夕張市の閉校(小学校) ※赤字はレポート済
- 夕張市立真谷地小学校(1975年真谷地西小へ統合)
- 夕張市立夕張第二小学校(1975年統合により旭小へ)
- 夕張市立丁未小学校(同上)
- 夕張市立福住小学校(同上)
- 夕張市立鹿島東小学校(1978年鹿島小へ統合)
- 夕張市立鹿島小学校奥鹿島分校(1956年桜ヶ岡小から改称、1978年鹿島東小から移管、1980年6月30日鹿島小へ統合)
- 夕張市立夕張第一小学校(1983年旭小と統合し夕張小へ)
- 夕張市立旭小学校(1983年夕張第一小と統合し夕張小へ)
- 夕張市立若菜小学校(1983年若菜東小と統合し若菜中央小へ)
- 夕張市立若菜東小学校(1983年若菜小と統合し若菜中央小へ)
- 夕張市立沼ノ沢小学校(1985年真谷地西小と統合し緑小へ)
- 夕張市立真谷地西小学校(1985年沼ノ沢小と統合し緑小へ)
- 夕張市立紅葉山小学校(1986年統合によりのぞみ小へ)
- 夕張市立登川小学校(同上)
- 夕張市立楓小学校(同上)
- 夕張市立清水沢小学校〈初代〉(1989年清陵小と統合し清水沢小〈2代目〉へ)
- 夕張市立清陵小学校(1989年清水沢小〈初代〉と統合し清水沢小〈2代目〉へ)
- 夕張市立南部小学校(1990年遠幌小と統合し幌南小へ)
- 夕張市立遠幌小学校(1990年南部小と統合し幌南小へ)
- 夕張市立鹿の谷小学校(1997年)
- 夕張市立鹿島小学校(1998年)
- 夕張市立富野小学校(2001年)
- 夕張市立幌南小学校(2008年清水沢小へ統合)
- 夕張市立清水沢小学校〈2代目〉(2011年統合により夕張市立ゆうばり小学校へ)
- 夕張市立夕張小学校(同上)
- 夕張市立滝の上小学校(同上)
- 夕張市立若菜中央小学校(同上)
- 夕張市立緑小学校(同上)
- 夕張市立のぞみ小学校(同上)
中学校
- 夕張市立若菜中学校(1949年11月25日鹿ノ谷中と統合し若鹿中〈1950年千代田中へ改称〉へ)
- 夕張市立鹿ノ谷中学校(1949年11月25日若菜中と統合し若鹿中へ)
- 夕張市立真谷地中学校(1952年沼の沢中と統合し向陽中へ)
- 夕張市立沼の沢中学校(1952年真谷地中と統合し向陽中へ)
- 夕張市立北陵中学校(1979年東山中へ統合)
- 夕張市立夕張第一中学校(1983年東山中と統合し夕張中〈初代〉へ)
- 夕張市立東山中学校(1983年夕張第一中と統合し夕張中〈初代〉へ)
- 夕張市立登川中学校(1987年向陽中と統合し緑陽中へ)
- 夕張市立向陽中学校(1987年登川中と統合し緑陽中へ)
- 夕張市立鹿島中学校(1996年)
- 夕張市立夕張中学校〈初代〉(2005年)
- 夕張市立幌南中学校(2008年清水沢中へ統合)
- 夕張市立緑陽中学校(2010年統合により夕張市立夕張中学校〈2代目〉へ)
- 夕張市立清水沢中学校(同上)
- 夕張市立千代田中学校(同上)
高等学校
- 北海道夕張真谷地高等学校(1967年)
- 北海道夕張登川高等学校(1971年)
- 北海道夕張東高等学校(旧北海道夕張鹿島高等学校、1983年閉校)
- 北海道夕張南高等学校(1992年北海道夕張高等学校へ統合)
- 北海道夕張北高等学校(1992年夕張高へ統合、1994年閉校)
- 北海道夕張緑ヶ丘実業高等学校(旧北海道夕張工業高等学校、2003年閉校)
※wikipediaより
「旧夕張市立緑小学校」
※夕張市史より
開校:昭和60(1985)年
閉校:平成23(2011)年
校舎:昭和60(1985)年竣工
夕張市沼の沢351
沼の沢は夕張市の町を「Y」の字に似せると
左右の斜線から縦線で合流し、少し南に下ったところである。
緑小学校は、旧沼の沢小学校と旧真谷地西小学校が統合し
旧沼の沢小の校舎を活用したものだ
閉校後も校門の校名プレートや校章も緑小そのままになっていた。
閉校後は「沼の沢郵便局」として使用されている
閉校校舎を郵便局とは面白い活用だ これは全国で初だという。
コンクリート造り3階建ての校舎には壁面にかわいらしい絵が描かれていて和まされる。
これはいつの時代に描かれたものかは未調査。
ここでの特筆は前庭にある二宮像である
閉校の多い夕張でも二宮像はそんなにないはず
台座の「まこと」も時代を表せている これは旧沼の沢小学校時代のものであろう。
グラウンドの向こうに旧緑陽中学校が見えるが
共同で使用したグラウンドと思う。
町の郵便局として地元の人は「沼の沢」の名前が帰ってきて嬉しいのでは?
と思うがどうだったのか。
2022年11月撮影
「旧夕張市立沼の沢小学校」
※夕張市史より
開校:昭和27(1952)年
閉校:昭和60(1985)年
校舎:()年竣工
夕張市沼の沢
沼の沢は国道452号線を中心に左右に羽を広げたような地形で左右のほとんどは山中である。
街は国道沿いにあり沼の沢小学校もそうであった。
真谷地小学校を統合した真谷地西小学校と統合し緑小学校となった。
校庭の木々に中にある二宮像は沼の沢小学校時代に建立されたもののようだ。
「旧夕張市立緑陽中学校」
※夕張市史より
開校:昭和62(1987)年
閉校:平成22(2010)年
校舎:昭和63(1988)年竣工
夕張市沼の沢38
緑陽中学校は昭和62(1987)年に旧登川中学校と旧向陽中学校が統合して出来た学校で
場所は向陽中学の跡地を使用。
旧向陽中学校は旧沼の沢中学校と旧真谷地中学校を統合した学校で
沼の沢中学の跡地を使用しているので大元は沼の沢中学である。
そして平成22年に4中校(緑陽・幌南・千代田・清水沢)が統合し
清水沢中学の校舎を活用して「夕張中学校」となり全校閉校となる。
これで夕張市の中学校は1校となった。
現在も452号線沿いに校門と校名プレート、校舎には校章をそのまま残している。
これは隣の旧緑小学校も同じだ。
結構奥まった位置に校舎があり
校舎より先に旧緑小学校と共用したであろうグラウンドが目に入る。
コンクリート造り3階建ての校舎はドアに導入された小窓が多いデザインが
当時は斬新だったのだろうと推察した。
沼の沢の小中学校は両方とも再活用され歴史を重ねるだろう。
現在はNPO法人「あ・りーさだ」(ポルトガル語で笑顔)が再活用している
旧緑小学校
2022年11月撮影
「旧夕張市立向陽中学校」
※夕張市史より
開校:昭和27(1952)年
閉校:昭和62(1987)年
校舎:昭和25(1950)年竣工
夕張市沼の沢38
向陽中学校は昭和27年に旧沼の沢中学校と旧真谷地中学校が統合して出来た中学で
校舎は旧沼の沢中学を使用。
旧沼の沢中学校の新校舎竣工が昭和25年なので、完成から2年で校名が変わったことになる。
その向陽中学校も昭和62年に旧登川中学校と統合して緑陽中学校となった
校舎はやはり向陽中学の校舎を使用した。
「旧夕張市立真谷地西小学校」「旧北海道夕張真谷地高等学校」
※夕張市史より
開校:大正8(1919)年
閉校:昭和60(1985)年
校舎:昭和16(1941)年竣工
夕張市真谷地
真谷地地区は夕張市の町を「Y」の字にあてはまめると、縦棒の途中から右に派生する行き止まりの地区で炭鉱のために造られた町である。
さらに奥地に真谷地小学校が先に開校しており、分教所として開校した。
昭和50年、先に真谷地小学校が閉校になり統合をした。
跡地に行ってみると校舎は解体されたが校名プレートが無い校門は残っており目印になった。
道路と学校敷地の間に小川があり、そこに架かっていた橋はすでに落ちていて生徒が制作したであろう奇妙なマスクのオブジェ?があった。
この橋を渡ってすぐが学校正面で裏側が校庭だったようだ。
今は一面広い空き地に背の高い雑草が茂っており、校舎の名残りはなし
だが左手奥に窪地があり、そこに閉校記念碑があった。
残念ながら笹薮密集のため近くまで行く気にならずズーム撮影のみとなる。
「旧真谷地高校」は昭和28年定時制一学級・生徒数57名で発足 旧真谷地西小学校と校舎を共用した。
昭和30年には生徒数89名まで増加したが
昭和42年に閉校している。
校舎側から
2022年11月撮影
「旧夕張市立真谷地小学校」「旧夕張市立真谷地中学校」
※立ち入り禁止地区のため入れず
※夕張市史より
※明治/大正/昭和 夕張より
開校:明治43(1910)年
閉校:昭和50(1975)年
校舎:昭和16(1941)年竣工
夕張市真谷地
北炭真谷地炭鉱が明治38年に炭鉱を買収し真谷地抗と名付ける。
明治43年、小学校が開校
昭和50年、閉校
昭和62年、北炭真谷地炭鉱の閉山。
多くの炭鉱町と同じくヤマが閉山すると人がいなくなり
あれだけたくさんあった炭鉱住宅や学校が無くなり廃村となった。
現在は市内方面にわずかな民家があるだけで、炭鉱跡までは車両は通行止めであり
単独の徒歩行動はヒグマや足場の不安など危険が伴う。
学校はその奥にあり、すでに解体されている
笹薮の中に閉校記念碑がポツンとあるだけだ。
その碑が建っている場所は神社の敷地で,学校跡はわずかに離れた場所にあったそうだ。
複数で行けば探索も楽しいのかも知れないが単独ではリスクが高い。
「旧真谷地中学校」は昭和22(1947)年に設置され校舎を真谷地小学校と併用した
(昭和27年閉校)
「旧夕張市立楓小学校」
※夕張市史より
開校:明治39(1906)年
閉校:昭和61(1986)年
校舎:大正7(1918)年竣工
夕張市楓47
楓小学校は登川小学校と近くの距離にある学校だった。
現在「楓生活館」の横に記念碑があるが、この前の道路は旧国道274号線で
そこから数十メートルを山に向かい坂道を上ったところに校舎があった。
すでに解体されて基礎の一部だけ残っているようだけなので
そこまでは行かなかった。
「楓生活館」は旧校舎とは関係がないようだが
碑のそばにある遊具は学校のものだろう
おそらく学校の校庭にあったものをここに移設したのではないかと思う。
それにしてもサビついたブランコやうんていの支柱はよく見るが
こういうシチュエーションでの回旋塔は初めてみた。
記念碑は立派な石碑であった
ただ藪がうるさいので、まだ晩秋の訪問で良かった。
またこの崖の上に校舎があった。
楓小学校は楓炭鉱(1906年採炭~1987年閉山)のための学校であった。
2022年11月撮影
「旧夕張市立登川小学校」
※夕張市史より
開校:大正2(1913)年
閉校:昭和61(1986)年
校舎:昭和26(1951)年竣工
夕張市登川
登川小学校と登川中学校は国道274号線を挟んでほぼ対角にあった。
中学校は一段高くなった山にあるので小学校校舎が見えていたのだろう。
立派な閉校記念碑自体は校舎跡とは違う場所にあり、ちょうど中間点に設置されていた。
仲良く2つ並んでいる これは珍しい部類だ。
小学校校舎は274号線を穂別に向かって左側にあった。
目印は記念碑設置場所の手前にある左に分ける枝道を入ると、もう左側の雑草地帯の奥が小学校校舎だった。
JR石勝線のシェルターあたりから藪を掻き分け覗いてみると水色の何かが見える
これはプールと更衣室で校舎とは隣接していなかった。(登川プールは市営プールでもある)
実際の校舎はそこの北側(山側)にあった。
登川小学校は元々は三井鉱山(1909年登川炭鉱採炭開始)の作った学校であったという。
登川炭鉱は昭和28(1953)年に閉山したが、近くの真谷地抗の閉山と併せて閉校したようだ。
シェルター横の一段高くなったところから覗いてみる
こちらからは藪がひどすぎて行く気にはならない。
本来の小学校跡へ続く道 山側に校舎があった。
2022年11月撮影
「旧夕張市立登川中学校」「旧北海道登川高等学校」
※夕張市史より
ここに両校の記念碑が立つ
開校:昭和22(1947)年
閉校:昭和62(1987)年
校舎:昭和26(1951)年竣工
夕張市登川
登川中学校は国道274号線とJR石勝線の高架が交わったところを右に入る
これがすでに通学路で、石橋を渡って登っていくと校舎があった。
小高い丘の中腹にある校舎は正面から左右に一直線で端に体育館があった。
枝道に入ったときに石橋は倒木で通れないこと
徒歩も閉校巡りの終盤であり疲れがあることで、ここで引き返した。
坂道の途中に生徒が作ったオブジェが残っているとのことなので
機会があれば見に行こうと思う。
閉校年は登川小学校と1年違いで、やはり真谷地抗の閉山に合わせたかも知れない。
「旧登川高校」は定時制で発足。 一学級・生徒数58名であった
旧登川中学校の校舎を使用した。
昭和29年では生徒数107名までになったが
昭和46(1971)年に閉校。
国道から高架の横を入る
車では通らない方が良い 左手に通学路が続く
2022年11月撮影
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