海鳴記

歴史一般

島津77万石とは(24)

2009-11-22 09:53:08 | 歴史
 では、最初の記録である貞享元年(1684)の人口を見てみる。薩摩・大隅・日向諸県郡(以下薩・隅・日とする)の人口は、355、387人、琉球は、(不確実)と断っているが、129、995人で、総計が557、083人となっている。道の島の記録はないが、この年度の薩・隅・日と琉球の合計が、485、382人となるから、この残り、71、701人が道の島の人口なのだろうか。
今のところ、この7万余の人口はどこから出てきたのかよくわからないが、最初の薩・隅・日の人口は、前回示した判物の石高60万5、607石余の約半分強である。多少記録された時代はずれているが、この数字と一人年間約1石の米消費量を照らし合わせると、やはり60万石は玄米高ではなく籾高のように思われる。ただ琉球の場合は、人口と石高がほぼ一致するので、玄米高のように見えてくる。まあ、この問題はあとで再考しよう。
 さて次に、この記録から22年後の宝永3年(1706)は、3地域の人口が出ているので、掲げてみよう。薩・隅・日は、461、961人、道の島は、49、472人、琉球は155、108人で、総計666、541人となっている。琉球はともかく、薩・隅・日は22年間で、106、574人も増えているから驚きである。それに反して、前回の7万人余が道の島の人口だったとしたら、22年間で、22、229人減少している。割合的にみて、どちらもやや異常な数の増減である。
 私にはどちらもにわかには信じられない数字なので、次の記録に移る。
 宝永3年のあとは、元文2年(1737)年の記録になるが、これは総計の817、635人しかわからない。わかるのは、21年間で前回の3地域の合計より、151、094人増えているということだけである。
 この後の記録は、しばらく総計のみの記載で、以後極端に増えることはなく、明和9年(1772)の88万人代がピークとなっている。では、3地域の人口がわかる寛政12年(1800)の記録から垣間見よう。
 薩・隅・日が623、361人、道の島が74、593人、琉球が155、637人で、総計853、591人である。またその26年後の文政9年(1826)には、薩・隅・日が646、925人、道の島が77、667人、琉球が140、549人で、計865、141人となっている。


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