毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「原宿の高校生デモに思う」No.1505

2015-11-10 22:11:24 | 中国事情

先週、晩ご飯を何人かの学生たちと食べに行ったのですが、

食堂への道すがら、何の話からか一人の学生が、

「中国の若者は政治のことは、あんまり…」

と口を濁すので、

「そうですよねえ、あまり喋ったら逮捕されるかも知れませんよね。」

と冗談めかして言ったところ、真面目な顔で

「そうなんです。ネット警察という組織もあるそうです。」

と言うのです。

日本の言論の自由が危機的な今、

それが失われるということの意味を知っているのは

日本人ではなく、ここ中国の人々かも知れません。

少なくとも、安倍政権や橋下維新を支持する人たちには、

大きなものを失いつつあるという緊張感は皆無でしょう。

 

一昨日8日、東京の原宿で高校生たちがデモをしたそうですが、

そんなことはこの国では端っから許されません。

日本がかろうじて持っている大切な宝物、日本国憲法は、

あの戦争の後、自分たちで辛苦し、醸成して作ったのではなく、

ラッキーな偶然と言っていい過程を経て得たものです。

憲法に謳われている国民の諸権利を、

国民の多くが意味も価値も分からず曖昧なまま享受している間に、

密かに今の政権が権力を握る下地が醸成されていたのですね。


戦後の民主主義のシステムをもっと徹底的に作らなければならなかったとき、

「戦後民主主義の解体」・「戦後民主主義の欺瞞」

を主張した1960年代末から70年代初頭の若者たちのことを思います。

社会矛盾に身を置く自分の身を削る思想のはずの「自己否定」は、

本当に甘くて弱い自己と社会を否定できたのでしょうか。

曖昧な平和に苛つきながら、実は安住し、

何を否定し、何を新たに創造するか突き止める根性もなく、

筋道を真っ直ぐ、太く作ることができなかった

戦後70年間の日本の私たちだったように思います。

 

昨日の東京新聞に都内女子高校生(18歳)の言葉がありました。

「これまで私たちはあまりに政治に無関心だった。

それは日本が漠然と平和だったから。

でも今、平和の姿が変わろうとしている。

だからこそ、私たち一人一人がどうしたら日本の平和を築くことができるのか、

しっかり考えていくべきだと思う」


この危機を契機に「曖昧な日本の私」(たち)が、

もし変わらず思考停止と無関心を継続すれば、

日本社会に明日はない、と言うか、

かなり暗い明日しかないと思うブルーはーとです。

 


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