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奈良原(ならはら)繁(しげる)は、その事業(じぎょう)の成功(せいこう)を足掛(あしがか)りに、明治(めいじ)十六(じゅうろく)(1883)年(ねん)には静岡(しずおか)県令(けんれい)。その翌年(よくねん)には上野(うえの)・青森間(あおもりかん)の鉄道(てつどう)敷設(ふせつ)のために設(もう)けられた日本鉄道会社(がいしゃ)の社長(しゃちょう)を歴任(れきにん)。それから明治二十五(にじゅうご)(1892)年には沖縄(おきなわ)県令(けんれい)となり、その地位(ちい)を明治四十一(よんじゅういち)(1908)年まで保持(ほじ)し、「琉球(りゅうきゅう)王(おう)」などと揶揄(やゆ)されたりもした。そしてこの間(あいだ)の明治二十九(にじゅうきゅう)年には、男爵位(だんしゃくい)を授(さず)けられ華族(かぞく)に列(れっ)せられている。
こういう地位(ちい)に就(つ)いた人物(じんぶつ)だから、亡(な)くなる二年前(にねんまえ)の大正五(たいしょう・ご)(1916)年には、『南島夜話(なんとう・やわ)』と題(だい)された、かれの「伝記(でんき)」が出版(しゅっぱん)されている。ところがそこには、先祖(せんぞ)の系図(けいず)がないのである。つまり、かれの父(ちち)以前(いぜん)の先祖名(せんぞめい)が書(か)かれていないのだ。
私は、奈良原繁が関(かか)わった、幕末期(ばくまつき)の文久(きぶんゅう)二(1862)年の英国人(えいこくじん)殺傷(さっしょう)事件(じけん)、いわゆる「生麦(なまむぎ)事件」を調(しら)べながら、私なりに丹念(たんねん)に彼(かれ)の先祖(せんぞ)を追(お)ってみた。ところが、やはりどうしてもわからなかったのである。
もとより奈良原家(け)の禄高(ろくだか)は、薩摩藩内(さつまはんない)では決(けっ)して低(ひく)かったわけではない。階層(かいそう)分化(ぶんか)がはっきりしている藩内では、中層(ちゅうそう)の中(ちゅう)か下(げ)といったところだろう。西郷(さいごう)や大久保(おおくぼ)を含(ふく)め、維新期(いしんき)に活躍(かつやく)した薩摩藩士(はんし)の大半(たいはん)が、いわゆる下層階級(かそうかいきゅう)の武士(ぶし)だったのに比(くら)べれば、かなり恵(めぐ)まれたほうであった。それなのに、祖父(そふ)の名前(なまえ)さえはっきりしないのである。
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