阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

阿武山(あぶさん)を語る(6) 土石流の証拠

2018-08-20 11:11:34 | 阿武山

 今日は8月20日。安佐北区安佐南区で77人の方が亡くなられた土砂災害から4年ということになる。もし、この災害がなかったとしたら、阿武山の大蛇退治や八木の伝承に興味を持つこともなかったかもしれない。災害の教訓を噛みしめつつ書き進んで行きたい。

(安佐南区八木、下八木バス停付近の可部線の踏切から阿武山を望む)

 今回は八木の伝承や陰徳太平記に見られる大蛇退治と土石流の関連を考えてみる。前々回も書いたが、災害直後の谷筋に土砂がたまった阿武山の姿をみると、蛇が落ちるという表現はそのものズバリに思えて、蛇落地の三文字を見た時はこれは土石流だと思った。ところが調べて行くうちに蛇落地を戦国時代まで遡るのは難しく、あとで上楽地あるいは補陀落をもじって誰かが呼び始めたのではないかという心証が強くなった。蛇王池の集落を古くからそう呼んでいた可能性は残る。しかし、八木の伝承には土石流そのものが伝わっていない。今のところ、蛇落地をすぐに土石流に結び付けるのは難しい。

 陰徳太平記の大蛇退治はどうであろうか。2015年6月12日にRCCテレビで放送された災害を特集した番組の中で、陰徳太平記の記述と土石流との関連を指摘する専門家のコメントが紹介された。もっとも積極的に肯定なのか、テレビ局の人に聞かれたからそう答えたのか判断は難しかった。もう一度その箇所を引用してみよう。大蛇を退治すべく勝雄が阿武山を登っていく場面だ。

「朧ノ春ノ月、俄カニ空掻キ曇リテ、山颪(オロ)シ烈シク吹キ落タルニ深谷隠レノ櫻花木ノ葉ト共ニハラ々々ト散乱シテ、時ナラヌ村雨一頻リ降リ来リ、巌(イハホ)崩レ岸裂(サケ)山鳴リ谷応(コタヘ)テ満山暗々然トシテ、物ノアヤメモ見モ分ズ、イト冷(スサ)マジカリケレバ、乗リタル馬モ進ミ兼、身振ヒシテ立テリケリ」

 確かに雨が降って地が崩れるという描写は土石流を思わせる。しかし私は、蛇落地の時に安易に土石流と考えてしまった反省?から、ここは懐疑的であった。単に魔物が現れる前の風雲急を告げる場面にすぎないかもしれないではないかと思った。

 ところが去年、2017年4月19日の中国新聞に、「大蛇伝説」土石流の証し、という見出しで、山口大の調査によると過去の土石流の地層は放射性炭素年代測定法により1450~1520年頃という記事が出た。陰徳太平記の大蛇退治は天文元年、1532年という設定であるから、その直前に土石流が発生という有力な証拠が出てきたわけだ。その調査結果がネットにあったのでリンクを張っておく。

平成 26 年 8 月広島土砂災害地域に残る土砂災害伝説と過去の被災履歴(リンクはpdfファイル)   

「これらを総合すると,天文元年(1532 年)に土石流 災害が発生し,それが後に武勇伝として伝えられてい った可能性が高いと考えられる」と書いてある。また、地形について、「芸藩通志には,慶長 12 年(1607 年)の大洪水で太 田川の流路が変わったと記されているが,蛇王池伝説 に記される天文元年(1532 年)は蛇王池の碑の近くを 太田川が流れていたと考えられる」とある。これは地理が苦手な私がしばしば忘れてしまいがちなことだ。それから私はこの表の見方がよくわからない。16世紀の土石流は八木緑井地区ではなく可部東地区の測定結果と読めるのだけど、どうなんだろうか。

 それはともかくとして、先祖の功績を誇張しているとはいえ仮にも歴史を綴っている書物が、百年前の土石流を蛇退治として記述する意図がよくわからない。ヤマタノオロチも水害や土石流を暗示していると言われるが、太古でなくて江戸時代初期であってもこのような災害を魔物にポンと変換できるものだろうかという疑問は残る。

 その一方で、もう一度大蛇退治の書き出しに注目してみると、ここでは「天文元年ノ春、」という架空の暦で物語が始まっている。享禄から天文への改元は七月二十九日であり、天文元年に春はなかった。郷土史の記述でもこれを誤りとして大蛇退治は享禄五年と書き換えているものもある。しかしこの陰徳太平記においては、天文年間前後のことは連続的に綴られており、これは普通間違えないのではないかとも思う。もし意図的だとすると、天文元年の春という架空の日付をあえて用いる心理はどのようなものであったろうか。あるいは、多分にフィクションを含んでいるよという暗示だったかもしれない。そうであれば、土石流を蛇退治にという創作もありだろうか、いやそれでも百年前だと誤魔化せないような気もするけれど。

 もうひとつ気になったのは、今見つからないのだけど、複数回の土石流の痕跡があったという別の記事も記憶に残っている。江戸時代、観音様が地上に降ろされた頃に土石流はなかったのだろうか、この地域の土石流は何年に一度ぐらいの頻度であったのか、気になるところだ。

次回は大蛇退治のもうひとつのポイント、太刀について考えてみたいと思う。

 


阿武山(あぶさん)を語る(5) 8月19日の夜

2018-08-19 10:30:18 | 阿武山

 安佐南区の緑井、八木、安佐北区の可部東、三入、桐原(とげ)などで土砂災害があった日から、明日20日で4年になる。今回書きたいのはその前日、2014年8月19日の夜のことだ。この夜、土石流が発生する前に、人的被害を回避する手立てはなかったのだろうか。結論を言えば、広島市が気象庁からのファックスを見逃すなど不手際はあったものの、それがなくても早期避難につなげるのは難しかったと思う。ただ、将来同じことが起きた時に、危険を回避できる可能性はあるのではないかとも思う。そのあたりを、当日のツイートを見ながらふり返ってみたい。

 我が家のある安佐北区深川地区は、4年前の土砂災害では地区の西端の尾和地区で1件の土石流が発生したけれど、うちはそこから1キロ東で強い雨雲の帯からはわずかに外れていたと思われる。19日のツイートを見ると20時前に雷が発生、20時半には大雨でBSが映らなくなった。そしてこの20時半の雨雲の様子を伝えた気象予報士の勝丸恭子さんのツイートをリツイートしている。画像を拝借。

本文は「帰宅途中で雨宿りの方も多いですよね。雨雲は北東へ移動中です。強弱はありますが、今降っている所はまだしばらく雨。雷が鳴っているうちは建物の中にいてもらいたいと思います。このラインの北東に当たる所はこれからザッとくる見通し。」とある。北東に傾いた強い雨雲の帯が北東に移動する、この意味を私は全く理解していなかった。

 その後21時半ごろから経験したことが無いような強い雷鳴、雷光で22時過ぎには数分間停電もあった。雷が落ちるとかなり遠い感じなのに家が揺れるような衝撃があって、私は完全に雷に気を取られて大雨に頭が回らなかった。しかしその22時台には広島駅や西区福島町で冠水とのツイートをリツイートしていて、広島デルタも相当な雨量だったことがうかがえる。23時過ぎ、雷が少しおさまって静かになった。この隙に寝てしまうのが吉とツイートして、私は眠りについた。目が覚めたら大変なことになっているとは、思いもよらなかった。雨雲がもう少し東にずれていたらと思うとぞっとする。

 私が寝た後の雨雲の様子を、土砂災害を特集した9月3日付の中国新聞の紙面から見てみよう。

(中国新聞2014年9月3日の紙面より)

 日付が変わって20日の午前1時、2時、3時と雨雲はあまり動いて無いように見える。いや、そう見えるだけで勝丸さんのツイートにあったように雨雲は北東に動いていた。北東に傾いた強い雨雲の帯が北東にスライドして、同じ場所に強い雨が降り続いた。三入の雨量は一晩で250ミリを超えた。当然被害もこのライン上に集中した。

(同じく9月3日中国新聞より)

 ここで一つ指摘しておきたいのは、テレビの報道は八木、緑井地区に集中したけれど、土石流の件数としては安佐北区の可部東、三入、桐原の方がかなり上回っている。4年ぶりにこの特集記事を見直して気付いたことで、意外だった。新聞の役割はまだまだ重要だと思う。今年7月の豪雨でも、自宅が浸水想定地域であることから洪水については随時情報収集してきたが、土砂災害についてはわからないことが多く、同じ高陽地区に住みながら口田南地区にどうして土砂が出たのかいまだによく理解していない。これからの報道に期待したい。話がそれた。

 ここまで書いて、言いたいことはわかっていただけたのではないかと思うが、20時半の予報の通りに雨雲は流れて、同じところに強い雨が降り続いたということは、その時点で地域を限って注意喚起ができなかっただろうか。この4年前の時点では難しかったかもしれない。しかし、将来には自動的におおよその地域をあげて注意喚起するシステムを作れないだろうか、というのが今回一番言いたかったことだ。今年7月6日夕刻からの豪雨災害でも、5日から4年前と同じ250ミリの降雨が予想され記録的大雨の五文字は前日から言われていたにもかかわらず、避難指示を受けて実際に指定の避難所に避難した人の割合は広島市でわずか3、4パーセントという報道があった。中国地方で明日の朝までに250ミリとニュースで聞いても、山奥の雨がよー降るところじゃろと当地の事とは思わない。安佐北区全域に避難指示と出ても、自分のところは大丈夫と思ってしまう。難しいのは承知の上で、もっとピンポイントで危険を知らせるシステムを作ってほしいと思う。それは被害が広範囲に及んだ今年よりも4年前の方が実現の可能性があるような気もする。今年の災害における避難行動の検証はこれから始まると聞いている。もちろん我々の防災意識を高めるのが一つ、避難所の場所や環境など避難へのハードルを下げるというのが二つ目、そしてもうひとつ、避難情報の精度を上げることが重要だと思う。広範囲に素早く避難勧告・指示を出せばよいというものではないだろう。中国新聞の特集の時系列をみると、避難勧告、指示が出たのは20日の午前4時以降ですでに土石流が発生したあとのところが多かったと思われる。それに比べると今年は遅くはなかったと思うが、避難行動にはつながらなかった。大きな課題が残っている。

 4年前の災害報道では、阿武山という山の名はあまりニュースに乗らなかった。必要ない情報だったのかもしれない。もう一度9月3日の中国新聞であるが、阿武山麓を横断するような被害の写真が載っていて、はっとして紙面を残しておいたのが今回役立った。それも紹介しておきたい。

(同じく9月3日中国新聞、一番上の切れている文字は八木8丁目)

 

 翌8月20日の朝は6時過ぎ、外で何か聞こえて目が覚めた。2階の自室からは地元の町内会よりも丘の上の亀崎地区の放送がよく聞こえる。寝ぼけた頭で何事かなと思っていたら避難勧告という言葉が耳に入って飛び起きた。土砂災害以降、避難勧告は安売り気味に出るようになったけれど、この時は身近なものではなかった。6時半を過ぎてヘリの音も聞こえるようになった。ネットで出てくるのは根谷川の氾濫、そしてテレビでは7時ごろ八木、山本、可部東の土砂崩れを伝え、9時には緑井で家10軒消失の未確認情報と次第に事の深刻さが伝わって来た。なすすべもなく、テレビを呆然と見つめるだけだった。

 今までであれば百年に一度あるかないかという土砂災害が四年間に二度、しかもごく近い地域で起きたのは本当に悲しいことだった。最近の気候を考えるとこれからも油断できない。次は自分のところと思っておいた方がいいのだろう。

 

  土石流言葉は聞けど目の先の八木緑井のことと思はず

 

(安佐北区深川、JR下深川駅より阿武山を望む、2014年8月30日撮影)

 


阿武山(あぶさん)を語る(4) 蛇落地

2018-08-18 13:37:14 | 阿武山

 今回は八木地区の伝承を中心に書いてみたい。蛇落地のテレビ報道は中世の阿武山へのきっかけではあったけれど、実は災害地名としての蛇落地から私の関心は離れていて、興味は別の所に移っている。もし、災害地名ということでいらっしゃったのであれば他の人の書かれたものを読まれた方がいいという事、まずお断りしておきたい。

 4年前の土砂災害の5日後にあたる2014年8月25日、フジテレビで八木の古名は「蛇落地悪谷」であり、後に上楽地芦谷に改めれられたという八木地区の伝承が紹介されたという。私はこの放送を見てはいないがネットで大きな反響があって3日4日のうちに内容を知った。感想を言えば大変なショックであった。それは、自宅から見える阿武山の谷筋に見える土砂の様子を言うのに「蛇が落ちる」という表現はあまりにも的確だったからだ。

 

  阿武山の内に住みたる蛇落つと古き伝えを聞けば悲しも

 

(安佐北区深川、深川三丁目バス停付近から見た阿武山の傷跡、2014年9月16日撮影)

 

 しかしながら、調べてみると蛇落地が出てくるのは伝承を記述したものに限られ、リアルタイムに地名として記述した文献は見つからなかった。伝承を軽く見てはいけないとは思う。それを記述した2つの書物を見てみよう。ひとつは「黄鳥の笛」(昭和33年、辻治光著)で香川勝雄の半生を描いた小説の形をとっている。もう一つは八木小学校百周年の時に編まれた「しらうめ」(昭和51年)、前回陰徳太平記で首が落ちたところに地名が誕生した場面の記述は似通っている。黄鳥の笛から引用してみる。

「香川勝雄が斬った大蛇の首が、初めに落ちたところを、刀がのびると書いて、刀延(たちのぶ)と呼んでいる。(現在上元氏宅前の水田)二度目に飛び入ったところを、大蛇の首から流れる血が、箒のように噴きつゝ飛んだので、箒溝(ほうきみぞ)と言い、(現在岩見田の溝川の流れが用水路に沿ぐ辺りの水田)最後に飛び入ったところは、大蛇の血で池となり、その池の中に深く隠れ入ったと言うので、蛇王池(じゃおうじ)と称えるようになった。」(「黄鳥の笛」より)

この場面は「しらうめ」も「たちのぶ」が「たのぶ」とつづまっている以外はほぼ同じ記述で、「黄鳥の笛」あるいは辻氏が大蛇四百二十年忌に配布したという「蛇王池物語」を引用したのかもしれない。注目すべきは箒溝という陰徳太平記にはない地名が入って三段階になっていること。そして、陰徳太平記では蛇王子となっていた池の名前が蛇王池と池の文字が入って「じゃおうじ」と読ませていることだろうか。しかし次の蛇落地の記述では若干の違いがある。

「蛇王池のあるを蛇落池(じらくじ)と呼んでいたが、のちに書き改められて現在の上楽地となった」(「しらうめ」より)

「此のを「蛇落地」(じゃらくじ)と称していたが、後に語路によって「上楽地」(じょうらくじ)と書き改められた」(「黄鳥の笛」より)

「しらうめ」の方は上記「たのぶ」と同様につづまって「じらくじ」となっている。これが案外地元の人の言い方なのかもしれない。また、地ではなく池、ここでも池の字で「じ」と読ませている。とにかく「じゃらくち」ではなく、「じゃらくじ」なのがわかる。

そして両書とも、この蛇王池のあたりは底なし沼ともいえる沼田であった由の記述がある。現地を歩いた印象では梅林小学校の裏手から扇状地の斜面が始まっていて、また有名な八木用水という灌漑用水が流れていて阿武山麓の丘陵地の印象が強い。しかし一方で池や沼など湿地であったという記述、中々頭の中が整理できない。数回歩いただけの私にはまだまだその地勢を掴みきれていないということだろうか。

 

(梅林小グランドから阿武山、近過ぎて山頂は写ってないのかもしれない)

 

(八木小グランドから見た阿武山)

 

 さて、ここで蛇落地→上楽地についてであるが、八木の地には元和5(1619)年に浄楽寺が開基となっていて、上楽地(じょうらくじ)と同じ読みである。また、宝暦12(1762)年には上楽寺という字が確認されていて、江戸時代のうちに上楽地に改められたと思われる。浄楽寺→上楽寺→上楽地という流れの中に地名としての蛇落地が入り込む余地はないと考えるのが普通だろう。浄楽寺以前はどうであろうか。陰徳太平記の中には大蛇の首が落ちた場所の地名の記述があるのに、そのものズバリの蛇落地は出てこない。香川氏が安芸の国にいた関ヶ原以前には、蛇王池はあっても蛇落地はなかったのではないかと推測できる。香川氏一族が長州や岩国に去った後ということになると、浄楽寺までほんの十年余りしかない。伝承の通り蛇落地→上楽地となった可能性はかなり薄く、また蛇落地が地名であったかどうかも大変疑わしいというのが私の心証だ。少なくとも、開発業者や不動産業者が災害地名を改めたという可能性はゼロと言っていいだろう。最初に書いたように、この部分を熱心に論じるモチベーションを持ち合わせていないのでこれぐらいにしたい。

 もっとも、八木三丁目の開発について全く問題ないと言っているのではない。「佐東町史」の地質の項(P6)に、八木の扇状地には土石流の原形をとどめていると思われる段丘がみられること、今は県営住宅を中心とした宅地化で平坦化されているところもあるが昭和二年の地形図では集落の立地や畑地利用が読み取れて氾濫原と区別できる旨の記述がある。災害地名を持ち出さなくとも、地質学者から見れば土石流の痕跡は読み取れていたと思われる。昭和30、40年代はそういうものが考慮される時代ではなかったのだろうけど。また上楽地には水害フリーの安全な土地というイメージがあるネーミングだ。人々の関心が百年に一度あるかないかの土石流より度々起きる太田川の氾濫にあったことは言うまでもないだろう。

 

 話を戻す。よく知られた地名でないとすれば、蛇落地とは何だったのか。上記伝承のように蛇王池まわりのごく限られた範囲をそう呼んだのだろうか。あるいは、誰かが上楽地をもじって蛇落地と言い始めた、すなわちこの二つが並立した可能性はないだろうか。「佐東町史」には、

「八木上楽地にある蛇落地観世音菩薩堂は弘化四年(1847)十月に阿武山頂上よりここに降されたもので、高さ一・一二メートルと、〇・五メートルの二体の観音木像がある。」

とある。この一節は上楽地と蛇落地が混在していて並立の可能性はなさそうに思える。しかし今の上楽地町内会は八木三丁目であるが蛇王池や浄楽寺は梅林駅より北て浄楽寺は八木四丁目だ。上楽寺と呼ばれた江戸中期の字がどのあたりにあったのか、浄楽寺の近くだったとすれば、南の観音様のあたりを蛇落地としても不思議ではない。観音様がらみであれば、観音菩薩が降り立ったとされる補陀落山をも意識したネーミングだったのかもしれない。

 色々書いたが、上楽地のあとに蛇落地というネーミングが行われて、地名の上楽地と並立を考えるとすれば、時代ごとの上楽地の範囲の整理が必要になってくる。昭和3年の地形図中の上楽地の文字は、今の八木四丁目の谷に書いてあるように見える。今の町内会と違うのか、それとも地図の書き方が悪いのか。最初に戻ってフジテレビの報道で蛇楽地悪谷は今の八木三丁目という話があったという。どうも整理がつかない。私は方向音痴である上に八木三丁目、四丁目に行くと全く平常心ではいられない。ここは地理に明るい人に頑張ってもらいたい。

 そろそろ終わりにしたいが、ここまでのところで興味を惹かれるのは、まずは観音信仰。「佐東町史」は阿武山から権現山にかけて観音の霊地が多いとして、5ページを割いて記述している。中世の観音信仰とはいかなるものであったのか。当時の人々は阿武山の山頂に山越阿弥陀のような霊的なものを感じたのだろうか。それならなぜ山頂の観音様は麓に降ろされたのか。弘化四年十月と月まで書いてあるのだから、原史料に何かいきさつが書いてないかとも思うのだけど、まだその元の史料が何なのかもわからない。

 そしてもうひとつ、蛇王池の碑の近くには、刀山、刀川、刀納など、太刀がつく苗字が多いという。かの大蛇退治の眼目は太刀を洗って奉納したというところにあるとすれば、この苗字の人たちはどういう人たちなのか、後の回で考えてみたい。八木の伝承は陰徳太平記の物語から大きく食い違うものではなく、元からあった話を家臣の手柄話に作り替えたような痕跡はなかった。これをどう考えるか。1532年に本当に何かあったのか、それとも陰徳太平記の記述が里帰りして伝承が歩き始めたのか。黄鳥の笛を読むと、タイトルの笛や主君からの褒美の盃が実在しているとあり、参考文献も多数列記してある。市立図書館の広島資料室にある本はかなり傷んでいるけれど、一読をお勧めしたい。

 どうもこの蛇落地については情熱が足りないというか、書いていて力不足を痛感している。しかしこのへんで先に進みたい。次は陰徳太平記と伝承をふまえて色々考えてみたいと思う。いやその前に、今年も8月20日が近づいてきた。次回は4年前をふり返ってみたい。阿武山を語りたければ、避けて通るわけにもいかないだろう。




阿武山(あぶさん)を語る(3) 大蛇退治

2018-08-16 10:30:11 | 阿武山

 前回の冒頭部分に続いて陰徳太平記の「香川勝雄(カチヲ)、大蛇ヲ斬ル事」を読み進んでみよう。重要な部分は次々回以降論じる折にまた引用する予定なので面倒ならばざっと読み飛ばしていただきたい。

 前回の大蛇がいかなるものであったかの描写に続いて、八木城主の香川光景が家臣を集めて退治を請うたが、

「仕損ジテハ香川ノ家ノ耻辱ヲ致スベキト思ヒ誰進ミ出テ退治セント云フ者コソ無リケレ」

 と誰も名乗りを上げない。この陰徳太平記は江戸初期の儒学者の記述であって、戦国初期の小豪族の家中の価値観の通りであったかどうかはわからない。天文元年という設定を信じるならば、この時期の香川光景は佐東銀山城(武田山)の武田氏の重臣であった。しかしだからと言って毛利元就と対立していたかというとそうでもなく、元就が大内氏に接近するにつれて武田氏と毛利氏の関係も悪化したということらしい。元就が離反させたとされる熊谷氏と天文二年に戦って大敗を喫したことはあったものの、光景は毛利との和を主張していた。そしてその後主戦論の武田氏家臣との対立を経て香川氏は毛利氏に従属したようだ。八木城はもちろん銀山城に近く、可部や玖村にも城があって小心者の私だったらとても安眠できない環境に思える。相当な処世術がないと生き残れなかったのかもしれない。

(安佐北区真亀、恵下山城跡から八木城跡、阿武山方面を望む。戦国時代の太田川は八木城より西を流れていて、玖村の恵下山城と八木城は地続きであったと言われている)

 

 話を進めよう。主人公の香川勝雄はこの家臣の集まりに同席しておらず、伊勢神宮からの帰途この話を聞いてそのまま光景の館に馳せ参じたという。勝雄はこの時十八歳だったというがその風貌は、

「骨太ニシテ眼(マナコ)逆サマニ裂ケ、隆準(ハナタカ)ク、口廣ク頤(オトガイ)反(ソリ)テ頬髭(ホウヒゲ)荒々ト生(オヒ)」

とその辺の若者とは全然違うようだ。光景と対面した勝雄はもちろん大蛇退治を志願する。その中で、

「素戔嗚尊(スサノヲノミコト)ハ正シク當國可愛川(エノカハ)上(カミ)ニシテ大蛇ヲ斬リ給シ先例モ候」

と、さすが毛利氏吉川氏をヨイショしている書物だけあってヤマタノオロチは可愛川説を採用している。勝雄の申し出に対して光景は三尺一寸の義元の太刀を与えた。そして二月下旬の夜、勝雄は阿武山を登っていく。ここは土石流との関連が疑われる箇所であるから引用してみよう。

「朧ノ春ノ月、俄カニ空掻キ曇リテ、山颪(オロ)シ烈シク吹キ落タルニ深谷隠レノ櫻花木ノ葉ト共ニハラ々々ト散乱シテ、時ナラヌ村雨一頻リ降リ来リ、巌(イハホ)崩レ岸裂(サケ)山鳴リ谷応(コタヘ)テ満山暗々然トシテ、物ノアヤメモ見モ分ズ、イト冷(スサ)マジカリケレバ、乗リタル馬モ進ミ兼、身振ヒシテ立テリケリ」

土石流を暗示していると言えるかどうか、普通に風雲急を告げるという描写にも思える。動かぬ馬を乗り捨てて進んで行くと、大蛇は眠っていた。

「イカニ鱗蟲ナレバトテ、一言ヲモカケズ斬ランハ寐首ヲ掻クニ等シト思ヒ、」

勝雄は名乗りを上げる。ここで「鱗蟲(りんちゅう)」とは生き物を四つに分けた時の魚と爬虫類の総称で、その属性は水であって土ではない。もし災害と蛇を結びつけるのではあれば、まずは水害だろうと思う。話を戻すと、勝雄は大蛇に火焔を吐かれながらも首を切り落とす。

「彼首始メニ落タル處ヲハ太刀ノブト云フ、?ニ飛ビ入リタル處ヲハ蛇王子ト號シテ今ニ至テ淵ヲナス、勝雄ガ太刀ヲ洗ヒシ池ヲハ太刀ノブ川トソ名付ケル」

ここで三つの地名が誕生して、三つ目が池なのに太刀ノブ川と言うのが気になる。蛇を倒して太刀を洗いその太刀が大きな力を持つというのは重要な所であって、川でなければならない理由があるのか、あるいは他所から持ってきた話を当てはめた名残と言えるかもしれない。続いて、太刀の奉納。

「彼ノ太刀ヲハ素戔嗚尊ノ鹿正(マサ)ニ斉シトテ所ノ八幡ニ奉納セリ」

そして、勝雄が大蛇の毒で両目を患ったこと、永禄十二年作州高田合戦で戦死したことが最後に記されている。今回は物語を読むに留め、次回は八木地区に伝わる伝承について書いたのちに次々回以降論じてみたいと思う。

 


阿武山(あぶさん)を語る(2) 巨象をも呑む

2018-08-14 19:23:58 | 阿武山

 前の回で書いたように、高陽地区の北側から見る阿武山は台形をしていて、よく見ると南側に三つのこぶがあり深川や中島あたりから見ると二つ目が高いようにも見える。ところが実際は一番南側が山頂で二つ目よりも約二十メートル高くなっている。高陽地区でも少し南側からみるとそれがよくわかる。

(安佐北区落合南、高陽東高校グランドから見た阿武山)

 

 この写真のように高陽地区でも少し南から見た阿武山は象の形に似ている。山頂が象の頭で鼻が権現山、そして背中が可部方向へ伸びている。まあこれは想像力の乏しい私でもそう思うのだから、ありふれた連想だろう。

 と前置きが終わったところで、そろそろ本題ともいえる陰徳太平記の大蛇退治の冒頭部分を引用してみよう。

「香川勝雄(カチヲ)、大蛇ヲ斬ル事」
天文元年ノ春、芸州佐藤郡八木村ノ内、阿生(ブ)山ノ中迫(サコ)ト云フ處ニ大蛇顕レテ往来ヲ悩乱ス、其形状ヲ聞クニ其大サ巨象ヲモ呑ムベク、其長サ崑崙(コンロン)ヲモ繞(メグリ)八丘八谷之間蔓延(はびこ)ル

国立国会図書館デジタルコレクションより

 ここで目を引くのは大蛇退治といえばヤマタノオロチのような太古の昔のお話かと思っていたら天文元年の春という設定、この陰徳太平記の執筆時期からせいぜい百年前のお話ということになる。実は天文元年は七月二十九日から始まっていて1532年の春は享禄五年だ。これは単なるミスなのか、あるいはフィクションですよと暗に告白しているのか、普通○○元年とあれば改元の月日は気になるのではないかと思うのだが。そして「往来を悩乱す」という素敵な表現に続いて問題の箇所、「その大きさ巨象をも呑むべく」とある。象を飲み込んだ蛇でピンと来るのはやはり星の王子様の冒頭の絵だろうか。これも洋の東西を問わず、と言わなくてもありふれた表現なのかもしれない。しかしここまでを頭に入れた上で改めて高陽東高校からの写真を見ると、権現山が蛇の頭に見えてくるから不思議だ。星の王子様の絵は左端にポチっと蛇の目が描いてあった記憶があるがこっちはしっかり頭がある。いやそれはどうでもいいことで問題は陰徳太平記の著者はこの阿武山の姿を頭に入れて巨象を呑むと表現したのかどうか。大きさが巨象を呑む程で長さが崑崙をめぐる程というのはあまり上手な対句とも思えない。なのにこういう表現になったということは私は阿武山の姿の意識があったのではないかと思うのだけど、陰徳太平記を著わした宣阿とその原典の陰徳記を書いた父の香川正矩ともに八木城主香川氏の子孫ながら岩国領で生まれていてこの姿の阿武山を見たかどうかは定かではない。

何かくだらない話になってしまった。次回から少しややこしい話になるので、今回はウォーミングアップということでご理解いただきたい。


阿武山(あぶさん)を語る(1) ふるさとの山

2018-08-14 13:36:52 | 阿武山

 

 ここでお話したいのは広島市安佐南区八木にある阿武山のこと。「あぶさん」と読むのが一般的だが明治から戦後まもなくまで「あぶやま」とルビを振った文献も存在する。峰続きの緑井権現山は「ごんげんやま」が一般的だ。江戸時代には頼聿庵などが阿武山の漢詩を残していてこれが音読みに影響を与えたのではないかとも思うがはっきりしない。なお、高槻市にある阿武山は「あぶやま」と読むようだ。

 さてこの阿武山、安佐北区の高陽地区在住の私にとって子供のころから朝夕に眺めた山だ。標高は586、4メートルとたいして高い山ではないけれど、旧安佐郡(おおよそ今の安佐北区、安佐南区を合わせた地域)のかなり広い範囲から見えて、当地高陽地区の北部からはなだらかな台形、少し南の矢口や緑井からは頂上が尖って秀麗な山容と二つの顔を持っている。

(安佐北区深川、三篠川の川土手から見た阿武山、左が最高峰)

 

(安佐南区川内、広島菜畑の向こうに阿武山)

 

 また、南側が海まで開けていることから広島デルタの西側からも阿武山を望むことができる。海の上からも眺めてみたいと思ってるが、まだその機会に恵まれない。

(中区西白島町、JR新白島駅から見た阿武山)

 

(西区観音新町、コカ・コーラウエスト広島スタジアムから見た阿武山)

 

 ここ数年、高齢の両親のこともあってあまり遠出できないことから、近場の安佐北区や安佐南区の小学校グランドで少年サッカーを見る機会が増えた。そのほとんどのグランドから、阿武山がよく見えた。地域の子供たちを見守る姿は私の理想であり、阿武山のようにありたいといつも願ってきた。それだけに4年前の8月、阿武山から土砂が出て多くの人命を奪ったことは大きなショックだった。何本もの土砂の傷跡が残る阿武山にしばらくは目を向けることができなかった。そして災害報道の中で、八木地区の伝承として「蛇落地」という災害地名があったとテレビ画面に出た。愛する阿武山のことであるから色々調べてみたが、これを災害地名と騒ぎ立てるのはあまり意味がないということはすぐにわかった。しかしながら、八木地区の伝承や陰徳太平記の大蛇退治の物語は実に興味深いものだった。眺めて写真を撮るだけでなく、阿武山についてもっと調べてみたいと思った。それからぼちぼち図書館にも通い、また八木地区を歩いてみたりもした。しかし図書館にじっと籠っているには不向きな性格で遅々として進まず、特に今年の夏はまた豪雨土砂災害があり酷暑でもあり、図書館に通う気力もなく、体力も落ちてきて人生の残り時間が少ないのではないかと思うようになった。そこで甚だ薄っぺらい知識ではあるけれど、ここまで調べた範囲内で何回かに分けて阿武山を語ってみたいと思う。どこか一行でも、どなたかの興味にかなうものがあれば幸いとしたい。

 

  阿武山を眺め歩けばゆきあひし君の白き歯 春立つらしも

  阿武山はふるさとの山かんちゃんのループシュートが稜線を這う

 

(安佐北区落合南、落合小学校グランドから見た阿武山)