海鳴記

歴史一般

日本は母系社会である(4)

2016-12-29 10:29:46 | 歴史

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 たとえば武家(ぶけ)社会(しゃかい)では、跡取(あとと)りの男子(だんし)がいない場合(ばあい)、婿養子(むこようし)をとって家を存続(そんぞく)させることは普通(ふつう)のことだった。それは大名家(だいみょうけ)を含(ふく)め、上級(じょうきゅう)、下級(かきゅう)にかかわらず、ほぼ徹底(てってい)していた。そのためにそれなりの系図(けいず)も整(ととの)えていた。養子縁組(えんぐみ)で釣(つ)り合(あ)わせる家格(かかく)があるからである。またそういうことをしなければ、代々(だいだい)受(う)け継(つ)いできた禄(ろく)、すなわち収入(しゅうにゅう)がなくなる恐れ(おそれ)があったのである。

 なるほど、武家政権(せいけん)が滅(ほろ)んだ明治以後(いご)、家禄(かろく)は廃(はい)され、代々(だいだい)の系図などあまり意味(いみ)をなさなくなってしまった。しかし、明治以降(いこう)の支配層(しはいそう)は、江戸(えど)時代(じだい)の支配層だった武士出身(しゅっしん)階層(かいそう)がそのまま政治家(せいじか)や高級(こうきゅう)軍人(ぐんじん)・役人(やくにん)及(およ)び知識階級(ちしきかいきゅう)の大半(たいはん)を占(し)めたのである。これは当然(とうぜん)といえば当然だろう。なぜなら、江戸期(えどき)の庶民層(しょみんそう)の識字率(しきじりつ)がどんなに高くとも、支配機構(きこう)の中核(ちゅうかく)を占めるほどの知識(ちしき)を身(み)につけたわけではなかったからである。おまけに、明治維新(いしん)の推進力(すいしんりょく)は百姓(ひゃくしょう)や町人(ちょうにん)ではなく、大半は下級(かきゅう)だが、武士層(ぶしそう)から沸(わ)き上(あ)がった「革命(かくめい)」だったのだから。

 そういうわけで、明治期になって功(こう)なり名(な)とげた人物(じんぶつ)たちにとって、たとえどこかで取り繕(つくろ)っていたとしても、彼(かれ)らの先祖(せんぞ)を書(か)きたてるのはそれほど難(むずか)しいことではなかった。さらに、彼らの中から選(えら)ばれた「華族(かぞく)」になればなおさら、系図(けいず)を並(なら)べあげても不思議(ふしぎ)ではない。いわんや、周(まわ)りには、長(なが)い家系(かけい)を誇(ほこ)る公家(くげ)出身者(しゅっしんしゃ)がほとんどを占めていたのである。要(よう)するに、明治期の華族階層(かいそう)は、形式上(けいしきじょう)でも、長い間(あいだ)父系(ふけい)相続(そうぞく)を維持(いじ)してきた家系(かけい)がほとんどだったのである。


日本は母系社会である(3)

2016-12-29 10:11:55 | 歴史

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 確(たし)かに、奈良原繁と関連(かんれん)がないとはいえない、ある子孫家(しそんけ)から系図(かけいず)は見つかっている。ただそれは、(だれ)作成(さくせい)したのか不明(ふめい)で、また郡部(ぐんぶ)出身(しゅっしん)郷士(ごうし)推測(すいそく)される、ある奈良原家(ならはらけ)家族(かぞく)を、どの系統(けいとう)かはっきりしない城下(じょうか)の奈良原家に無理(むり)やり(く)(い)れた系図のようであった。

 それ以外(いがい)(はん)公的(こうてき)史料(しりょう)にもポツリ、ポツリと奈良原家は見い出すことはできた。それらによれば、戦国(せんごく)末期(まっき)(きょう)出向(でむ)いていた、当時(とうじ)薩摩(さつま)藩主(はんしゅ)(ともなわ)れて薩摩(い)りしていることがわかる。つまり、奈良原家は在地(ざいち)家系(かけい)ではなかったようだ。そしてその(ご)末期(ばくまつき)には鹿児島(かごしま)城下(じょうか)四家(よんけ)奈良原(せい)(そんざい)していた。墓石(ぼせき)調査(ちょうさ)から本家(ほんけ)らしき(いえ)推測(すいそく)できた。しかし、その家同士(どうし)のつながりなど皆目(かいもく)わからなかったのである。

 最初(さいしょ)、幕末期の(さつえい)戦争(せんそう)明治後(めいじご)西南(せいなん)戦争(せんそう)(や)かれ、そのため資料(しりょう)(うしな)われてしまったのだろうか、とそんなふうに(かんが)えた。そう考えるしかなかった。 

 だが、爵位(しゃくい)をもらった(ころ)や、また晩年(ばんねん)に「伝記(でんき)」が書かれた頃、どうして自分で調(しら)べたり、あるいは調査(ちょうさ)させたりしなかったのだろうか、と不思議(ふしぎ)(おも)うようになった。がそれなりの地位(ちい)名誉(めいよ)(きず)くと、先祖(せんぞ)系譜(けいふ)(お)いたがるのだから。たとえ(うたが)わしい、あるいは虚構(きょこう)系譜でも、さももっともらしく(つく)(だ)された家系は、徳川家(とくがわけ)などの(れい)(あ)げるまでもなく、(かぞ)えあげればキリがないだろう。奈良原繁も先祖調べあげるのは簡単(かんたん)だったはずだ。当時(とうじ)なら、親族(しんぞく)関係(かんけい)(い)証人(しょうにん)はゴロゴロいただろうし、確認(かくにん)する時間(じかん)経済力(けいざいりょく)もあった。しかしながら、奈良原繁男爵(だんしゃく)はそうしなかった。かれの先祖は、(けっ)して口外(こうがい)できないようなでなかったにもかかわらず、である。