海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・『破竹・雷撃本営雑誌』とは (21)

2010-04-26 08:54:06 | 歴史
 ただ高岡という場所は、現在の地図帳を頼りにすれば、小林本営から上荘内に至る道筋にはない。小林から上荘内まで、郷継ぎをもってすれば、小林の次ぎは高原、その次ぎは高崎で、最後が上荘内(都城市)に至る。いわば、大淀川上流に向って南下しているのに対して、高岡という地は、大淀川下流に東行する途中の宮崎の手前にあるのである。それゆえ、前日の大河平の件とは、関係ないと判断していいように思える。
 
 以上、この『本営雑誌』の大河平関係記事への追跡は終わった。ただ、その間の薩軍の空気を伝えるため、戦闘や異動の報告以外の斬罪処刑の記事もピックアップしてきた。これは、何も薩軍を貶めるために掲載したわけでは勿論ない。英雄の獅子奮迅の戦いばかり喧伝されてきたきらいのあるこの戦争絵巻を、よりリアルな戦争史に戻したいためである。そうでなければ、この戦争中、なぜ大河平事件のような理解し難い陰惨で残酷な殺戮が行われたのか、皆目見当もつかないからである。
 閑話休題。私は、つい最近、『黒船以降 政治家と官僚』という題の対談集を読んだ。対談者の一人は、もともと近代イスラム・中央アジア史の研究者で、維新史にも造詣の深い山内昌之氏ともう一人は歴史作家の中村彰彦氏である。その中で、幕末水戸藩の、ある報復合戦の顛末を述べた件(くだり)があった。
 それは、文久3年(1863)、水戸藩の過激派である藤田東湖の四男・小四郎や武田耕雲斉らが、幕府に横浜鎖港を迫るため、筑波山で挙兵した、いわゆる天狗党の乱を発端にしている。この乱を鎮めるため、幕府の援軍を得た保守派(諸生党)の市川三左衛門らは、いったん交戦して敗れると、水戸に戻って天狗党の家族を処刑・投獄したというのである。
 たとえば、武田耕運斉の家族の場合、妻40歳、息子二人それぞれ10歳と3歳、男孫それぞれ15歳と13歳と10歳は死罪。女孫、息子の妻43歳、武田の側室18歳は永牢という過酷な報復に出たのである。その中で、もっとも残酷なのは、「首切役もさすがにためらった三歳の乳呑児を別人がむんずと体をつかんで短刀で刺殺した」(山内昌之)ことだという。
 そして、これら陰惨きわまりない報復を、「大仏次郎は、(仏)革命のモッブでも、世界中これだけ残酷な復讐には出ていない」(山内昌之)と言っているようなのである(注)。

(注)・・・この4年後、戊辰戦争が終わると、武田耕雲斉の息子・金次郎は、「天誅や朝敵として人を切りまくる。しかも、諸生党だけでなく、穏健な天狗や鎮派も容赦しない。尊王も攘夷もない。あるのは一途な復讐の念だけです。金次郎の天誅騒ぎが一段落するのは、明治二年から三年あたりでしょう。門閥の朝比奈知泉の家に残されたのは十二、三歳くらいが最年長の幼児ばかりだったというから同害報復は徹底していました」(山内昌之)という。