戦後日本の民主主義が蛇行を繰り返してきたのは、
こういう事だったのかと、真実が分かって嬉しい…訳ないですよ。
暗黒の世界の使者が、戦後の日本社会にずっとトグロ撒いていたんですからねえ。
高村正彦にしても、町村信孝にしても、戦前・戦中を通じて平和活動家、左翼思想家を
徹底的に弾圧し、逮捕・拷問・虐殺してきた、あの特高警察官の息子であり、
父のしてきたことを否定もせず、否、それどころか積極的に父の後を受け継ぎ、
秘密保護法、集団的自衛権と、先祖がえりの法律作りに邁進してきた人たちです。
下の写真は小林多喜二(1903年10月13日~1933年2月20日)です。
貧農の家に生まれた彼は、苦学して親に楽をさせるために21歳で北海道の銀行員となり、
小市民的に生きることもしようと思えばできたのです。
しかし、1928年3月15日の大弾圧が彼の行く道を決定しました。
「雪に埋もれた人口15万に満たない北の国から、
500人以上も“引っこ抜かれて”いった。これは、ただ事ではない。」(多喜二の日記)」
貧農出身の彼はもともと権力・抑圧者への反抗心を持っていました。
その後、仕事の前、終わってからのほんの少しの時間を見つけて書き綴ったのが、
特高警察の残虐性を初めて徹底的に暴露した小説『1928年3月15日』です。
さらに26歳で、オホーツク海(ああ、私の故郷の海ですよ!)でまるで家畜のように
殺されるまでこき使われる労働者たちの姿を書いた『蟹工船』を発表しました。
世の中の甘い汁を吸っている大金持ちと帝国軍隊の癒着を鋭く描き、
特高警察の追求の対象になったことは皆さん、ご存知ですね。
そんなことが、日本で、追求・攻撃の対象になったんです・・・・・・。
どっかよその国の話ではありません。
下は治安維持法の下で小林多喜二に、特高警察が、したことです。
多喜二は特高警察に逮捕され、拷問され、虐殺されました。
たった3時間の拷問で死に至らしめたそうです。最初から転向させるためでなく、
殺すために逮捕したのです。
まだ29歳の若者でした。
特高だった高坂、町村の父親たちはその後も(戦後まで)、ずいぶん長生きしたのです。
町村金五(1900年8月16日~1992年12月14日):町村信孝の父親。
東京帝国大学(現・東大)法学部卒、内務省に入り、
官選新潟県知事、官選富山県知事、内務省警保局長、警視総監を歴任、
戦後に公職追放された。
自治相、国家公安委員会委員長、北海道開発庁長官、
北海タイムス社代表取締役会長などを務めた。
高村坂彦(1902年~1989年)。高村正彦の父。中央大学専門部法科本科卒、高文本試験合格、
内務省に入り、鳥取、香川、新潟各特高課長、
内務事務官、警察講習所教授、近衛内閣総理大臣秘書官、
愛媛県警察部長、内務省国土局総務課長、大阪府警察局長、内務省調査局長等を歴任し、
1947年(昭和22年)退官、衆院議員、徳山市長を4期、衆院議員を2期務めて、
私立徳山大学を設立し、理事長に就任、1989年10月7日死去。
――――――――――――――――――
公職追放された者が、何故簡単に政界に復活したのかと言うと、
全てはアメリカの都合で(戦後の日本がソ連、中国などのグループに入らんように)、
自分が作れと言って作らせた労働組合をレッドパージすると同時に、
自分が公職追放した大東亜戦争の立役者たちの権利を復権させてしまったので、
亡霊たちが戦後日本に生き返ったのです。
戦中の町村金五の役職「内務省警保局長」とは、特高の指揮をする地位でした。
4月、北海道5区で町村信孝亡きあとの地盤を引き継いだ自民党候補和田さんと、
野党共闘の統一候補、池田真紀さんが一騎打ちします。
町村信孝の地盤を引き継ぐって、どういうことなんでしょうか。
「平成の治安維持法」と呼ばれる「特定秘密保護法」の制定に腐心した町村信孝。
特高の指揮官の遺伝子をきっちり引き継ぐ息子が亡くなったんです。
それで、終りにしたらいいじゃないですか。
和田さん、町村の地盤を引き継ぐなんて、
そんなに胸を張って言えることじゃないと思いますよ。
歴史の事実をきちんと振り返り、吟味してから、どこの政党にするか
選べばよかったですね~。
今の日本を支配している(死んだ人もいますが)
自民党のリーダーたちの父親・祖父が、
こんなんですわ。なるほどね。
て言うか、祖父・父のくさびを断ち切れていないファザコンかい。
だからいまだに脳みそが過去の戦争中の状態で
「共産党は暴力革命をもくろんでいる可能性があるので、破防法の対象だ」
とか、言うんですね。