文屋

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◆金子光晴の「どくろ杯」を読みながら、久し振りの上海タイムトラベル

2008年01月07日 22時23分10秒 | 紀行
>>>>>この下湿の地が、開化的な今日の都会の姿になったのは、イギリスの植民地主義が、支那東岸に侵略の足場を求めて、この最良の投錨地をさがしあて、湊づくりをはじめて以来のことで、それから今日までまだ、百年ちょっとしか経っていない。>>>>>

4日から、3泊だけの安ツアーで上海に行ってきた。
上海は、1991年と2001年に行っているので今回は、3度目だった。

引用の文章(>>>>>    >>>>>)は、金子光晴の「どくろ杯」。
1930年代の上海のことを書いている。

往き帰りの機内でずっと読んでいた。

>>>>>もうその頃からこのへんは、戦火の巷で、幾度となく瓦礫地にかえり、それ以前には、くり返し、倭寇が荒らしまわっていたものであった。>>>>>

1991年、はじめて上海を訪れてその時見た風景は、
ものの見事にもう無くなっていた。
いままさに瓦礫になろうとしている古い路地の民家の壁には、
おそらく「廃棄」を意味する文字が、乱暴に大書されていて、
一帯の半分は、まさに瓦礫の屑となっている。

17年前に見た上海の光景で、あのときとほとんど変わっていなかったのは、
准海路の通りに架けられた「HITACHI」の飾りアーチだけだったような、気がする。
4日間、とにかくタクシーに乗りっぱなしで上海の町なかを移動しまくった。
どのエリアにも、まるでそれが陣地取りの陣を誇示する旗のように「スタバ」と「KFC」のロゴタイプが、わざと景観からはみでる、あるいは破るがごとくに目立っていた。

>>>>>今日でも上海は、漆喰と煉瓦と、赤甍の屋根とでできた、横ひろがりにひろがっただけの、なんの面白味もない街ではあるが、雑多な風俗の混淆や、世界の屑、ながれものの落ちてあつまるところとしてのやくざな魅力で衆目を寄せ、干いた赤いかさぶたのようにそれはつづいていた。>>>>>

かつては、ホテルの窓からは、この「かさぶた然」は見えていた。
いまは、それすら見えない。
7年前に訪れた、昔ながらの緑地公園を探しても見当たらず、なんだか、整然と管理された味も素っ気もない「都市公園」になっていた。
唯一、今回はじめて行ってみた「魯迅公園」だけは、「昔然」としていた。
なんだか、ほっとした。
闇がどこかへ隠然と消え去り、ぼこぼこに掘り返されて、
瓦礫化されつつありそこにグローバリズムのいびつな大波が襲っている。
ところが、この闇は、きっと消えてはいない。
当たり前だよね。
タクシードライバーの、鬱屈したダンディズムがそれを正直に語っていた。
あるいは、魯迅公園で自然発生的に歌いだして力強く叫んでいた「にわか民衆合唱団」のひとりひとりの怒声が、瓦礫の下の地層をあらわにしていた。

町全体が、ある種の「理想都市」としての鋳型となって整備され、
それが2、3年で形骸化し、形骸化する尻から次の鋳型が作られている。
まるで、近代都市の映画セットかテーマパークであり、
そこに、「さあ入ろう」という掛声で許容量ぎりぎりの民が放たれているという感じだ。

いいも、悪いもない。手遅れだ。

金子光晴が書いていた、戦前の上海。歴史的な地層とその鉱脈、
そこにある何かは、むしろひとつも変わっていないのかもしれない。
狂熱と覚醒そして、
どこか遠くを見据えつつ諦念を抱えた気骨だけは、
いまも生きていると信じたい。