海鳴記

歴史一般

日本は母系社会である(2)

2016-12-28 13:48:32 | 歴史

                      (2)

 奈良原(ならはら)繁(しげる)は、その事業(じぎょう)の成功(せいこう)を足掛(あしがか)りに、明治(めいじ)十六(じゅうろく)(1883)年(ねん)には静岡(しずおか)県令(けんれい)。その翌年(よくねん)には上野(うえの)・青森間(あおもりかん)の鉄道(てつどう)敷設(ふせつ)のために設(もう)けられた日本鉄道会社(がいしゃ)の社長(しゃちょう)を歴任(れきにん)。それから明治二十五(にじゅうご)(1892)年には沖縄(おきなわ)県令(けんれい)となり、その地位(ちい)を明治四十一(よんじゅういち)(1908)年まで保持(ほじ)し、「琉球(りゅうきゅう)王(おう)」などと揶揄(やゆ)されたりもした。そしてこの間(あいだ)の明治二十九(にじゅうきゅう)年には、男爵位(だんしゃくい)を授(さず)けられ華族(かぞく)に列(れっ)せられている。  

 こういう地位(ちい)に就(つ)いた人物(じんぶつ)だから、亡(な)くなる二年前(にねんまえ)の大正五(たいしょう・ご)(1916)年には、『南島夜話(なんとう・やわ)と題(だい)された、かれの「伝記(でんき)」が出版(しゅっぱん)されている。ところがそこには、先祖(せんぞ)の系図(けいず)がないのである。つまり、かれの父(ちち)以前(いぜん)の先祖名(せんぞめい)が書(か)かれていないのだ。

 私は、奈良原が関(かか)わった、幕末期(ばくまつき)の文久(きぶんゅう)(1862)年の英国人(えいこくじん)殺傷(さっしょう)事件(じけん)、いわゆる「生麦(なまむぎ)事件」を調(しら)べながら、私なりに丹念(たんねん)に彼(かれ)の先祖(せんぞ)を追(お)ってみた。ところが、やはりどうしてもわからなかったのである。

 もとより奈良原家(け)の禄高(ろくだか)は、薩摩藩内(さつまはんない)では決(けっ)して低(ひく)かったわけではない。階層(かいそう)分化(ぶんか)がはっきりしている藩内では、中層(ちゅうそう)の中(ちゅう)か下(げ)といったところだろう。西郷(さいごう)や大久保(おおくぼ)を含(ふく)め、維新期(いしんき)に活躍(かつやく)した薩摩藩士(はんし)の大半(たいはん)が、いわゆる下層階級(かそうかいきゅう)の武士(ぶし)だったのに比(くら)べれば、かなり恵(めぐ)まれたほうであった。それなのに、祖父(そふ)の名前(なまえ)さえはっきりしないのである。


日本は母系社会である(1)

2016-12-28 13:22:14 | 歴史

                   

         

                           (1)

 現代(げんだい)の日本(にほん)社会(しゃかい)の基層(きそう)には、母系(ぼけい)連鎖(れんさ)の流(なが)れが連綿(れんめん)として続(つづ)いている。あるいは逆(ぎゃく)に捉(とら)えれば、父系(ふけい)連鎖(れんさ)の観念(かんねん)が非常(ひじょう)に弱(よわ)い。だから、ほとんどの日本人家族(にほんじんかぞく)の三・四代前(さん・よんだいまえ)の先祖(せんぞ)がよくわからなくなる。また別(べつ)な言い方(かた)をすると、現在(げんざい)でも大多数(だいたすう)の日本人家族(かぞく)は、父方(ちちかた)より母方(ははがた)の親族(しんぞく)との結(むす)びつきがより強(つよ)いと思(おも)われる。

 

 私(わたし)は、幕末期(ばくまつき)から明治末期(めいじまっき)頃(ごろ)まで、政界(せいかい)の中枢(ちゅうすう)とは言(い)えないまでも、それなりに日本社会の支配層(しはいそう)を形成(けいせい)した薩摩藩(さつまはん)出身(しゅっしん)の一人物(いちじんぶつ)の足跡(そくせき)を追(お)ったことがある。名前(なまえ)を奈良原(ならはら)繁(しげる)<喜八郎(きはちろう>といい、幕末期(まつき)には藩父(はんぷ)・島津(しまづ)久光(ひさみつ)の信頼(しんらい)をえて、破格(はかく)といってもいい出世(しゅっせ)をしている。明治になると、一時(いちじ)、藩内(はんない)革新派(かくしんは)から守旧(しゅきゅう)派とみなされ逼塞(ひっそく)したこともあったが、やがて島津・忠義(ただよし)本家(ほんけ)や久光家の家令(かれい)となり、明治十一(じゅういち)(1878)年(ねん)、つまり西南戦争(せいなんせんそう)の翌年(よくねん)、大久保(おおくぼ)利通(としみち)の引き(ひ)で中央(ちゅうおう)政府(せいふ)入(い)りした。そしてすぐに、大久保らが掲(かか)げた殖産(しょくさん)興業(こうぎょう)政策(せいさく)の目玉(めだま)の一(ひと)つだった安積(あさか)<猪苗代湖(いなわしろこ)>疎水(そすい)事業(じぎょう)<福島県(ふくしまけん)郡山市(こおりやまし)>の政府側(せいふがわ)責任者(せきにんしゃ)となったのである。        


日本は母系社会である

2016-12-28 12:58:31 | 歴史

                          

                          はじめに

 ブログを再開するのは、本当に久しぶりになる。2011311日の大震災・原発事故以降、私は昨年まで福島県内やその周辺を何回か往き来した。そういう行動をとらせた理由は、主に二つあった。一つは、私は東北生まれだったこと。もう一つは、若い頃、原発関連の仕事をしたことがあったことであった。後者に関しては、長くなるのでここでは説明できないが、前者に関しては、20年近く鹿児島で暮らしたことと大いに関係があった。

 それは、同じ日本でも、気候風土から歴史や文化に至るまで、こんなにも地域差があるものなのかという鹿児島での生活実感であった。そして、生まれて11歳でそこを去り、肌合いとして忘れかけた日本の東北という地域を、もう一度実感したかったのである。それだけと言えばそれだけであった。だから、二つ目の理由もそうなのだが、ここで綴る大袈裟な題とは直接的な繋がりはない。しかしこれから展開する<文化論>は、鹿児島時代からずっと連関しているし、考えてきたことである。そして私の場合、すべては「生麦事件」から始まる。

 

*最近とみに視力が衰えたため、書物よりネット検索で資料を確認することが多くなった。だからネット情報から直接引用したものも多いことをお断わりしておく。ただ、この論を推し進めていくうえで、最低限必要な文献は書物を利用している。日本語のウィキぺディア等の情報がまだまだ信頼に欠けるというより、その情報源がはっきりしないからである。その点、書籍文献は何を参考にしてそう論じているのか明解である。

*日本人だけでなく、日本語を習い始めた外国人にも読んでもらいたいため、日本人に煩わしく思われるのを承知でくどいほど(ルビ)をふることにした。なぜならインターネット(ブログ)は世界に繋がっているからである。だから、ひらがなを勉強した外国人なら、辞書を片手に内容は読み取れるのではと思ったのである。そもそも漢和辞典を使用するのは日本人でも面倒なのだから。