝聞給ひて、さてはこの狼どもが怕(おそ)れてすゝみ得ざりしは、紀平治があるをもて
なりなん。しかれば彼が礫(つぶて)に妙ある事しかるべしとて、心の中に感じおぼし、叮
嚀(ねんごろ)に回答(いらへ)して、路に迷ひたる事、狼の事など、すべて物かたり給へば、紀
平治只顧(ひたすら)嘆賞し、君が徳既に禽獣に及ぶ事、いといと有りがたくも賢くおはし
ますことよ。終日(ひねもす)路に迷ひ給はゞ、さこそ飢へもし給ひけめ。わが家はこの山
の麓にありもし茅屋(ばうおく)を厭ひ給はずは、立よりて憩ひ給え、といふ固辞(いなみ)がた
く、打つれだちて麓のかたへ赴き給へば、彼二頭の狼も、後方(あとべ)につきて門まで来
にけり」(当ブログ『鎮西弓張月』2021/07/28より)
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14-15 田原の又太郎忠綱 宇治川の急流をわたる

2025年03月13日 | 絵画・彫刻
14-15 田原の又太郎忠綱 宇治川の急流をわたる8/16 
すべて勢いを
画んには風流
古雅をはぶき
□荒にして画く
古法も又しからず
雅画は 別巻にいう

橋板数枚外した宇治橋上にての源頼政勢に攻めあぐねた平氏軍のなか、下野国の武士足
利忠綱の申しける。
「馬筏をつくってわ渡せばこそ渡しけめ。板東武者の習いとして、かたきを目にかけ、河
をへだつる戦に、淵瀬きらう様やある。続けや殿原」とて、まっ先にこそうち入れたれ。
これに続く三百余騎。「強き馬をば上手にたてよ、弱き馬をば下手になせ。馬の足の及ぶ
ほどは手綱をくれてあゆませよ。及ばずばかいくって泳がせよ。流さらうものをば弓の
はずにとりつかせよ。手をとりくみ肩をならべて渡すべし。鞍つぼによく乗りさだまっ
て鐙を強う踏め。馬の頭を沈まば引き上げよ。痛う引いて馬に覆いかぶさるな。腰、水
に浸るなら馬の尻のほうへ腰位置を移せ。馬には弱く水には強くあたるべし。水中で弓
引くな。敵が射るとも応戦すな、つねにしころかたむけ天辺射さすな。流れに直角に渡
りて押し流さるな。水にしなうて渡せや渡せ」
                             『平家物語』巻第四巻
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13-14 筒井浄妙 一来法師

2025年03月12日 | 絵画・彫刻

筒井浄妙
一来法師

両勇
宇治橋の
行桁を
はしり
戦ふ事
平地の□く
敵味方
目をおどろかす
 
頼政と以仁王(もちひとおう)は50騎ほどほどで南都興福寺にむけ夜間に行軍。疲れた
以仁王が六度も落馬し、やむなく宇治橋の三間ほど橋板を外し、平等院で休息する。し
て翌日、追いついた平氏300騎と宇治橋をはさんで対峙した。このとき、橋板のない桁
行を走って活躍したのが三井寺下級僧ながら筒井の浄妙明秀だ。
「24さいたる矢を、さしつめひきつめさんざんに射る。やにはに12人射殺して、11人
に手おわされたれば、えびらに一つぞ残ったる。弓をばからと投げすてえびらもといてす
ててんげり。つらぬきぬいではだしになり、橋の行桁を、さらさらと走りまわりたる。
人はおそれてわたらねども、浄妙房の心地には、一条二条の大路とこそふるまうたれ。
長刀で、向かう敵5人なぎ伏せ、6人にあたる歒にあって、長刀なかよりうち折って捨
ててんげり。その後太刀を抜いて戦うに、敵は大勢なり、くもで・かくなわ・十文字・
とんぼうがえり・水車、八方すかさぶ斬ったりけり。やにわに8人斬り伏せ、9人にあ
たる敵が甲の鉢に、あまりに強ううちあてて、めぬきのもとより調度折れ、くっと抜け
て、河へざぶと入りにけり。たのむところは腰刀、ひとえに死なんと狂いける。
ここに乗円坊の阿闍梨慶秀が召し仕える、一来法師という、大力の早業ありけり。続い
て後ろに戦うが、ゆきげたはせばし、そば通るべきようはなし、浄妙房が甲の手先に手
をおいて『あしう候、浄妙房』とて肩をづんどおどり越えてぞ戦いける。一来法師討ち
死にしてんける。
                             『平家物語』巻第四巻
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12-13 長兵衛の尉 長谷辺の信連 

2025年03月11日 | 絵画・彫刻

長兵衛の尉 
長谷辺の信連

長谷辺の信連は、後白河法皇の皇子以仁王(もちひとおう)に仕えていた。
以仁王の宮に源三位入道(源頼政)の使者とて文を持ち寄る。
「君の御謀反(平家打倒)すでにあらはれさせ給いて、土佐の畑へ流しまゐらすべしとて、
官人共御迎へに参り候。急ぎ御所をいでさせ給いて、三井寺へいらせおはしませ。入道
もやがてまゐらすべし」と。
そこで侍の長兵衛信連が「女房装束にていでさせ給え」と申して、以仁王はお供とともに
宮を脱出。信連は残って来るべき官人をあしらう覚悟。
いよいよ出羽判官、兵三百余騎を引き連れ、大音声「御謀反の聞こえ候によって別当宣を
承り、御迎えにまゐって候。急ぎ御出そう候へ」
長兵衛尉「馬に乗りながら門のうちへ参るだに奇っ怪、近寄ってあやまちすな」
大力の金武という者、長兵衛めがけて大床に飛び乗り、続いて十四五人が続く。
長兵衛、狩衣の帯紐引き切って、衛府の太刀を抜き合わせ散々にこそ切ったる。あそこ
の面廊に追っては斬り、詰まりに追いつめてはハタと斬る。十四五人ほど斬り伏せれば
刃先三寸ばかり打ち折れ、腹を切らんと腰を探れば、鞘巻き落ちてなかりけり...、心
は猛く思えども大勢の中にとりこめられたり。
                     『平家物語』巻第四 信連より一部要約
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11-12 阿倍の貞任が一子 千代童子 笹の柵に血戦す

2025年03月10日 | 絵画・彫刻

阿倍の
貞任が
一子 
千代童子 
笹の柵に
血戦す

「後三年の役」に先だつこと「前九年の役」でのこと。
父祖代々、奥州六部に蝦夷の長として威勢をはっていた安部一族。
租税も労役も努めず国司の指示にも従わず逆らう。ということで、安部頼良(改名:頼時)
を長とする安部一族を討つべく、鎮守府将軍として源頼義朝臣ほか長男・義家、次男・
義綱ほか多くの軍勢が派遣された。をの結果、相互に討ち討たれ、長の世代も代わり、双
方の支援軍も入れかわるなど繰りかえした。安部頼時が戦死し、代わって息子の貞任(さだ
とう)が長として戦うも・・・最期には刺し殺された。
そしてここに描かれているのが貞任の子の童。
年十三、名を千代童子といい、かわいい子。
楯の外に出てけなげに戦った。
将軍はこれを哀れみ、ゆるしてやろうと思った。
しかし、加勢に加わっていた清原武則がそれを制して首を切らせた。
楯が落ちたとき、貞任の妻は三歳の子を抱いて夫に向かい、
「あなたはもう殺されようとしています。私一人生きてはおれません。あなたの見てい
る前で死のうと思います」
と言って、子を抱いたまま深い淵に身を投げて死んだという。
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