毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「被災ママの覚醒」No.1757

2016-09-24 22:14:19 | 脱原発

数日前、2年「日本国家概況」の授業で、

日本の地形→火山の爆発・地震→3・11東日本大震災→津波→福島原発事故の話をしました。

今、二十歳前後の2年生が15歳頃にあった隣国の地震・津波・原発事故は、

彼女たち(プラス一人の彼)の記憶から消えかけていました。

授業で提示した津波、原発事故当時の映像は、初めて見る学生がほとんどで、

息を吞んで教室のスクリーンを見つめていました。

じつは、それらの映像は私も正視できず、長い間避けてきたものです。

5年前の3月11日、

中国の南昌市で地震・津波、翌日に福島原発の爆発事故をCCTVで見て、

(ああ、これで日本は終わりだ)と思いました。

酷いことになったことは、いくら鈍感な私でも分かりました。

それから、日本国内ではたくさんの努力、たくさんの我慢、たくさんの涙とともに

5年が過ぎました。

日常生活の中で、2020年のオリンピックが話題になることはあっても、

震災・津波・原発事故の被災者のことを考えての「復興オリンピック」だと

声高に言っていたことなど、どこかに置いてきぼりになっています。

授業で、震災や原発事故の復興は今だ道途上だというと、

中国の学生たちは驚きました。

そんなことは日本から伝わってこないからでしょう。

日本国内ではどうでしょうか。

「日本人なら被災者のことを思わない者など誰もいない。

だからこそ、オリンピックで復興推進なのだ」

と言っていたオリンピック開催支持者の人たちは、

今も、同じことを胸を張って言えるのか疑問に思います。

またしても、すり替えられ、ごまかされ、そのことに気が付かないで、

翳んでいく人たちの多いことが残念です。

逆に、希望の光は被災者自身の中にあるんだと、今、私は感じています。

 

東日本大震災から5年・・・被災ママたち、それぞれの今                                                               「たくさんの大切なものを捨てて選んだのは、娘たちの命」

という記事で磯貝潤子さん(41歳、長女が中学3年生、次女が中学2年生)のお話を

読みました。

彼女は、福島で被災し、今は新潟の借り上げ住宅に二人の娘と避難しています。

夫は会社のある郡山と新潟の家を行き来するという二重生活です。

磯貝「初め、原発が水素爆発と言われてもちんぷんかんぷんで、一応、春休み中は窓を閉めて換気扇を止め、2人の子供たちは外に出さなかったけれど、事故当初、家近辺の線量は30μSvと発表されていたのが、4月の始業式の頃は3μSvに下がったので大丈夫なのかなと、歩いて学校に行かせてしまった。

……5月頃から娘が鼻血を出し始めたんです。それも大量で、1日に3~4回という日もあった。いろいろやってみても止まらない。そしたらね、かわいそうを通り越して頭にくるんですよ。『なんで出るの、止めて!』って。怒りの矛先がおかしいですよね。毎日ずっと悩んでいたから……もう、おかしくなっていた。」

学校でPTA副会長をしていたこともあり、放り出したら迷惑じゃないか、

家のローンも、娘のサッカーチームも、…と

不安でたまらないのに、事故が起きる前の生活を引き摺っていた彼女は、

1年後、ついに思い切って新潟の借り上げ住宅に娘二人と引っ越しました。

夫は、初め「テレビや新聞ではこんなに大丈夫だと言っているのに、

どうして潤ちゃんはそんなに心配するの?」と言っていたのが、

市民グループの情報メールを読むにつれて、共通意識を持つようになったそうです。

一年後の2012年5月、親子三人で甲状腺の検査に出かけました。

磯貝 1年間、自分ではちゃんと放射能対策をしていたつもりでした。でも結果は、3人ともたくさんのコロイドのう胞があったんです。私たちは“被ばく”したんだ、という事実を突きつけられたような気がして。「良性」と言われたけど、がん宣告されたようなショックでした。

磯貝 (誰もが)私と同じように、ある日突然、今の生活を奪われるかもしれない。私も震災前はおしゃれが大好きで、原発のことなんて考えたこともありませんでした。でも私たちが生きている足元はこんなにグラグラしている、と気づいてしまった。そうしたら沖縄や安保の問題にも黙っていられなくなってきて。周りにはちょっとヘンな目で見られるんですけど。

磯貝 私も今は、おしゃれしながら社会問題にも知識があって、ちゃんと自分の意見を言える、そういう女の人が本当にカッコいい、と思うようになりました。

磯貝 大事なものをたくさん捨てた。変えるしかなかったんです。悔しいですよ。でも以前の生活が忘れられなければ、ずっと苦しい。「みじめだ」「こうなったの誰のせい?」ではなく、私がこの生き方を選んだんだ、と決めて生きていくしかありません。

磯貝 それは命……やっぱり、私にとっては生死の問題だったから。娘たちが「死んじゃう!」と思ったんです。元気に生まれて、あんなに小さな指を一本一本数えたのに……。

―――写真・磯貝さんの言葉https://lee.hpplus.jp/kurashinohint/26730/3/より

どうして、ママたちが輝いているのか、分かる気がします。

命がだいじだということを、心底、無条件に知っているからでしょう。

自分が生み出した命を守るためにはどうしたらいいか、

一生懸命考え、行動しているからでしょう。

 

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