パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

実力通りの結果

2009年06月17日 22時40分22秒 | Weblog
ワールドカップ アジア最終予選A組
オーストラリア 2―1 日本

中村俊がいない、
中沢、遠藤、長谷部もいない
しかもアウェイだし、予選突破は確定している
岡田監督、負けても仕方ない等と
始めから理由付けできそうで、戦いに執着できにくかったのでは?

この戦いのモチベーションはドイツ大会のリベンジと
控え組のチャンスにかける思いだけみたいで
周りが騒いでいるほど緊張感はなかった

結果的には順当なものだったではないかな
というより先制点の方が意外だった
(予想では0-1で負けの予想だったから)

それにしてもボールをバイタルエリアに運べない
シュートを撃たない以前にそこまで行けないでいる
くさびのパスはぶれているし、
トラップはミスして相手にとられたり
またサイドからボールを放り込んでも身長差であまり有効ではないし
そのボールもイマイチ不正確
決定力不足というよりは推進力不足のように思えてならない

日本人は日本人らしいサッカーを
この考え方にはなんの疑問もないが
試合の前半、オーストラリア側が嫌に思ったプレーは
前にドリブルで仕掛けてくることだったのではないのか?

チョコチョコと細かい動きでスピードに乗って仕掛けられると
リーチは長いがスピードに欠ける彼らは
うまく対応できていないように思えた
(ファウルも多かった)
サイドでドリブルさせられるのではなく
真ん中に向かって仕掛けていく
どうもそんなシーンは見られない
真ん中を狙うのはいつもパスばかり
たまには別の方法もトライしなければと思うのに

それにしてもよく走る日本人のプレスを
軽くいなすオーストラリア
このかわし方はワールドカップに出場するクラスでは
当たり前の技術になっているので
闇雲に走り回るだけでは多分通用しないだろう
時と場所を考えてプレスしないと、、、

日本は人数をかけて守るが
(前線からもピンチになった時は全員で)
問題点はここにあるかもしれない
人数をかけないと守りきれないという事実
ドイツ大会のオーストラリア戦、守る人数は少なかったか?

そして球際の勝負、ここでも今日は
大きな体の相手に慣れていない所為もあるが
どうも負けていたようだ

フィジカルの所為を言うのなら、
そのフィジカルをどのようにして強くしていくか
を考えないと、これから先の可能性は小さなモノになってしまいそう

スペインのイニエスタ、シャビなどは日本人と同じくらいの体格だ
始めから才能の違いと諦めるより
何らかの方法であの何割かまでは至る方法がありそうな気がするが

負け試合を経験すると、いつもと言っていいくらい
基本技術の差を感じるが今日もボールキープの仕方
パスの丁寧さ、トラップ そうしたものは派手ではないが
オーストラリアの方が秀でていたように見える

それと気になったのはトラップしてから
パスをする後ろでのボールまわし
確実にするためにトラップするのはいいかもしれないが
ダイレクトパスでまわすことができれば
受け手に時間の余裕が生まれるので
粗野が広くなり攻撃の選択肢も広がると思うのだが

ダイレクトパスは攻めだけでなく
守りにも(?)有効なのでは

正直なところワールドカップでのベスト4は
今後よっぽどの伸びしろがない限り
難しいと思えてならない
(守りはそこそこでも攻撃力が貧弱すぎる)

これから1年間一気にブレークする人物が
数人出てこないかな!
出てほしい!


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「今、お金を儲けるには

2009年06月16日 22時11分03秒 | Weblog
運がいいか、悪いことをする、この二つしか方法がない」

先日テレビのある番組で、
森永卓郎がこのようなことを口にした
一見冗談のような話だが案外本質をついているかもしれない
(ちなみに彼は運がいい方でお金を儲けたと自己裁定していた)

食品偽装、産地偽装、食材使い回し、インサイダー取引、
強い立場を利用しての取引(値引き、派遣社員の要請)
名ばかりの管理職での人件費の節約などなど
自分が気がついているかどうかは別にして
この手のスレスレの仕事ぶりが、企業の営業利益を
高く押し上げているのも間違いないことだろう

コツコツやていれば、いつかはきっと、、、
こんなことは言葉の上では美しく響いたりするが
現実的にはこのタイプの人は
押しの強い、生命力、金儲けの意欲にたけた人に振り回されて
ただ暮らしているだけに陥りやすいのではなかろうか

定額給付金を狙ったプレミアム商品券
多くが1割の特典が備わったもので
一人頭、最高でどれだけと購入の制限があるのだが
何もしなくても1割の利益がある事実に誘惑されて
お金のある人はこの商品券を買い占めているようだ

誰もが考えることかもしれないが
このようなことを実際に行い、得をする人は
現在自由になるお金を持っている人しかできない

つまりコツコツタイプの人ではない

このお金を持った人たちのメンタリティーは
決まりを守ろう等といったロマンティックな気持ち(?)は、
儲けや得の前には、なんの意味をなさないのかもしれない

そんな状態でありながら、今不幸にして底辺の生活を
しいている方々に対して(勝ち組の人間は)
それは「自己責任の問題だ」とつっぱねてしまうし
どんな方法であれ、より多くの資産持った人に
人は根拠なく尊敬の念を抱いたり憧れを抱いたりしてしまう

こんな風に安易に目先の欲に負けたり、
人を生活状況だけで判断するようなことは
いつの時代もそうだったのだろうか?

それともここ最近のことなのだろうか?

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強くなるために

2009年06月14日 20時25分23秒 | サッカー
昨日今日は、幸い雨にも降られず、
暑くなり過ぎず、この時期心配な熱中症の心配もなく
順調に少年サッカーの合宿を終えられた

二日間サッカー漬けだったので
疲れたこともあっただろうが、子供によっては
なにかしらのきっかけをつかんでくれたらいいのだが

だが最近自分の考え方は世間一般の(?)指導者と
少し違っているのでは と思うことが度々だ

この様に合宿をするのは
近くに控える大会に良い成績をおさめるための
よい練習機会となるので必然的に
練習は勝つための練習に終始しやすい
そして練習試合を頻繁に行い
(確かに一番上手くなる練習は試合かもしれないのは認めるが)
システムの問題、ポジショニングの確認などを
つまり頭の部分の練習を行いやすい

今日の練習試合でもサイドバックの位置についてとか
ボランチの動き方などに外から指示が飛んでいたが
自分気になったのはサイドアタッカーが
前を向くトラップができていなかったり
インターセプトの狙いが希薄だったり
ディフェンダーが時間的に余裕をもってボールを持てる時には
攻撃のイメージが消極的だったりすること等で
他にも
Aチーム以外の子たちのレベルの上達が図れていないし
その子たちへの一人一人の上手くなるためのアドバイスが
なされていないこと

つまりチーム全体では効率よく勝つための方法論は
確保できていても個々のレベルが底上げできない

実際のところディフェンスラインを高めにあげようとしても
前の連中のキープ力がないと(タメではなくキープ力)
相手のディフェンダーにボールをとられ、結果的にラインは
下げさせられてしまう
だから高めにラインを上げることは現実的には
ボールを前に運ぶ能力のある人材を育てることで
今日もそんな子がボールを持った時には
みんなが「上げろ!」と指示しなくても自然とあがって
守りができていた

自分はこの今のところ少数のキープ力のある子供を
もう少し数を増やしたいと思っている
サッカーはチームプレーというものの部分部分では個々の戦いで
その戦いに負けない力をつけさせることが大事で
ポジショニング等は小学生の時点では
危険察知能力とか、何となくこの辺りの守りがよいのでは
といったアドリブの利く選手を育てたいと思っている

つまり練習は
キチッとカクカクシカジカの様に攻めて
カクカクシカジカのように守る
このことを実際のゲームで実現するために練習するのではなく
むしろ、どんな相手に対しても時間の経つうちに
それなりの守りも攻撃もできるような
柔らかい、応用力のあるチームを作りたいと思っている
それにはまずは個々の技術、メンタリティーのアップが前提で
個々このところの練習をしっかりとしたいのだが
どうもこの考え方は主流ではないようだ

各地で試合を行う場合でも
ベンチからよく聞こえてくる指示は、
結構小学生では難しいのでは!
というようなことと
ハーフタイムの指示も(自分らは休憩中で近くにいた時耳に入ってくる指示)
なんか小難しそうなこと

どうもなあ!

得点シーンの多くは結局のところ
みんなで崩したというよりは
結果的に個人の能力で崩したところが多く見られるし、
最後に頼りになるのは個の力であるのに
どういうわけか個で切り開いたチャンスや得点はあまり評価されない
(本当に勝ちたい試合以外は)

自分にとって、サッカーのチームプレーは誰々が替わっても
同じような戦い方ができるのが理想ではない
個人が違うのだから当然特徴も変わってくるから
同じようにできないのは実は当たり前のこと
まずシステムありきではなく
個人ありきで、この個人が気持ちよく楽しく効率的に
プレーできるのはどうするか
を考える
そして子供たちが自発的にゲームの中でも成長できるように
考える癖を付けさせる
指示に従う子は指示通りに動くだけの子になってしまう

さてこんな風に思っていても
現実にはこの考え方を実行できる状況にはない
(担当が小1.2年生)
といって他の学年に割り込んであれこれ言うのは
その担当の人の顔を潰すことになるし
また自分の考え方だけが全て正しいといった
訳ではないだろうから
今はできるところで、
できることをしていくことにするしかないかな
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明日は晴れますように

2009年06月12日 22時07分07秒 | サッカー
明日、明後日は恒例少年サッカーの合宿
この手のイベントは天気さえ良ければ
ほとんどそれだけで上手くいったようなもの
予報では何とか保つみたいだけれど
梅雨の時期だけに少し心配

雨の中のサッカーもこの合宿の最中に経験が数回あるけれど
それはそれで子供達は異様に興奮して
泥だらけになりながらも結構楽しんでいるみたい

もっとも自分らもそうだったけれど
雨の日のサッカーは一度転んだりして服が汚れない限り
なかなか割り切って走り回ることが出来ない
そのかわりいったん汚れたら後はお構いなし
で、雨の日を経験した学年は、ずっとそのことをよい思い出
として覚えているようだ

しかし、現実的には後の洗濯などを考えると
やっぱり晴れがいい
いや季節は暑いから、曇りであってくれればいいかな
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後を引くフランス映画みたい

2009年06月11日 21時31分06秒 | 
やっと読み終えた(?)オルハン・パムク「雪」
ゴールデンウィークに読み始めだから約1ヶ月要した訳だ

文字がページ全体をびっしり覆っていたけれど
それでも最後のページまで行き着いたところをみると
苦労した割には結構楽しんでいたのかもしれない
最近ではミステリー以外でこの厚さの本を読むのは久しぶりだ

それにしてもこの読後感は、後を引く
まるで一時期のフランス映画みたいに
急に変な(悲惨な)結末で、
やり切れなさがなかなか消えない

当初感じたドストエフスキーの悪霊のようなイメージは
いつの間にか消えて、かわりに浮かんだのが
漱石の「それから」

つまりこの本は政治や宗教を扱っているものの
メインとなるのは恋愛
しかし、その割には対象となる女性のキャラクターがイマイチ
わかりにくいのも事実だが

よく言われることだが、男女が別れ話になった時に
未練たらたらなのは男の方

女の方は未来に向けて、済んだことはあっさりと
忘れてしまえるかもしれないが、女の過去を知ってしまい
どうしても嫉妬の気持ちから抜け出せない男の導いた悲劇

そんなことはよくありそうなことだし
そのやりきれない気持ちは男の自分は理解できる
そしてこの男の気持ちの沈んだトーンを
ずっと間接的に表現しているのが
タイトルとなった「雪」の描写

トルコには行ったことがないが
この翻訳物の本を読んだだけでも
日の射さない、薄暗い雪の田舎町の姿が目に浮かぶ

この本の翻訳が上手いのか下手なのかわからないが
少なくとも充分に様々なイメージを浮かべることができたのは
やはり作者の文章力、技術なのだろうか

それにしても、後を引く、どこかやりきれない印象
その強さは残念ながら村上春樹よりも上をいくかもしれない
等と思うのはオルハン・パムクが既にノーベル賞を
受賞したのを知っているからだけではない

確かに欠点はありそうだが
その表現されたものの強さ、真剣さは
今生きている人間に何かを感じさせたり
考えさせたりする力を有り余るほど持っている
と思うのだが、、、

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やっぱり!

2009年06月10日 22時05分08秒 | サッカー
ワールドカップ最終予選
日本1-1カタール

この結果はあらかじめ予想したものとずれていない
低いパフォーマンスを予想したのは
体が連戦と長距離の移動で疲れている
と言う理由ではなくて
ウズベキスタン戦でワールドカップの出場が決まり
張り詰めていた緊張が解けてしまったから
と解釈した

いったん緩んだ体を元に戻すのは難しい
頭では分かっていても体はついてこない
そんなことになるのでは?
と思ったのだが
やっぱりそうだった

もっともスターティングメンバー
ボランチに阿部、橋本の二人はちょっと心配

中村俊、中村憲。岡崎、玉田では
推進力がないように感じたが
これは今回に限らず先のウズベキスタン戦でも
垣間見られたこと

このボールを前に運ぶ力がどうも日本は非力な気がしてならない
運ぶと言ってもサイドに追いやられて運ぶのではなく
真ん中の部分でのこと
運ぶ方法はドリブルでもパスでもいいのだけれど
どうも軽い
縦を切られると一気にスピードダウンしてしまう
そして日本人の特徴の一見早いように見える俊敏な動きは
絶えずスタートダッシュの繰り返しみたいで
リレーの様に勢いを殺さずに継続してゴール前まで
進んでいくってことは見られない

比較する相手がレベルが違いすぎるかもしれないが
バルサやマンUなどはミッドフィルダーがもっと
低いところからドリブルで仕掛けたりして
ドリブル阻止に人数をかけさせている
しかし日本は後々が安全なパスだけ
そかも止まったところから
たまにはスペースに行くが、どちらかと言えば足元に

これから先のことを思うと
とにかくボールを前に運ぶ方法やら
力強さ、確実性を高めないと前回の二の舞になりそうな
気がしてならないが
果たしてここからの伸びしろは
現在のメンバーであるのだろうか

新しい血もやっぱり必要な気がするが
どうなんだろう
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音は変わったか?

2009年06月09日 22時23分10秒 | Weblog
とうとう誘惑に負けてレコードプレーヤーを
トーレンス(TD126 MK3)からノッティンガムに替えてしまった
先日オーディオショップから来たDMで案内されていた下取り品だ

で、音の違いは実際にあったのか?

一番最初に感じたのはレコードを聴く時に
音量を上げるとボーッとした音が出るのが
このプレーヤーではあまり聞こえなかったこと
(アースが2本ついているから?)
そのおかげで?CDを聴いている時のような
静寂、無音の良さを感じ取ることができたみたい

次に感じたのは、音が痩せたみたい
ということ
音自体はひとつひとつスッキリしたようなのだが
トーレンスの時のようなふくよかな感じはない

レコードプレーヤーを替えただけで
こんなに印象が変わるものなのだろうか?
カートリッジはいったいどちらの音の方が
本当の音なのだろうか

いや本当の音などは存在しなくて
それぞれの好みの音だけが存在しているのかもしれない

最初に聴いて確かめたのは
ドビッシーの小組曲のオーケストラ版
これが上記の印象

次にカインド オブ ブルーのB面
これはこのプレーヤーの方が良かった
サックスの息を吹き込む様子、微妙なニュアンスが
より感じられた

ジャズの方がいいかも!と次に引っ張りだしたのが
キースジャレットのスタンダーズ1から
ゴッド ブレス ザ チャイルド
あのアヴァンギャルドのある喫茶店で聴いた曲
これもベースの音がくっきりイキイキとして
曲間に聞こえるキースのうなり声も以前のものより
しっかり聞こえる
(あまり上手くないと言うか、変な音程?)

どうやらこのプレーヤーはジャズの方が
相性がいいのかもしれない

クラシックの分野は
夜に音量を上げてオーケストラ曲を聴くわけにはいかないので
正確には評価できないが(ちょっとだけモルダウを聴いたが)
オーディオショップの方の言うように
聞こえなかった音が聞こえる!
といった瞬間が確かに存在する

トーレンスはフローティングであるのに対し
ノッティンガムはカチッと固めている
この違いが音の違いに大きく影響しているのだろうか?

だが静かに回るだけに徹しているこのプレーヤーは
確かにプレーヤーとはそうあるべきと思わせる何かがある
これで自分の耳がもう少し慣れてくると
もっと違った印象を与えてくれるかもしれない

だがあのあったかい感じ、ボワッとグラマラスな音の
トーレンスもよかったな(下取りに出してしまった)
と後悔の念があるのもまた事実

好みというものは理屈やスペックで
納得できるものではないようで
もう少し自分の好みを自覚しておけばよかった

それにしてもCDのお化粧した様な音と比べて
レコードのなんと生々しい音であることか

便利さだけでCDや配信に音楽ソフトがシフトしているが、
なんだかインスタントラーメンを食べているみたいで
本物の音楽でないみたいに思えて少し心配

もっともレコードにしても生演奏に比べれば
作り物、複製品に過ぎないが
それでもどこか技術者、音楽家の執念みたいなところが
感じられるのは何故なんだろう

しばらくは古いレコードを引っ張りだす日々が続きそうだ

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計算できない子供たち

2009年06月08日 22時13分08秒 | Weblog
昨日は年に3回の小1から小6まで
全員参加できるサッカー大会(の今年第1回目)

勝つことよりも楽しむことに重きを置いているので
(6年生くらいになれば勝つことが楽しいだろうが)
自分の担当の子供たち32人を(1年7人 2年23人 3年 助っ人で2人)
1年生は別として、全てのチームが同じくらいの戦力になるように分けて
それぞれ核になる子供が、いつも以上に頑張らなければ
良い結果を得ることができないようにしたのだが、、、

どうも予定とは大幅にずれてしまった
普段の練習の時のゲームなら走り回って
手に負えない感じの子供が、どういうわけか全然目立たない

他の子もテンションがあがって普段より活躍したので
相対的に目立つ活躍ができなかった
 といった感じではない

むしろ体調が悪かったのか?
とも思えるくらい

そういえば以前もこんなことがあった と思い出したのは
大会が終わる少し前のこと

そう、その時もいつもはチームのリーダー的なプレーをする子が
全然ダメだった
だから経験として、子供たちの戦力は計算通りにはいかない
と頭に入っているはずだったのだが
やっぱり出来不出来のムラがある事実を再確認させられた
ホント、子供たちの調子を見抜くのは難しい

それにしても、つくづく練習を真面目にやっている子は
上手くなっていくものだ
決して運動神経がいい子ではないが
言われたことを真面目にひたむきにやっているその子は
チーム分けの時にも「~~君が欲しい」と乞われる始末
単に実力だけの問題というより
子供たちの中にも何か感じるものだあるのかもしれない

反対にいつも練習をサボリ気味な子は
いざゲームになって頑張ろうとしても
なかなかそうは問屋が卸さない様子

毎日のことの積み重ね 
知らないうちに大きく差がつくようなことになってしまう
これは、まるで教訓のようだ

昨日も泣き虫君は期待を裏切らなかった
負けが決まったとき目はまっ赤だった
いつもの喧嘩とか怪我で泣いているのではなく
明らかに悔しくて悔しくて泣いている
そして確かに彼にとっては悔しいだろうな
とも思わせるような試合でのがんばりだった

悔しくて泣く姿、
子供たちが一生懸命やっていればいるほど
こちらも切なくなってくる

だが、この泣くことも、勝って大喜びすることも
たった一日のうちに大幅な気持ちの変化を経験できて
子供たちにはよい経験と言うか
少しばかり羨ましいような熱中ぶりだ

話は元に戻って、子供たちの実力は本当に
コンスタントに計算ができない
ただ親御さんが見に来てくれた子供たちは
相対的に頑張れていた

子供たちが上手くなるためには
親御さんたちの応援が必要なのかもしれない

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冷静だったディフェンス陣

2009年06月07日 01時10分52秒 | サッカー
日本1-0ウズベキスタン
ワールドカップ出場決定

ディフェンスの頑張りがすばらしかったゲーム
特に楢崎の安定感、集中力はチームに安心感を与えるものだった

岡崎よく入れた!
そしてよく走った

それにしてもアウェイというものの
凄まじい審判だった
ディフェンスの頑張りはこの審判の下でもカッカしなかったこと
本当に精神的に強くなった
これも経験からくるものなのだろうか

まずは、よかった、よかった
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「なるようにしか、ならない」と考えるのも一つの手

2009年06月04日 22時08分35秒 | Weblog
景気が回復したとする
それで全ての問題が解決するかと言えば
はっきり「ノー」と言えるところが
多くの人々に不安を与え続けている理由

景気が戻っても、そこで見える景色は
以前のものと随分変わってしまっていることだろう
そして、そこに自分たちの居場所が見つけられるか?
実際には、なってみないことにはわからないが
予想される範囲内では、漠然とした不安が沸々とわき上がってくる
のも正直なところではないだろうか

例えば、小売業に携わる人々は、人口減少の現実と
幸か不幸か日本が成熟した社会であるため
耐久消費財等は既に多くの家庭で所有しており
買い替え需要しか期待できず
その上、ますますの競争激化で、
一番手っ取り早い価格競争の手段を
大手流通がとるために結局は体力勝負になり
そこに参戦できない中小零細企業は淘汰される運命にあり
生き延びているように見える大手ですら
M&Aの波に取り込まれたり(吸収される方は大変だ)
計画の無理がたたって第2のダイエーの道を
歩むのではないかとびくびくしている姿を
容易に想像することができる

この辺りは本当に個人の力では何ともならない事柄だ

真面目にコツコツやっていれば上手くいく
かつては当たり前のように信じられていたこのことが
今やあまりリアリティーを持って感じられない


経験を積んだ大人は、なまじっか先を読みすぎる傾向にあるが
その予想は悲観的に考えやすいこの国の人たちのメンタリティーも相まって、
どうしても明るい未来というわけにはいかない

一概に比較することはできないかもしれないが
第2次世界大戦後の日本と今の日本
いったいどちらが幸せだったり、豊かだったりするのだろう

闇雲に明るい未来を信じられた戦後の社会は
物がなくても幸せだったんじゃないかと
フト無い物ねだりをしてしまう

どうやら物に囲まれていても人は
それほど幸せになれるわけでもない
なのに経済は物をより多く所有する方向にしか
進んでいかないし評価もされない

こうした社会の中に生きている我々
確かに必要以上にストレスにさらされる

根本的な解決法が見つけられない今
我々にできることと言ったら
「ケ セラ セラ」「レット イット ビー」と
開き直ることかもしれない





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