天の原 ふりさけ見れば 春日なる
三笠の山に 出でし月かも
留学生として唐に渡り、
玄宗皇帝のもとに仕えた
阿倍仲麻呂の歌です。
唐では李白・王維らとも親交があったという
仲麻呂さん、
日本に戻ることなく
その生涯を大陸で終えることになります。
このアップのどら焼きちゃんは
奈良の都でいただいたものですが、
さてこの三笠山、
どこの山のことでしょう。
三笠の山に 出でし月かも
留学生として唐に渡り、
玄宗皇帝のもとに仕えた
阿倍仲麻呂の歌です。
唐では李白・王維らとも親交があったという
仲麻呂さん、
日本に戻ることなく
その生涯を大陸で終えることになります。
このアップのどら焼きちゃんは
奈良の都でいただいたものですが、
さてこの三笠山、
どこの山のことでしょう。
奈良若草山のことを三笠山というなり。
平城宮の大路からは、東に若草山が一望できる。東大寺に近い宮城域からは、若草山の端にかかる満月がさぞ美しいことであったろう。
今この異国で眺める月は、故郷の寧楽の三笠山にも同じように出ていようか、
きっと美しく輝いていることだろう・・・
わたしは帰国しようにも出来なかったが、日本が、寧楽が恋しい、
と切実な望郷の歌を仲麻呂は詠んだ。
明月の条件は、東や東南側に小高い山があることを良しとする。
のぼり始めの満月は趣が少ないからである。ちょうど、中空にかかり始め、
月光が増す頃に、山の端から出てくるのを最良とする。その意味でも奈良の若草山は月の名所でもあっただろう。(私見)
しかし、阿倍仲麻呂の歌の「三笠山」の意は、もっと広い意味にもとれる。
仲麻呂の同期留学生には、先般、西安で墓誌が発見された井真成(いしんせい)もいたのだ。
彼は仲麻呂と同じように唐で優秀な官吏になったが、若くして志半ばで西安で病没する。その他、名前が残っていない、留学生、留学僧、留学の工人たちも多くいた。
一回の遣唐船一団(4船)には少なくとも全国から集まった100名超える留学の人々、その人々を無事に唐土まで送り届けようとした400名以上の船長(ふなおさ)と乗組員たち。
帰途4船のうち1船しか日本の土を踏めなかった遣唐使の航海もあった。何十年も懸けて唐土で写経した経典もろとも海中に没することも少なくなかった。遙か南のベトナムまで流されることも多かった。阿部仲麻呂もその一人。病没、行方不明も多数。そんな比べようもない困難な旅に人々が命を懸けた渾身の想いに胸が熱くなる。 日本から唐に遣唐使節がくるのは、平均して20年に1回の派遣だったのだ。
彼ら、ひとりひとりにとっての三笠山は、帰るに帰れなかった日本の故郷の山そのものをいうかも知れない。春日なる山=三笠の山は航海の安全と家族の平穏を祈った、神宿る日本の山々なのだ。
満月に皓々と照らされ輝く山々・・・哀しい先人たちの想いの上に開いていった日本文化の源を奈良の都にたどれそうですね。