以前、私は、繁がどういう理由で久光から離れ、大久保が管掌していた内務省の御用掛となり、安積疎水事業の推進のため奔走するようになったかわからないと書いておいた。ところが、私が作成している『奈良原兄弟年譜』をめくっていたら、あっ、これを見落としていたという資料が載っていた。市来四郎の『丁丑擾乱記』である。最初のほうは『磯島津家日記―丁丑乱概』も参考にしているので、若干長くなるが要約してその部分を掲載してみる。
(3月8日、軍艦から降りたあと)先ず磯邸にいた忠義(従三位)公に繁と有村国彦(注1)が会いに行き、その後(午後六時ごろ)忠義が参艦することになり、繁・東郷源四郎(重持)(注2)・迫水伊之丞が付いて行く。従二位(久光)公は所労により、名代として珍彦君が参艦。それから忠義公は山下の久光邸へ寄り、夜の十一時ごろ馬で帰邸とある。市来の『丁丑擾乱記』によれば、繁はこの日、有村らと帰宅したとあるが、久光は、繁は島津家家令なのに、大久保の使いー使嗾―で帰県し、旧知事に陳弁することを不快(悪ム玉ヒ)に思ったとある。それは、久光の邸員や女までも悪く言ったとある。
最後の「久光の邸員や女までも悪く言った」というところはどういう意味かわからないし、まさかという感じもしないわけではないが、市来の聞いたことが本当だとしたら、繁は久光の怒りを買い、かれの下を去らざるをえなかったのだろう。私の最初の解釈が甘かったということだ。
(注1)・・・有村家4男。上の3人とは年が離れていたせいか、幕末期には顔を出さないが、この頃、繁の下で島津家家扶をしていた。その後、島津家経営の銀行頭取を務めたり、実業界で活躍している。繁との関係は、家令・家扶の間柄から続いているようで、私は国彦氏の子孫を探し、資料の有無を確認したが、焼失して全くないということだった。ちなみにこの子孫氏は、あの井伊直弼の出身地である滋賀県の県議会議長を務めた人だった。因果は巡る、か。
(注2)・・・いつ頃からいつ頃まで務めていたかよくわからないが、島津家の家令だった。明治36年、繁は、東郷重持の3女・亀尾(きお)と養子縁組して奈良原家に迎えている。その後、亀尾を学習院の女子部(女学部)に通わせているところからすると、始めから跡継である三次の嫁にする予定でいたようである。
(3月8日、軍艦から降りたあと)先ず磯邸にいた忠義(従三位)公に繁と有村国彦(注1)が会いに行き、その後(午後六時ごろ)忠義が参艦することになり、繁・東郷源四郎(重持)(注2)・迫水伊之丞が付いて行く。従二位(久光)公は所労により、名代として珍彦君が参艦。それから忠義公は山下の久光邸へ寄り、夜の十一時ごろ馬で帰邸とある。市来の『丁丑擾乱記』によれば、繁はこの日、有村らと帰宅したとあるが、久光は、繁は島津家家令なのに、大久保の使いー使嗾―で帰県し、旧知事に陳弁することを不快(悪ム玉ヒ)に思ったとある。それは、久光の邸員や女までも悪く言ったとある。
最後の「久光の邸員や女までも悪く言った」というところはどういう意味かわからないし、まさかという感じもしないわけではないが、市来の聞いたことが本当だとしたら、繁は久光の怒りを買い、かれの下を去らざるをえなかったのだろう。私の最初の解釈が甘かったということだ。
(注1)・・・有村家4男。上の3人とは年が離れていたせいか、幕末期には顔を出さないが、この頃、繁の下で島津家家扶をしていた。その後、島津家経営の銀行頭取を務めたり、実業界で活躍している。繁との関係は、家令・家扶の間柄から続いているようで、私は国彦氏の子孫を探し、資料の有無を確認したが、焼失して全くないということだった。ちなみにこの子孫氏は、あの井伊直弼の出身地である滋賀県の県議会議長を務めた人だった。因果は巡る、か。
(注2)・・・いつ頃からいつ頃まで務めていたかよくわからないが、島津家の家令だった。明治36年、繁は、東郷重持の3女・亀尾(きお)と養子縁組して奈良原家に迎えている。その後、亀尾を学習院の女子部(女学部)に通わせているところからすると、始めから跡継である三次の嫁にする予定でいたようである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます