毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「日本に強制連行された中国の農民~りゅうりぇんれんの物語②」 2012年12月20日(木)No.540

2012-12-20 18:56:58 | 文学
これは文学以前に歴史の事実だ。
1942年当時の東条英機内閣は産業界から人手不足軽減の要請を受け、
「華人労務者内地移入の件」を閣議決定した。
外務省報告書によると、集められた華人(=中国人)労務者の75%が農民で12歳の少年から78歳の老人まで及び、
日本全国の135事業所に38,935人(15歳~60歳位)が送られ、6,830人が死亡していることが記されている。
「中には半強制的に連れてこられた者もいた」と曖昧に責任逃れする表現に、私は怒りを覚える。
りゅうりぇんれん(劉連仁)もその「半強制的」に連れてこられた一人だ。
「半強制的」の「半」とは、「半分は強制的、残り半分は自分の意思」ということだ。
劉連仁は当時結婚した新妻が妊娠7ヶ月の状態だった。
(日本に行って働こうかな)などとただの1%だって思うわけがない。
第一、当時日本と中国は戦争状態なのだ。
中国人にとって、日本はのんびり出稼ぎに行くようなところでは決してなかった。
有名な「花岡事件」は劉連仁と同じ境遇の中国人たちが、
生きて祖国に帰るために起こした反乱とそれへの容赦ない弾圧事件である。

当時の東条内閣で商工大臣として、
この罪深い「華人労務者移入計画」を練ったのが岸信介。
今の自民党総裁安倍晋三の祖父だ。
・・・・・・・・・・

「りゅうりぇんれんの物語」を続けよう。

一行八百人の男たちは
青島の大港埠頭へと追いたてられていった
暗い暗い貨物船の底
りゅうりぇんれんは黒の綿入れを脱がされて
軍服を着せられた
銃剣つきの監視のもとで指紋をとられ
それは労工協会で働く契約を結んだということ
その裏は終身奴隷
そうして門司(もじ)に着いた時の身分は捕虜だった

六日の船旅
たった一ツの蒸パンも涙で食べられはしなかった
あの朝……
さつまいもをひょいとつまんで
道々喰いながら歩いて行ったが
もしもゆっくり家で朝めしを喰ってから
出かけたならば 悪魔をやりすごすことができたろうか
いや 妻が縫ってくれた黒の綿入れ
それにはまだ衿がついていなかった
俺はいやだと言ったんだ
あいつは寒いから着ていけと言う
あの他愛ない諍(いさか)いがもう少し長びいていたら
掴まらないで済んだろうか めいふぁーず
運の悪い男だ俺も……
舟底(ふなぞこ)の石炭の山によりかかり
八百人の男たち家畜のように玄海灘(げんかいなだ)を越えた

門司からは二百人の男たち 更に選ばれ
二日も汽車に乗せられた
それから更に四時間の船旅
着いたところはハコダテという町
ダテハコというのであったかな?
日本の町のひとびとも檻褸(らんる)をまきつけ
からだより大きな荷物を背負い
蟻のように首をのばした難民の群れ 群れ
りゅうりぇんれんらは更にひどい亡者(もうじゃ)だった
鉄道に働くひとびとは異様な群像を度々(たびたび)見た
そしてかれらに名をつけた「死の部隊」と
死の部隊は更に一日を北へ―
この世の終りのように陰気くさい
雨竜郡(うりゅうぐん)の炭坑へと追いたてられていった

飛行場が聞いてあきれる
十月末には雪が降り樹木が裂ける厳寒のなか
かれらは裸で入坑する
九人がかりで一日に五十車分を掘るノルマ
棒クイ 鉄棒 ツルハシ シャベル
殴られて殴られて 傷口に入った炭塵(たんじん)は
刺青(いれずみ)のように体を彩(いろど)り爛(ただ)れていった
(カレラニ親切心 或イハ愛撫ノ必要ナシ
 入浴ノ設備必要ナシ 宿舎ハ坐シテ頭上ニ
 二、三寸アレバ良シトス)
逃亡につぐ逃亡が始まった
雪の上の足跡を辿(たど)り 連れもどされての
烈しい仕置(しおき)
雪の上の足跡を辿り 連れもどされての
目を掩(おお)うリンチ
仲間が生きながら殴り殺されてゆくのを
じっと見ているしかない無能さに
りゅうりぇんれんは何度震えだしたことだろう

日本の管理者は言った
「日本は島国である 四面は海に囲まれておる
 逃げようったって逃げきれるものか!」
さっと拡げられた北海道の地図は
凧のような形をしていた
まわりは空か海かともかく青い色が犇(ひし)めいている
かれらは信じない
日本は大陸の地続きだ
朝鮮の先っぽにくっついている半島だ
いや そうでない そうでない
奉天 吉林 黒竜江の三省と地続きの国だ
西北へ 西北へと歩けば
故郷にいつかは必ず達する
おお おおらかな智識よ! 幸(さいわい)あれ!

(続く)
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