文屋

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★萎えさせる、疲れさせる。グローバルが都市を殺しているぞ。

2005年05月19日 21時14分34秒 | 世間批評

都市は、疲れている。去年のパリも今年のニューヨークも都市は、疲れ果てているように見えた。
人の思いや、欲望や憧れが、街の光景が吸収していなくて、逆に街の光景が、急速度で、人の欲望
を追いかけている。世界の街は、どうしてしまったのだろうか。目抜き通りにあるのは、
ブランドロゴばかり。しかも目をむいている。ティファニーも老舗然としていればいいのに
なにか周囲に急かされるように、通りを歩く人間の欲望をわしづかみにしてきそうな気配。
所得階層によって色分けされた、そのブランドのロイヤルティ。しかもそれが見え見えで、薄っぺらい。
アミューズって、こんなにも下品だったのかと、唖然としてしまう。
要するに、アキハバラ化してきたぞ、と言えなくもない。階層に応じて、サービスや接客態度の審級まで
定められているようで、金のある人には、ぺこぺこして、ない人は、あっちいってなのだ。
そうした審級とは、無縁のところでエレジーを香らせ、あまたの衆の欲望をあまたの光景に濾過してきたのが
これまでの都市ではなかったのか。
その昔、日本全国の鉄道路線の駅の光景が均一化したように、世界の都市もまた、均質化している。
それが、ただ、地に馴らされて均質化するならまだしも、マーケティングの戦略に則った数値にべったりと
くっついて馴らされているのだ。都市のアミューズメントは、きっと死んでしまった。
具体的にいえば、たとえば、カーネギーデリなどの老舗が、グローバル資本の均質化した戦略に音を上げて
ただ、価格をつりあげるだけの方法しか労することができない。ティファニーは、
せっかくの下世話なストアストーリーをもっていながら、それらすべてを捨てて、つんつんしているだけの
高級店になりさがった。ほどほどの楽しみ。もともとは、都市の標準的な文化の地層は、それだけで
成り立っていたはずなのに、この「ほどほど」といった、抽象をマーケティングの文脈が、切り捨ててしまった。ZARA・GAP・MAC・STABA・・・・、この審級のコンテキストは、一昨年に行った、上海なども
まったくいっしょだ。あの街に行けば、あの場所が、あるにはある。あるにはあるけど、「あのクーキ」というものが、ない。窒息してしまう。音楽は、たとえば、画廊や古着屋でも、マイルスを何回、耳にしたことか。免罪符?マイルスがかよ。わからないでもない。
とりあえず、クールに凍らせて、大衆の欲望をヒートさせても、「買わなきゃ意味ないじゃん」とマーケッターは考えているのだろう。セントラルパークの貯水池が、原始のようで、それだけが妙にリアルだった。
MOMAの容れ物は、まずまずだったが、現代美術をカタログ(文化的だが無策の階層化)化して、私らに
どう見ろと言うのだろうか。あれは、まるで、陳列倉庫だ。2時間待ちで、見せられるのが、陳列なのだからね。10年ぐらい前に行ったパリもニューヨークもエレジーが匂っていた。寂しくなるゆとりが街にあった。
寂しくも悲しくもなれない、都市なんて、地層に孔があいている。