文屋

文にまつわるお話。詩・小説・エッセイ・俳句・コピーライティングまで。そして音楽や映画のことも。京都から発信。

●神巨戦とテンシュテットと車谷長吉と、底なしの無常と。

2008年09月27日 21時31分52秒 | 日録雑感


白熱の神巨戦をラジオで聴きながら、
アイポッドでは、クラウス・テンシュテットが
91年にLPOと録音した「ベートーベンの合唱」を聴いている。
途中では、車谷長吉の自伝的私小説「贋世捨人」の
終盤を読んでいる。
小説「白痴群」を何度も何度も書き換えているところ。
テンシュテットは、宿阿の病いを押して
まさに燃焼し、さらに燃えつくしている。

表現とは、結局、作品という成果物に帰結することのみにおいて
はじめて「有」に転嫁するが、これは
作者の表現行為の本質とは、どこまでいっても交差しない。

表現行為は、物に還元されないからだ。
あるいは、表現者は、還元されてなるものかと思う。
しかるに、表現物は残る。
これは、浪漫かもしれないが
この文脈など、知ったことではない。

テンシュテットにおいてもそうだろう。
ベートーベンにおいても、
新井選手においても
車谷においても。

表現行為が表現物になるのは、「営業」においてであり
もっとも恥ずべき、しかも尊い営みで成される。
詩人の場合、これを表現者が
プレイングマネージャーとして成さざるを得ない。

表現行為は、無の文脈ではなく独我論の文脈で
はかなく「有」となり
表現物は、自然の文脈で「無」となる。

音楽のことを考えれば、このことは、すぐにわかる。

エリック・ドルフィがかつて言ったね。

「音楽は、演奏されればそこで消え去る」と。

詩もそうだと思う。

自然の文脈で、やっと存在が猶予され
自然の文脈で、齟齬としての「無」が保障される。