さて、『破竹・雷撃本営雑誌』の発見者である金子氏の前書の後に、「補記」として所崎氏が「解題」のようなものを書いているので、それを追ってみることにする。歴史研究者なら、史料の真偽確認は、大事な作業の一つだろうから。
まず所崎氏は、この史料は、大分県境に近い宮崎県延岡市俵野(ひょうの)の児玉熊四郎宅で、西郷の大将服や書類を焼き捨てた際、焼け残ったものだろうとほぼ断定している。
当時(明治10年8月中旬)、西郷の主力部隊は、官軍の大軍に追い詰められ、進退窮まる状況だった。そして、西郷を囲む児玉熊四郎宅の軍議で、ついに鹿児島へ引き返す案が決定し、あの有名な可愛(えめ)岳突破の策に至るのだった。詳しいことは知らないが、その際、身軽になることも含め、敵側に渡したくない書簡類や西郷の大将服を焼き捨てたことは事実らしい。
つまり、闇をついて可愛岳に向った後、児玉宅に押し入った官軍の兵が、これを見つけたのだろう、と所崎氏は推測している。その根拠として、記録帳の最後のページに「俵野追撃の際、焚過(焼け焦がれ)タル書を拾ヒ得タル也、若月氏所持」と記されていたからである、と。
その後、国会図書館の前身である帝室図書館が大正13年9月5日(注)に購入しているので、48年間所在不明だったようだ。そして、この間のことを、さきの金子氏の調査によれば、政府軍戦死者名簿に、若月氏は一名存在するとし、明治10年9月15日に死亡しているとしている。確かに、たまたま私が所持している『靖国神社忠魂史 西南の役』(青潮社)にも、この若月氏は、「若月誠 軍曹、第3旅(団) 名鎮歩6連3大2中(所属)山口(県出身)明治10年9月15日(長崎陸軍病院にて死亡)」とある。それゆえ、所崎氏は、もしこれが、記録帳の最後のページにある若月氏だとすれば、8月17日(西郷らが可愛岳突破に向った日)あたりは元気であったので、延岡俵野の児玉宅でこれを見つけ、その後、西郷軍の南下する途中で負傷し、9月15日、長崎で死亡したことになる、と結論づけている。また、若月氏が所持していた記録帳や断簡(西郷から辺見十郎太宛の手紙もあったらしい)類は、この間に誰かの手に渡ったのだろう、と。
(注)・・・のちに出てくる帝室図書館の印には、大正12年2、5、購求となっており、どうして大正13年9月5日なのかわからない。
まず所崎氏は、この史料は、大分県境に近い宮崎県延岡市俵野(ひょうの)の児玉熊四郎宅で、西郷の大将服や書類を焼き捨てた際、焼け残ったものだろうとほぼ断定している。
当時(明治10年8月中旬)、西郷の主力部隊は、官軍の大軍に追い詰められ、進退窮まる状況だった。そして、西郷を囲む児玉熊四郎宅の軍議で、ついに鹿児島へ引き返す案が決定し、あの有名な可愛(えめ)岳突破の策に至るのだった。詳しいことは知らないが、その際、身軽になることも含め、敵側に渡したくない書簡類や西郷の大将服を焼き捨てたことは事実らしい。
つまり、闇をついて可愛岳に向った後、児玉宅に押し入った官軍の兵が、これを見つけたのだろう、と所崎氏は推測している。その根拠として、記録帳の最後のページに「俵野追撃の際、焚過(焼け焦がれ)タル書を拾ヒ得タル也、若月氏所持」と記されていたからである、と。
その後、国会図書館の前身である帝室図書館が大正13年9月5日(注)に購入しているので、48年間所在不明だったようだ。そして、この間のことを、さきの金子氏の調査によれば、政府軍戦死者名簿に、若月氏は一名存在するとし、明治10年9月15日に死亡しているとしている。確かに、たまたま私が所持している『靖国神社忠魂史 西南の役』(青潮社)にも、この若月氏は、「若月誠 軍曹、第3旅(団) 名鎮歩6連3大2中(所属)山口(県出身)明治10年9月15日(長崎陸軍病院にて死亡)」とある。それゆえ、所崎氏は、もしこれが、記録帳の最後のページにある若月氏だとすれば、8月17日(西郷らが可愛岳突破に向った日)あたりは元気であったので、延岡俵野の児玉宅でこれを見つけ、その後、西郷軍の南下する途中で負傷し、9月15日、長崎で死亡したことになる、と結論づけている。また、若月氏が所持していた記録帳や断簡(西郷から辺見十郎太宛の手紙もあったらしい)類は、この間に誰かの手に渡ったのだろう、と。
(注)・・・のちに出てくる帝室図書館の印には、大正12年2、5、購求となっており、どうして大正13年9月5日なのかわからない。