毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「5年前の作文を授業で読んだ」No.1611

2016-03-11 23:21:29 | 中日(日中)交流

3月11日の今日、3年生の授業で5年前の作文を読んで紹介しました。

東日本大震災の直後、

当時江西財経大学の3年生達が日本の人たちに向けて書いた作文です。

いずれも自分の体験と照らし合わせて

被災者の気持ちを理解し、寄り添おうとしたものでした。

その一つ、黄斯麗さんの作文をここでご紹介します。

 

―――「桜が満開になる」 黄斯麗 1990年生まれ 


「ほら、あの桜、きれい!」

「本当だ。ねえ、黄さん、林科園の桜も咲いているよ。一緒に見に行こう。」

友達の劉さんが私を誘った。

小風がさらりと顔を撫でるように吹いてくる。

薄いピンクの花びらが舞う桜の並木道を通って行くうちに、

ある思いが私の脳裏に浮かんできた。

 

(今年、東日本は大災害に見舞われたけれど、桜はまた美しく咲いた。

これはどんな不幸にあっても、微笑んで頑張っていくという

日本人の心の象徴かもしれない…)

インターネットは連日大震災のニュースで一杯だが、

ある記事が私の心を揺り動かした。

「津波が迫っている時、古希を超えた老人が、

自力で歩くことのできない93歳の母親を手押し車に乗せ、

必死で高台へ登った。

一体どんな力で高台に着けたかと聞かれ、

老人は『愛と、生きる希望です』と答えた。」

いつの間にか、私の目は涙に濡れていた。

人間は確かにそういうものだ。

どんなに辛くても、愛と希望が少しでもあれば、絶対諦めない。


2007年の夏、私は大学入試に失敗して毎日落ち込んでいた。

長女として、小さい頃から両親に期待されていたので、

(これで、二人はきっと私に失望する)と思うと、涙が止まらなかった。

将来が、全く分らなくなってしまった。

再び来年受験すれば、この家はどうなるだろう。

妹は来年高校二年生、弟も五年生になる。

私たちの学費が両親にどれ程負担をかけているのかも分かっていた。

父は毎日、深夜一時頃起きて、何も食べずにオートバイで

約30キロ離れた爆竹工場へ働きに行った。

夕暮れに帰った時、まるで炭鉱から出てきたばかりのように、

父の体はいつも硝石粉まみれだった。

しかし、あの時父は、

「お金の心配はするな。今年は家畜できっと儲けるぞ。君は私の誇りだ。

元気を出して、再挑戦しよう。頑張れ。」

と、励ましてくれた。お蔭で、私は静かに浪人の一年を過ごせた。


今でこそ、私は好きな日本語を勉強し、一人前の大学生になったが、

我が家にとってあの年は本当に辛い一年だった。

暑さに耐えきれず、約30頭の豚は全部疫病で死んでしまった。

借金が膨らんだ。母はショックで病気になった。

いつも楽観的な父も黙り込んでしまった。そんな時、私は両親に手紙を書いた。

「お父さん、お母さん、元気を出して。微笑んで生活に立ち向かってください。

お金は儲からなくてもみんなが元気なら、それが何より。

父さんも母さんも家で頑張って。私も学校で一生懸命勉強するよ。

二人の期待に応えて、絶対頑張り抜くから。

私たち家族全員の力で、きっとこの苦境を乗り越えられるよ。頑張ろうね。」と。


しかし半年後、中国は史上最大の異常寒波災害に遭った。

家はボロボロなので、雪水が壁に沿って室内に染み込み、床はジトジトになった。

百羽以上の鶏はただ二、三羽を残し寒さで死んでしまった。  

だが、今度、両親は踏ん張った。

祖母が亡くなった時も悲しんだが落ち込まなかった。

大晦日の夜、父は例年通り一年の纏めを話した。

「今年は運が悪かった。次から次へと…。本当に辛かったなあ。

でも、君たちが元気でよかった。明日はもう新年だ。また俺も一生懸命頑張るぞ。」

父は私に微笑んで、

「手紙、ありがとう。君は本当に大人になったね。もしあの手紙がなかったら… 。」

としみじみ言った。

三年経ち、今、両親はワクワクして新しい家を建てている。

これから我が家はもっと幸せになると信じている。


我が家も、中国も、辛い、不幸な年をくぐってきた。

が、今年中国のGDPは世界二位だ。

日本も、これから大災害から回復できる。

愛の中で、みんなが一致協力して結束すれば、

日本は以前より繁栄するに違いない。

私だけじゃなくて、世界の人々が日本を応援している。

日本、頑張れ!

 

「あっ、太陽が昇った。そろそろ帰ろう。」

想いは友達の言葉で彼方に去った。

「うん、帰ろう。」

林科園を出て後ろを振り向くと、満開の桜が輝く光の中で風と共に舞い上がっていた。

―――――――――

黄斯麗さんのこの作文は中国人学生の作文コンクール受賞作品集

「千年に 一度の大地震と戦う日本人へ 中国若者たちの生の声」(日本僑報社)

にも載っています。

黄斯麗さんは、江財大卒業後、中日の平和に寄与するために

外交官になろうと、北京外交学院の大学院に進学しました。

しかし、自分の理想とする外交と現実の国家の方針に折り合いがつかず、

今は日系企業で働いています。


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