小樽
色内通りを中心とする色内地区は、明
治中期から昭和初期にかけて、続々と銀
行が進出し、小樽経済の中枢部となり、
「北のウォール街」とよばれました。
日本銀行旧小樽支店
日本銀行の小樽への進出は、明治26年
ですが、日露戦争(明治37-38年)
後の樺太の領有は、小樽の商圏を拡大し
小樽支店の業務の繁忙に拍車をかけまし
た。
この建物の設計は工部大学校卒業生の辰
野金吾らで、当時としては破格の約40
万円の建築費をそそぎこみ、明治45年
に完成しました。
荘重なルネッサンス様式の石造建築物で
す。
旧三菱銀行小樽支店
三菱財閥の基礎は、明治時代の海運界に
君臨した岩崎弥太郎一代において築かれ
ました。
三菱銀行が創立されたのは明治28年。
大正11年に銀行の小樽への進出にあた
って新築されたのが、鉄筋コンクリート
造り4階、地下1階建てのこの建物です。
1階正面の6本半円柱はギリシャ・ロー
マ建築様式です。
旧三井銀行小樽支店
三井家が北海道に関係するようになった
のは明治2年、海陸特産物売り捌きを依
頼され、開拓使からも金穀出納方を命ぜ
られたことに始まります。
現在に残る小樽支店の建物は、大正15
年起工、昭和2年竣工です。
大正12年の関東大震災後に耐震構造の
指針となった最先端の構造(鉄骨鉄筋コ
ンクリート造)が用いられました。
旧北海道拓殖銀行小樽支店
北海道の開拓業務を推進する政府出資の
特別金融機関として明治32年、札幌に
設立され、同34年小樽支店を開きまし
た。
現在に残る小樽支店の建物は、大正12
年の建築です。
ところで、翌大正13年には、小樽高等
商業学校を卒業したばかりの小林多喜二
が、為替係に就職しています。
働きながら作品を発表していましたが、
昭和4年に銀行を解雇され、上京します。
多喜二は秋田の生まれですが、4歳のと
きに小樽に移住しています。
多喜二の母校小樽商科大学のほど近く、
旭展望台への登り口に、文学碑がありま
す。
「冬が近くなるとぼくはそのなつかしい
国のことを考えて深い感動に捉えられて
いる。・・・・赤い断層を処々に見せて
いる階段のようにせり上がっている街を
、ぼくはどんなに愛しているか分からな
い」
獄中から友人に宛てた手紙の一節がきざ
まれています。
敗戦後は、樺太の喪失や諸外国との貿易
の途絶に伴い、小樽の港も街も徐々に衰
退していきます。
昔日の栄華を物語る建物だけが残存して
います。
(続く)
何時もお越し頂き、感想やお見舞いを有り難うございま~す!
風邪も大分良くなったのですが、この後今日も点滴に行かなければならないので、またゆっくりとお伺いさせて頂きますネ。
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