話を17日の記録に戻す。鷹丸(隆麿と誤記されている)の従姉妹だというせつが、鷹丸と妻が殺<弑逆(しいぎゃく)>されたと訴え出て、その徒党3人の名前を書いている。
川野藤右エ門は、『大河平史』の川野道貫(みちつら)のことであろう。ただし、溝口吉左エ門は、同名で出てくるものの、村岡熊次郎という名前は出てこない。また、この雑誌には川野の副首領格にあたる清藤泰助の名前もない。
繰り返すことになるが、『大河平史』では、せつ(20歳)は事件を目撃していたとは書いていない。事件当時、何かの用事で現場からは離れていたように書かれている。事件を目撃したのは、鷹丸の二女(8歳)三女(7歳)である。彼女たちが逃げ惑っているうちに、三女の時(トキ)は奉公人のフデと逃げ、二女の英(ヒデ)は、おそらく何らかの形で事件を知って逃げていたせつと出遭い、一緒に逃げた。その夜、英とせつは灯りを頼りに小林の町に出るが、知る者もないので途方にくれていると、通りがかった助右衛門というに人に助けてもらい、匿ってもらったことになっている。そして、3日後の18日、大河平家の家臣夫妻が訪ねてきて、薩軍本部に知らせた、と。
このズレはともかく、17日にせつ本人が薩軍本営に駆け込んだとしても、その間、英以外からも事件の情報は耳にしただろう。しかしながら、この『破竹・雷撃本営雑誌』(以後『本営雑誌』とする)には、鷹丸とその一家6人が殺されたとは書いていないし、また、弑逆党である加害側の名前も正確とは言えない。
もちろん、せつが『大河平史』に近い説明をしていたとしても、薩軍本営側が正確に聴き取って書いたどうかわからないし、そもそもかれらにとっては主要な問題ではなく、戦闘外で起きた偶発的な事件にすぎないのである。その証拠に、せつの報告を最初に書いてはいるものの、隊内の人事や戦闘における兵員の動静も並べて記録しているのだから。
またこの日、『二番大隊指揮長村田新八伝』によれば、村田は小林本営より振
武隊、破竹隊、行進隊、佐土原隊約1,000名を原田、上江、今西、池島などに配備し、川内川を挟んで山田顕義率いる別働第二旅団と対峙しようとしていたというのだ(注)。たとえせつが、10歳にも満たない4人の子供が殺されたと涙ながら訴えたとしても、真剣に取り合ったかどうかもわからない状況なのである。
(注)・・・(5)でも記したように、一ヶ月ほど、川内川を挟んで大小の戦闘を繰り返していた。
川野藤右エ門は、『大河平史』の川野道貫(みちつら)のことであろう。ただし、溝口吉左エ門は、同名で出てくるものの、村岡熊次郎という名前は出てこない。また、この雑誌には川野の副首領格にあたる清藤泰助の名前もない。
繰り返すことになるが、『大河平史』では、せつ(20歳)は事件を目撃していたとは書いていない。事件当時、何かの用事で現場からは離れていたように書かれている。事件を目撃したのは、鷹丸の二女(8歳)三女(7歳)である。彼女たちが逃げ惑っているうちに、三女の時(トキ)は奉公人のフデと逃げ、二女の英(ヒデ)は、おそらく何らかの形で事件を知って逃げていたせつと出遭い、一緒に逃げた。その夜、英とせつは灯りを頼りに小林の町に出るが、知る者もないので途方にくれていると、通りがかった助右衛門というに人に助けてもらい、匿ってもらったことになっている。そして、3日後の18日、大河平家の家臣夫妻が訪ねてきて、薩軍本部に知らせた、と。
このズレはともかく、17日にせつ本人が薩軍本営に駆け込んだとしても、その間、英以外からも事件の情報は耳にしただろう。しかしながら、この『破竹・雷撃本営雑誌』(以後『本営雑誌』とする)には、鷹丸とその一家6人が殺されたとは書いていないし、また、弑逆党である加害側の名前も正確とは言えない。
もちろん、せつが『大河平史』に近い説明をしていたとしても、薩軍本営側が正確に聴き取って書いたどうかわからないし、そもそもかれらにとっては主要な問題ではなく、戦闘外で起きた偶発的な事件にすぎないのである。その証拠に、せつの報告を最初に書いてはいるものの、隊内の人事や戦闘における兵員の動静も並べて記録しているのだから。
またこの日、『二番大隊指揮長村田新八伝』によれば、村田は小林本営より振
武隊、破竹隊、行進隊、佐土原隊約1,000名を原田、上江、今西、池島などに配備し、川内川を挟んで山田顕義率いる別働第二旅団と対峙しようとしていたというのだ(注)。たとえせつが、10歳にも満たない4人の子供が殺されたと涙ながら訴えたとしても、真剣に取り合ったかどうかもわからない状況なのである。
(注)・・・(5)でも記したように、一ヶ月ほど、川内川を挟んで大小の戦闘を繰り返していた。