文屋

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■「グレン・グールドは語る」を読んで、断片的にメモしてみた。

2013年01月05日 17時24分34秒 | 音楽
ハイドンのピアノソナタを収録したピアニストは、そんなに多くない。
このラストソナタをまとまって録音してるのは、グールドのほか、ブレンデルを思い出すが、
他は、リサイタルで数曲演奏したバックハウス、リヒテルも数曲ある。ぼくは、グールドでは、
「バード&ギボンズ作品集」とハイドン集をもっとも好む。一聴、バッハのようではあるが
バッハとは違う。湿り気はなく、可憐で瀟洒でもある。都会的でもある。それでいて、
深い。鋭い。ハイドンの音楽の特性がそうなのだろう。グールドは、自分の奏法にひきつけて
いるが、どこかで、ハイドンを憧憬している。



年末年始、自宅に持ち帰った本は、この一冊。グールドの声を聴いています。彼は、どうして、
シューマンやシューベルトを演奏しなかったのか、モーツァルトのあの不完全で奇態な演奏
であるのにソナタを全曲収録し、ベートーベンのハンマークラヴィーアや重要なソナタを収録
しなかったのか、そういうあたりを知りたい。グールド、ピアノ演奏の技術は、
30分で伝授できるといっている。その理由が凄い。「ムカデがそれぞれの足をどのように
動かすかを学ばないようにピアノもまた、、、、、。」と。ピアノの、
「観念化」(idealization)という言葉、とても面白い。まったく、
それは、喩的身体の話。



テーマへの煩わしさというのがあるのだろうか。手垢というか、ティピカルなものへの拒絶。
ショパンやラフマニノフは弾いていないが、ショパンのソナタは弾いている。ティピカルという
意味で、メンデルスゾーンの「無言歌」に、グールドは、自由の空気を感じ取っていたかもしれない。
もちろん、シベリウスの底なしの虚無にも。



観念化であるとか、どうでもよくなってくる。ベートーベンの6つのバガテル。
バガテルとは、「たわいもない音楽」という意味らしい。べートーベンとグールドが、
自在な生死の意志で、瞬間の存在を賭して出会っている。ほんとだよ。音楽ではない。




ピアニストが触覚的な感覚を信じていないというのは、驚き。海外の演奏会で、
不本意なピアノをあてがわれて、砂漠の道中に車の中で楽器のイメージを想起する。
そのときグールドは、車のダッシュボードにも、中空にも指を当てたりしなかったという語り。
触覚的な感触が瑕疵になるというので、頭の中だけで反芻するという。実際グールドは、
演奏会の一週間前ぐらいまでは、演奏する曲をピアノで演奏しなかったという。
それまではすべて頭の中。恐るべき、喩的人種、詩人。そりゃ、50で、死ぬわけだ。



GG 最初の講演では、ベートーベンの作品109の第一楽章を論じました。<中略>
(ところでその次の講演ではブルックナーの交響曲八番の第一楽章を論じましたが、証明
を試みた内容はほとんど同じです)。<中略>
そしてその連続する部分こそが私の関心の対象なのです。なぜならその部分は通常の呈示部
(この楽章には存在しないけれど、実在するならば)における第二主題の領域の代わりでもあり、
... また、再現部の代わりでもあるからです。<中略>
私としては、作品109のこの二箇所を分析することで、ベートーベンの
不在の根音(アブセント・ルーツ)の処理に興じていたことを結論づけたかったのです。

                    「グレン・グールドは語る」宮澤淳一訳

グールドの発言は、あきらかですね。彼は、ピアノという楽器(媒介)を信じていないようにも
感じられる。あるいは、触覚的感触をただ記号化して「裏」に隠して思考している。「不在の根音」
とは、なんと魅惑的な言葉だろう。しかもベートーベンのソナタを語りながら、ブルックナーの
第八交響曲についても同様に語っているあたり実に興味深い。
「代わり」という言葉「非在の代替」音は、そのまま「非在の代替」語と読むこともできる。
彼のいう、「観念化」とは、この「響くことのない」「根音」へと褶曲・収斂される。
根音とは、手や指の触覚や耳による聴覚ではなく、身体の芯だけがとらえる「無音」なのである。
いいかえれば「喩」の代替概念である「身」ということになる。




グレン・グールドの発言で、もっとも驚きかつ納得したのが、モーツァルトのピアノソナタに
ついて語っている言葉。グールドは、モーツァルトのピアノソナタを全曲録音しているが、
ベートーベンは、19-22、25-27番は、収録していない。
ぼくは、グールドのモーツァルトは嫌いである。グールドがなぜあれほどにつまらない
モーツァルトを弾いているのか。謎だった。「冗談だろ」「すぎた冗談だ」と思ってきた。

GG さて、ソナタ集の録音についてですが、今までであんなに愉快な企画はありませんでし
たよ。実際問題として。いちばんの理由は、作曲家としてのモーツァルトが本当に嫌いだからです。
初期のソナタは大好きです。初期のモーツァルトは本当にいい。はい、話はそれでおしまい、
なのです。              「グレン・グールドは語る」宮澤淳一訳

そのあと、GGは、嫌いな理由を「芝居がかった」「軽率な快楽主義」と語る。そして、
「男性的対女性的」「威圧的なものの誘惑的なもの」「厳しいものと優しいもの」を「互いに対置させる」
そこが嫌で、関心がないという。つまり、内実というか、求心としての「不在の根音」がない
ということなのだろう。GGが他の個所でビートルズを批判し、ペトゥラ・クラークを評価する
ように、極端な意見ではあるが、うなづける。ただ時流に自分の音楽を同調させるだけでは
音楽の「内的真=(芯)」は生まれないと言いたいのだろう。

ぼくにとってのモーツァルトは、優秀なポピュラー音楽の作曲家として魅力ということに尽きるが
GGは、それが許せなかった。まるでソナタ全集が、「嫌悪の証し」であり「暴き」であったとは。