毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「あまりにもったいない死」2015年5月2日(土)No.1349

2015-05-02 13:14:48 | 反戦

江西財経大学の施芳芳さんの卒論「日本人の〈もったいない〉考」がかなりまとまってきた。

何回となく草稿のやり取りをしていたが、その中で彼女は、

社会にとって貴重な存在が道半ばに死を迎えることをもったいないことと言い、

その例として後藤健二さんの死を挙げていた。

私も全く同じ気持ちだ。

まだ遺体も戻っていないのに

安倍・菅の日本政府は大切な国民の遺体のことなんか全く歯牙にもかけていない。

第一、生きている時から助ける気もさらさらなかったのだ。

こんな政府を支持する国民の愚かさがたまらない。

このブログにも、「後藤はよけいなことをしたから殺されても仕方がない。

ジャーナリストは自分の仕事だけをしていればいいんだ。」

という、とんちんかん、且つ、悪意に満ちた冷酷なコメントがあったが、

大切な命が危険に曝される状況を伝えるとき、伝える者もまた危険に曝される。

しかしそれを押して取材しなければ世界は真実を知ることができないのだ。

それがジャーナリストの仕事だ。

それ以前に日本政府が湯川さん救出に全く動かなかったために

後藤さんはやむなく行動したのである。

そのことを不問に付す愚か者は自分が政府に見捨てられるときにも

同様のことが言えるだろうか。

いったい政府は何のためにあるのか、基本に立ち返って考えてもらいたい。

今日のNHK解説委員の柳沢秀雄さんへのインタビュー記事も、

後藤さんの死をもったいないと思えない日本人にはサッパリ響かないのだろう。

 

―――東洋経済オンライン 5月2日(土)

NHK柳澤さん、「後藤さんとの思い出」を語る (一部割愛)

 後藤健二さん殺害が報道されたのは2月1日(日)早朝だった。翌2日(月)の朝、後藤さんと親交があったNHKの柳澤秀夫解説委員はコメンテーターを務める情報番組「あさイチ」の冒頭でコメント。柳澤さんの言葉はネット記事が引用して大反響を呼び、2日間で500万人以上が読む異例の事態となり、新聞記事でニュースにもなった。 


2月2日「あさイチ」冒頭の柳澤秀夫解説委員のコメント
冒頭なんですけど、すみません。昨日から今日にかけて大きいニュースになってきた後藤健二さんなんですけど、ちょっと、あえて、冒頭で、一言だけ……。
僕も後藤さんとはおつきあいがあったものですから、一番、いま、強く思っていることは、ニュースではテロ対策とか過激派対策とか、あるいは日本人をどうやって守ればいいか、が声高に議論され始めているんだけど、ここで一番、僕らが考えなきゃいけないことというのは、後藤健二さんが一体、何を伝えようとしていたのか、ということ。
戦争になったり、紛争が起きると弱い立場の人がそれに巻き込まれて、つらい思いをするということを、彼は一生懸命に伝えようとしていたんじゃないか。それを考えることが、ある意味で言うと、こういった事件を今後、繰り返さないための糸口が見えるかもしれない……。
われわれ一人ひとりにできることというのはものすごい限界があるんですけど、この機会にそういうことを真剣に考えてみてもいいのでは……。
それが後藤さんが一番、望んでいることじゃないか。そう思ったものですから、冒頭なんですけど、ちょっとお話をさせてもらいました。

 「あさイチ」の冒頭。わずか1分あまりの短いコメントだったが、多くの人たちの共感を呼んだ。 

 柳澤さんは1990年から1991年にかけての湾岸戦争当時、数少ない西側諸国の特派員としてイラクに残ってレポートした。アメリカを中心とした多国籍軍が空爆した後の様子をイラク当局による検閲を受けながら英語で伝えた記者レポートは、各局のテレビ記者たちの間で今も語りぐさになっている。 

 このコメントの件でメディア取材は受けてこなかった柳澤さんだが、『GALAC』の取材はとインタビューに応じてくれた。

■ 撮ってきたものが出ることが大切

 ──後藤さんのエピソードで一番心に残っているのは? 

 一番、僕が思うのは、後藤君というのはこういう事件の後でメディアのフォーカスが当たって、ある意味で言うと、英雄視されたり、神格化されるような雰囲気があるけど、そういうふうに言われるのを一番快く思っていないんじゃないかなってことです。

 非常に控え目だったし、自分がこういうことになって、まわりから、自分のやってきたことを評価されるのはうれしいにしても、それ以上に持ち上げられることを、僕が知っている後藤君だったら、嫌がったんじゃないかな。きっと今会ったら、なんか頭掻きながら、「あー、やっちゃった~」とか「どじ踏んじゃった~」と言うぐらいの人だったというイメージを持っていました。なので「あさイチ」のなかでも、ああいうコメントをしました。

 彼は「撮ってきたものが出ることが大切なんだ」と自分自身がテレビに出ることやリポートすることにはこだわらなかった。「撮ってきたものが今のイラクの実状を伝えるものであればそれでいいんです」と言っていました。自分で向き合っている紛争地、戦争の現実を取材する上での心意気を、そうした言葉から強く感じたことがあります。

 後藤君は被写体を通して見えてくる現実と、常に「会話」しているような感じでした。僕らがドキュメンタリーを撮ったり、取材する時には被写体と少し距離を置いて、わりと客観的に、ある意味「冷たく」撮っている。でも彼の場合には撮っている被写体との間でいつの間にか「会話」が始まっている感じがある。つまり、単にそれを記録することを超えて、訴えかけてくるものを自分の中にも取り込んで、もう一回キャッチボールをしながら、それを第三者に伝えるという姿勢がありました。

 イラク戦争で、彼はサダム・フセインの生まれ故郷のティクリートが主戦場になった時にかなり前線まで入った。車で移動中にアメリカ軍が襲撃された現場に遭遇し、車を降りてカメラを回し始めたんです。映像を見るとその直後、アメリカ兵が彼に銃口を向けて、地面にひれ伏すよう命じたんですが、彼はアメリカ兵に向かって「I am Japanese Press. I am Kenji Goto.」と言ったんです。

 それに対してアメリカ兵が手を振って、「No Press!」と叫んで、最後は後藤君が「わかった、わかった」とその場を離れるんですけど、そのシーンは、撃たれるかもしれない緊迫した状況を捉えたすごい映像だった。後藤君の映像で一番、記憶にあるのがそのシーンですが、そういうことも含めてイラクで何が起きているかについて、彼は深く知り得たし、それを映像を通じて伝えたかったと思います。

 ──取材対象と「会話」しながら撮る、というのは具体的にはどのようなことでしょうか? 

 後藤君は、バグダッドの市内で戦闘に巻き込まれて亡くなった息子の遺体を埋葬することができなくて、自分の家の中に埋めなきゃいけないという家のお父さんをカメラで撮影しながら会話をするんですよね。

 そういう時に僕らは普通、顔を真正面から撮って、なぜこうなったのかという説明を求める聞き方になるんですけど、そうじゃないんですよね。被写体として映っているお父さんの気持ちに入っていくように、回り込みながら、同じ目線に立って、何が起きているのか撮るという。その時の彼は、普通のジャーナリストやカメラマンが記録する以上のことを実践していたような気がするんです。それは僕らができるようでできないことで、一種、彼のやさしさだったと思います。

■ 「戦場ジャーナリスト」と呼ばれること

 彼はよく「戦場ジャーナリスト」と言われることは嫌っていたと聞きました。たしかに修羅場をくぐっていますから、後藤君のこれまでの経験、経歴を考えると、本当に前線を走るフリーランスのジャーナリストだと思うけど、彼自身はそれでいながら、いさましいフロントのドンパチや、爆弾が落ちてるところを逃げ惑うような状況を伝えるよりも、それがいったい何を引き起こしているのかというところに軸足を置いていた。

 つまり、戦争で一番つらい思いをするのは誰なんだ、それを伝えるのが自分たちの仕事だ、と思っていたのではないかと思います。僕自身もまったく同感で、前線の銃撃戦や爆弾、ミサイルが炸裂するところを取材したり、そこで自分がリポートするみたいなことは、それは必要な部分なのかもしれないけれど、一番重要なのは「それで何が起きているか」ということ。それを彼は一番伝えたかったと思う。それを考えると胸がつまっちゃいますけどね。

 ──後藤さんとはどのような関係でしたか。ウマが合いました? 

 なんか波長が合いました。冗談話を含めてね。非常にいい青年というか若者というか。最初に会った時代を考えると今から20年近くも前だったから彼も30歳になるかならないかで、本当に良い若者だなっていう感じでした。

 自分たち組織に属す人間と、フリーの人たち、同じような気持ちを本当に持てるかというなかで、後藤君とはやけに波長が合うと感じました。つき合いの長いフリーの方って何人もいますけど、いつもみんな言うのは、きれいごとで自分たちの仕事を語ってほしくないと、俺たちやっぱりあそこのヤバいところへ行って仕事をしてきてそれで稼いでいるんだと。それが俺たちの仕事なんだと。

 だからそこを「報道」「ジャーナリズム」っていうことで、潔い、格好良いところで括られると、ちょっと違うかもしれない。みんな異口同音にそういうことを言う。結果的にどうなるか別だけど、何かあった時には「自己責任」という問題も「百も承知だ」と。それが我々がやる「仕事」なんだと、そういうことなのだと思います。

■ 我々の仕事もリスクや危険とは隣り合わせ

 僕らの仕事って危険がつきまとうのは当たり前の話であって、消防士が火消しに行けば火事場で火に巻き込まれるかもしれないし、警察官だって、強盗を追いかけていれば、逆に命を落とすかもしれないというのをわかったうえでやっている。

 そういう点で、我々の仕事もリスクや危険とは隣り合わせだと考えていくとすれば「ただ単に危険だから行かない」という選択肢は違うというのが僕の持論です。そういう選択をするんだったら看板下ろしちまえ、と昔から言っているんです。自分がジャーナリスト、報道にたずさわっているなんて、おこがましくて言えなくなる。

 ただ本当に傷ついたり死んだりしたらもう耐えられないことですから、ある判断というのは当然伴うものだと思います。でもそこがいきなり、「危ないから行かせない」「危ないところはフリーに行ってもらう」「撮ってきてもらった素材で番組を作る」というような短絡的な発想で番組やニュースをつくっていくことはやるべきじゃない。

 もしその中でやる手法があるとしたら、それは自社も、フリーも問わず、その現場で一番、語るにふさわしい、伝えるにふさわしい人がその言葉で語ってほしい。それでないと後藤君が言っていた「本当に伝わるべきことが伝わればいいんです」というところが生きてこないような気がするんですよね。

 ──人質としての後藤さんの映像が流れた時にはどのような印象を持たれました? 

 正直、あのオレンジ色の服を来て出てきた映像を見た時には……何て言っていいかわからないくらいのショックだったですね。

 これまでの外国人ジャーナリストの例もあるので、そう楽観できる状況ではないというのは最初に思いました。でもその後の拘束の映像が出てきて最終的に悲惨な結末を迎えるまでには、ひょっとしたら大丈夫かな?  という期待も正直、一瞬、ありました。

 ──映像での後藤さんの表情から、どんな心境なのかと思いましたか? 

 よく言われる思い詰めた、というか、彼のあの表情というのは自分の感情を完全に押し殺した顔に見えましたね。自分の感情がこもってしまうと、それはヤツらの思う壺ですから。

 むしろ、自分はメッセンジャーとして要求を語るだけ、と淡々としていた。僕はずっと後藤君の声だと思っていたし、彼は、自分の感情を押し殺して、淡々と、とにかく、与えられたメッセージを読み上げている、という……(長い沈黙)。

 だってひょっとしたら、あと1時間後、半日後、自分はどうなるかっていう、ものすごい緊張状態に置かれている、というイメージでしょ。それぐらいに張りつめた状況だけれども淡々と機械的に、与えられたことを口にしているというその緊張の度合いというのは、昔、イラクでアメリカ兵に銃口を向けられた時に、自分は日本のプレスだと名乗った時の声とどこか共通するような、緊張感が極まったようなものに聞こえましたね。


■ 後藤君が突っ走って伝えようとしていたこと

 まあ、ご存知のとおり、あのニュースの後は邦人保護の話だとか。救出の話とか、僕から見るとピンとこない話がニュースの中でヘッドラインになっていた。後藤君が一番あそこで伝えたかったことって、最後の瞬間って何考えていたのかわからない部分があるにしても、シリアで何が起きているかということと、とんでもないことが起きた時につらい思いをするのは誰だってこと。それを伝えたいのに、どこからも目を向けられずに、何かあさっての方向に話が向かっているような気がしていたという感じがものすごく強かったですね。僕は……。

そう考えればなおのこと、後藤君が何考えていたのか。彼が一番何伝えたかったのか、そこに収斂していたような気がします。

 ──後藤さんは大学の卒論で「湾岸戦争の取材」をテーマにしたとか。

 彼がよく言っていたんですよ。柳澤さんが湾岸戦争に行った時はどうだったのかと。ちょっとすれ違いざまに会う時に、湾岸戦争で取材した時って、あれはどういう形でやったんですか、すごかったですね、とか。彼一流の語り口でね。よく聞かれた記憶があるんですよ。

 ──湾岸の頃って、フリーの人はまだ……? 

 入る余地はなかったですよね。

 戦争自体の形が湾岸戦争の当時と、イラク戦争の頃から変わってきて、今のシリア、イラクはまったく違うものだと思います。昔はまさに国と国との対称性のある戦争で、どちらが敵でどちらが味方かという、戦場の一種のルールみたいなものがあった。

 湾岸戦争の時にはイラクの情報省がビザを出す時に、何を考えていたのかというと、自分たちの宣伝効果を一番アピールできるメディアを選ぶということ。で、開戦の時はCNNを残した。僕が入った時には17人の外国人ジャーナリストがいましたけど、それもある程度、メディアの発信力のあるところを選んでいた。

 だからフリーランスというのは当時は発信力ということでは力を発揮する場がなかった。

 一方のアメリカにしても、あの時は従軍を認めていませんでしたけど、サウジアラビアのリヤドの司令部に記者を集めて、そこで情報発信する。そうなるとフリーが入る余地は、大手メディアが目を向けないところに入っていくしかない。

 それで後藤君が西アフリカに入っていったのは無理ないなあと思った。リベリアですよね。大手のメディアが目を向けない。国際的にも、大変なことが起きているんだけどメジャーに取り上げられないような。そういうところを、石を剥がさないと外からは見えない問題を、懸命にひっぱり出すような……。


■ 定点観測という強み

 ただ、そうはいっても長年お世話になっているフリージャーナリストの土井敏邦さんと初めて会ったのは、アラファトがガザに凱旋したときで、あのぐらいの時代から、フリーの人たちは継続してとにかく入って来るようになった。彼らはいったん照準を合わせたら、そこからけっして目を離さない。何度も何度も繰り返し入って、定点観測的にやっていく。

 僕らのような大手メディアだと、何か起きるとそっちのほうに目を向けて、渡り歩くような感じだったですけど、そうじゃなくて、一度自分でテーマを見つけると、そこにずっと入っていく。

 僕はけっして戦争を好きなわけでもないし、戦争ほど嫌なものはないと思っているけど、でもこういう仕事をしていると、そこの中に究極なものがやっぱりある。戦争とか前線とか紛争のなかには、いつも繰り返される、どうにもいたたまれない不条理なものが凝縮されていると、それを伝えるのが僕らの仕事だと思う。これはどんな時代でも、それが僕らに課せられた仕事だろうと思う。

 ──「あさイチ」での「この機会にそういうことを考えていかねばならない」という言葉が印象的。「私たち自身が答えを探していかねばならない」ということですね? 

 そうですね。考えていく、というのが大切だと思うんですよね。簡単に答えが見つかるわけじゃないし、そういう方法がどこかにあるわけじゃないけれど、考えることを止めたらおしまいだし、考えつづけることがとにかく大切なことだと思う。考えることをあきらめちゃ、絶対にいけない。

 四六時中考えているのはつらいし、夕方になれば夕飯、何食おう、とか、日常生活に埋没していくことも無理のないこと。でも、それは、時々でもいいから、どこかに、自分の記憶の中に呼び戻して、考えていかないといけない。今度の事件は、そういうことをわれわれに投げかけているのかなと、そんな気がしてならないんです。

水島 宏明

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150502-00068598-toyo-bus_all&p=5

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2 コメント

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正気を保つ努力 (ブルーはーと)
2015-05-04 00:42:09
空さん
後藤さんのこと、辺野古のこと、原発再稼働のこと、・・・安倍の失政は後世に語り継がれることでしょう。。
今も、毎日まいにちニュースを読むたびに元気が一気に失せますが、それでは安倍の思うツボと言い聞かせて、なんとか冷静を保とうとしています。・・・が、本当に辛いです。人間の世の中が引っ掻き回されて、政治家の横暴がこれほどすんなり通るとは。
チクショウ!チクショウ!ちくしょう!裸足のゲンの叫びは私の叫びでもあります。とにかく、お互い欝にならないように気をつけましょうね。
返信する
あの当時のことを… ()
2015-05-03 22:20:39
考えると、怒り、失望、軽蔑、絶望などの様々な感情でおかしくなりそうなくらい辛いのですが、後藤さんを殺したのは安倍政権そのものだと思わずにいられません!
返信する

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