パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

帰宅してからの服装

2012年01月29日 20時46分54秒 | Weblog

どちらが多いのだろう?
帰宅してからジャージやパジャマに着替えて
ダラーッと緊張感の抜けた服装をする人と
帰ってからもちゃんとして突然の来客にも
対応できる人と

自分の答えは前者
帰るとネクタイ外して、楽な格好に着替えて
緊張感の欠片もない

トレンディードラマなどでは
帰ってからもきちんと着ているので
それがリアリティの欠如に繋がっている
などと思うのは考え過ぎか

もっとも家の雰囲気にも左右されるかもしれない
住宅のモデルルームの家やコンクリートの打ちっぱなしが見える家
欧米風な家は呑気な親父っぽい雰囲気は似合わない
ダラーッと出きるのは畳敷きの
炬燵がデンと構える日本の家っぽい気がする

一体、家に人は何を求めているのだろう?
自分の家が一番!
この思いは旅に出て旅館に泊まって、
我が家に帰った時に多くの人が感じる感情
それは我が家が緊張を解すための空間と言う事ではないのか?

もっとも外に出ている男たちはダラーッとしたいかもしれないが
常に家にいる女性陣はオシャレな空間を望むかもしれない
そしてそのおしゃれな空間には
きちんとした服装が似合うかもしれない

それでも、やっぱり家ではダラーッとしたいな

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知らないと過大評価しがちになる

2012年01月28日 19時41分23秒 | Weblog

パッと見、すごい商品構成・陳列の店舗などでは
その店はまるで専門店的な凄さがあるように感じてしまう

自分の関心の守備範囲以外の人の、
その人が一番関わっている話を聞いたりすると
その人がとてつもなく素晴らしい人に思えたりする

何かの機会に同じ業種の仲間の会合に出席したりすると
初めて出会う他の人は自分よりも数段優れているのではないかと
不安になったりする

しかし、凄い商品構成に見えても、
その分野のオタクみたいな人から見れば
案外大したことがないと思えることも多い

例えばナチュラルチーズの百貨店売り場
陳列は一見凄そうに見えても、定番の商品に少しだけ変わったものがあるだけで
なまじっかある商品を決めて探そうとしても見つけられない事が多い

自分の関心以外のスペシャリストも
自分の得意とする分野の話に引き込めば
全部が全部すごい人出いられないことが分かる

初めて出会った人も
確かにスゴイ人はいるかも知れない
しかし、確率的にそんなに矢鱈とすごい人ばかりでもなく
反対に冴えない人ばかりということもない

つまり、知らないということは
不安が先立つせいか評価を高くしがちになってしまう

それはそれで悪いことではないけれども
それでもって自分を見失うこともない

どのみち自分は自分でできることしかできないし
自分らしく振る舞うしかないのだから

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東福門院 和子の涙

2012年01月27日 21時19分51秒 | 


まだ読んでいない本のことを書くのは少し心苦しいが
読もうと思ったきっかけは、まさに自分らしいので
ちょっと記録がてらに

この宮尾登美子の小説の主人公は去年の大河ドラマ「江」の娘
つまり2代将軍秀忠の娘
しかし、実はこの関わりで読もうと思ったのではない


このヒロインの嫁いだ先が修学院離宮をつくった後水尾上皇
もともと京都好きの自分がまだ訪れていない名所
「修学院離宮」を紹介するテレビ番組で
後水尾上皇のこだわりの他にこの徳川和子のことが紹介されていたので
むしろ後水尾上皇絡みのことが知りたくて手にした次第

ところでヒロインは「江」の娘だが、同時に秀忠の娘であることは
先程も挙げたが、この秀忠の生みの母は
この地方豊橋の嵩山出身の女性「西郷局
そして西郷局はこれまた地元新城市の野田城から
嵩山に嫁いだ人の孫(だったかな?)

少しばかりややこしいが
このあたりは歴史上の重要な人物に関連していた
ということ
もっとも、菅沼家も長篠城の奥平家も元をたどれば
土岐や群馬の方に縁があるらしい

人物の家系をたどっていくのが楽しいのではなくて
自分の興味の中心は後水尾上皇の方
政治に嫌気がさして建築オタクになってしまったのは
バイエルンのルードヴィッヒ2世と似ているかもしれない(?)

とにかく読んでいないからなんとも言えない
東福門院と名があるのだから
あの紅葉で有名な東福寺に関連しているのかどうかもわからない

いずれにしても最期まで読むことのない最近の読書
この本で頑張って、勢いを付けねば!

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温度計の数字と体感温度

2012年01月25日 20時42分41秒 | Weblog

我が家は5年前に立て直す時
思い切って蓄熱式の床暖房を1階部分に取り入れることにした
イニシャルコストはかかるけれども
夜中のトイレ、お風呂に入る時の温度変化、灯油の補給、
ストーブの置き場所、年寄りのことを考えて
このくらいの贅沢は実は贅沢ではないのでは
と考えて導入した

実際、これは大正解だった
何よりも部屋全体がほんのり暖かい
もっと正確に言えば寒くない
(節約家だから必要以上に床暖房は稼働させていない)
そこで温度計を見ると、朝は13℃とか14℃を示している
しかし寒くない
ヨガに行ってその会場の温度計が16℃でも寒くて大変で
直ぐにエアコンを入れる家人と話しとは大違いだ

床暖房は輻射によって温まり
ストーブやエアコンは空気を温め、対流によって気温の確保を
しているのと体の感じる印象は全く違う

ここで燃料代はどのくらいかかるか問題になるが
最近は年々節約傾向が続いて
灯油による蓄熱式床暖房は、朝5時から半分は7時、半分は8時まで
夜は5時から8時くらいまで稼働させている
その費用は11月から4月いっぱいまでで
前期は灯油代が5万円位で済んだ
今年は今の調子だともう少し安く済みそう
この使い方で下79平米は寒くなく、2階部分もエアコンは必要なく
ハロゲンの暖房機があればいいくらいの感触だ

それにしても、なんといっても体が楽だ
部屋ごとの気温変化がないし
お風呂の脱衣も問題ないし
長風呂しなくても体は温まる(体がそもそも冷えていない)
困ることと言ったら部屋が寒くないので
外の温度のことを忘れてつい薄着で出てしまいそうになるくらいのこと

お金の使い方について
この床暖に使ったことに関しては
ホントヒット作だった、いやホームラン級だ

 

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鳥居強右衛門の逆磔之図

2012年01月24日 21時57分26秒 | Weblog

この図は敵方である武田側の落合左平次道久が、
強右衛門の忠義心に感動し、磔にされている強右衛門の姿を絵に残し
後にこれを旗指物に使ったとのこと

ここで感心するのは強右衛門の忠義心の凄さよりも
敵でありながら素晴らしいものは素晴らしいと
形に残した男たち

死をかけた戦いではあるが、憎しみ合っていない
認めるところは認め合って
これは少しばかり羨ましい世界

ところが何時からなのだろう
敵は憎むべき存在になってしまったのは


やられた方は悠長な思いに浸っていることはできないのは
わからないでもないが、
武器が自分の勇気とは関係なく
人を殺める道具になってしまった時から
人の気持ちも変わってしまったかもしれない

戊辰戦争などは憎しみそのものだったかも

多分、人は人を知りさえすれば
それ程憎むことはできない
お互いに家族が恋人があり、同じような感情の存在することを
感情的に知ることが出来れば
戦いは無駄なことと考えるに違いない

兵器の均衡状態によって平和が保たれると言う考え方は
一見現実的に思えるかもしれないが
お互いを知りあう、認め合うという交流をすることは
実はもっと効果的かもしれない(いや無理かな?)

戦いが無くならないのは不可能だとしても
鳥居強右衛門を敵方が描いた時代
此の様な心情の世界であって欲しいものだ

 

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比較

2012年01月23日 20時00分25秒 | Weblog

例えば美味しいもの
そこそこのモノを食べている(飲んでいる)と
それ以上のものを食べても(飲んでも)大した感激はない事が多い

ところが反対に良いものを食べ慣れてしまっていると
美味しくない食べ物(飲み物)は直ぐに分かる
それは個人の好き嫌いを越えている

レコードとCDの比較も同じ事
CDからレコードは分かりにくいかもしれないが
一旦レコードを聞いた耳でCDを聞くと
音がベールを被ったみたいだったり
スカスカした感じで物足りない

昨日、生のソプラノの歌を聞く機会があった
これは、いいものからそうでないものの順番ではなかったが
比較するとその差がわかってしまう典型みたいな経験だった

「あすという日が」という曲の後プッチーニの蝶々夫人から
「或る晴れた日に」が歌われたのだが
この最初の「あすという日が」の楽曲が問題で
歌詞は言わんとするところはわからないでもないけど
少々理屈っぽかったり、そのまま過ぎたりするし
音楽も流れが強引な部分があってイマイチ不自然だったり
つまり、自分は気に入らなかった訳だけれど
このあと歌われた「或る晴れた日に」はその歌唱が
良かった良くなかったを越えて
楽曲の良さが際立っている感じだした

感情の流れに沿って劇的で効果的で
しかも美しい
時を経ても後世に残っている楽曲はそれだけのことがある

「あすという日が」は「或る晴れた日に」と
容易に比較できる順番でないほうが良かったかもしれない
そうでないと、チョット可哀想な気がした
もっとも、いつもの独断・偏見の類かもしれないが

 

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「平清盛」の作曲家吉松隆と武満徹

2012年01月22日 19時17分52秒 | Weblog

朱鷺によせる哀歌
<!-- 朱鷺によせる哀歌 -->

NHK大河ドラマ「平清盛」の音楽は吉松隆
現代音楽でも難解ではない作曲家
武満徹みたいな緊張感に富んだ音楽ではないが
こんなのも有り!だなと感じる

ストラヴィンスキーが評価した武満の音楽
弦楽のためのレクイエム
<!-- 弦楽のためのレクイエム -->

どちらも生で聴いたほうがいいみたい
ついでに聴き流すと
耳の周りを音が過ぎていくだけになる

 

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スマートフォンの使い方

2012年01月22日 08時17分17秒 | Weblog

困ったときの神頼み的な使い方
それが現在のスマートフォンの利用方法

外出時に、ちょっとした調べ物をする時
地図・場所がわからない時
電車で時間つぶしの時
このくらいが主だった使い方

スマートフォンは実は電車通勤の人には必要アイテムかもしれないが
車通勤の多い田舎では、電波の状況の良し悪しに関係なく
使う機会がないのではないのか

家に帰ればパソコンやタブレット端末があるから
小さな画面で無理やり見ることもない

普通のHPは小さな画面では見づらいので
スマートフォン用にしたほうが見やすいが
調査によると多くの人はアプリ(多分ゲーム)の
利用が圧倒的らしい

どっちにしても、電車を使う人、車が主体の人
この生活スタイルで大きく違いそうだ

iPadはその点、リビングで、寝室で使えるから便利この上ない
ノートパソコンの存在価値は少し怪しくなってきた

外ではスマートフォン
家ではタブレット端末
まじめに見るならラップトップ
いやはや、忙しい時代になったもんだ

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マズローの欲求5段階説は本当か?

2012年01月21日 23時26分14秒 | Weblog

既成事実化のように広まって、数多く引用される
有名なマズローの欲求5段階説

  1. 生理的欲求(physiological need)
  2. 安全の欲求(safety need)
  3. 所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
  4. 承認の欲求(esteem)
  5. 自己実現の欲求(self actualization)

この様に人は欲望を持ち、それを求めて行動すると説明される

これは個人的な時間の経過による欲望の変化なのか
それとも時代背景を含めた世代の欲望の変化なのか

ここで3番目まで既に確保されているとしたら
(普通の裕福な家庭ならありうる話に思えるが)
果たして4番、5番と進むのだろうか?

この4番目の欲望は半端じゃなく大きく強いものではないのか
それは欲望の全てとも言えそうなくらいではないのか
自己実現したい欲望は実は人に認めてもらいたいがため
そんな事はないだろうか


創造者たちは多分この順番を踏んではいない
彼らは段階を踏まなくても
5番目が最優先になっている
これは結構有りそうな話に思えるが、、、

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パユの「春の海」

2012年01月20日 22時02分53秒 | 音楽

先日、通勤途中の車の中でNHKFMから
パユのフルートによる「春の海」を聞く機会があった
(多分再放送)

外国人の演奏する日本の楽曲
楽しみに耳を凝らして、聴いてみると
聴き流す感じでは何ら日本人の演奏と大差無いように思えるが
よく注意して聴いてみると、やっぱりどこか違う

音楽は世界の共通語、まして歌詞のないジャンルでは
国による違いはないと思っていたが
この演奏は日本人のものではない感じがある

確かに楽譜に忠実、しかも効果的に思いも込めて演奏している
しかし、音の切れというか息継ぎの感じと言うか
(自分は素人なので感じたことを記すだけだが)
身についた日本語のリズム・575の産み出す世界ではない

日本人の演奏はここまできめ細かくないかもしれないが
それでも雰囲気がある
共通の感覚を前提に演奏し、そのニュアンスは自然に体に入っていく

日本の楽曲だからお国ぶりの違いを感じることができたわけだが
これが反対に外国の曲を日本人が演奏したとなれば
今度は全く反対の思いを外国の人は持つかもしれない

つまり歌詞のない音楽でも
明らかにお国ぶりというものは存在する
そしてそのお国ぶりというものは多分言語のリズムに依存する

それが何だ?
と言われれば、別に何もない
ただ、そんなふうに思っただけのこと

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