阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

労をねぎらう

2019-05-08 09:57:44 | 日本語

 昨日、ツイッターで「天皇陛下お疲れ様」の是非が論じられていた。この時代、お疲れ様は昔よりずっと頻度が高く使われていて、今どう考えるかは議論があるところかもしれない。しかし一連のツイートを読むと「謎ルール」という言葉も見えて、労をねぎらうには一定のルールがあったことも忘れられつつあるようだ。

 私の記憶をたどると、大学生の時だから三十五年ぐらい前、国文学の講義で教官から敬語に関連して目上の人に「お疲れ様」「ご苦労様」とは言わない、という話があった。下から上に向かって労をねぎらうというのはありえない。日本の敬語の考え方では、自分にとっては難儀な仕事であっても目上の人は疲れたり苦労しないのであって、それを言うのは失礼にあたる。一緒に仕事した後で上司に言うとしたら、ありがとうございました、勉強になりました、ぐらいのものだという趣旨だった。しかし、わざわざこの話を持ち出すということは、三十五年前すでに目上の人にお疲れ様と言う人は結構いたのではないかと思う。

 この時言われたことでもう一つ覚えているのが、目上の人に出す手紙には句読点、濁点など注釈にあたる記号はつけてはならないということだった。さすがにこれは三十五年前でも過去の話であって、その後ためしにそういう手紙を友人に擬古文調で出してみたところ大変不評であった。

話がそれたついでにもう一つ。最近、目上の人に「了解しました」と言って良いかどうか話題になった。了解、あるいは諒解は明治以降の文献にしばしば出てくるけれど、相手の話を受けてその場で了解しましたというのはほとんどここ四十年ぐらいの用例であって、それ以前は会話での用例を見つけるのは難しい。古い了解の使い方を書籍検索からいくつか抜き出しておこう。

「人は余を了解するに及ばない、余は又人に了解せられんことを欲はない」(内村鑑三全集

「今日の英國の大臣演説をもよく了解し得るのである」(現代教育学の根本思想

「米國に於ても能く了解すべきであるし、又了解して居ると思ふ」(三田評論

私が子供の頃ウルトラマンかウルトラセブンだったかウルトラ警備隊のパイロットが無線での命令に対して「了解」と答えていた。今考えると「ラジャー」を「了解」と翻訳したのかもしれない。会話で了解しましたを使うようになったのは、このようなパイロットの返答がきっかけのようにも思える。もしそうだとすると、目上の人に使えるかどうかというのは、考えてもあまり意味がない。ウルトラ警備隊は上司の命令に了解と言っていた。それを誤用とするならば、半世紀以上前の用例に戻らなければならない。

 話をお疲れ様に戻そう。ネットで調べてみると、お疲れ様は目上の人に言っても良いがご苦労様はいけない、と解説したものもある。これはいかなる根拠なのか良くわからない。しかしいくら論じてみたところで、正誤を確定させることは難しい。言葉は日々変化していて、使う人の価値観も変わって行く。ただ、昨日のツイートの中には、若者にお疲れ様と言われたくない、というのもあった。不快に思う人もいるということは知っておきたいものだ。私は最近中学生にお疲れ様でしたと言われることもあるのだけれど、全然嫌ではない。むしろ声をかけてもらえるとうれしい。それにどう見てもこちらの方がくたびれている。ただ、昔のルールを習ったせいだろうか、天皇陛下にお疲れ様はかなり違和感がある。