パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「エリート」、「保守」の意味合いは、、、

2019年07月31日 09時09分06秒 | あれこれ考えること

暑いっ!
梅雨が続いていた頃は青空が見たいと思っていたが
いざ太陽が真上から照りつけるようになると
これも勘弁してほしいと思うことしきり

エアコンの無い(PCがある)二階の部屋は涼しい午前のうちしか活動ができない
エアコン据え付け用の電源も確保してあるが、ずっと我慢の子であったので
今更設置する気になれない貧乏性は、きっとこのままなんだろう、、

暑いと何もかもが面倒くさくなる
考えるだけでなく感じることすら省エネを目指しているかのよう
考えるのが面倒なので今日のネタは以前、気になって書き留めておいたものの紹介

オルテガの「大衆の反逆」には大衆に対する概念として「エリート」あるいは「貴族」がある
これがなかなか注目に値する
書き留めておいたものを紹介すると

大衆の反対は「エリート」であるが「エリート」もまた、特定の階層や職業を意味するものではない。
オルテガによれば、「エリート」すなわち「選ばれた少数派」とは、「自分に多くを要求し、自分の上に困難と義務を背負い込む人」のことである。

エリートは、「自分よりもすぐれた、自分の彼方にある規範にみずから訴えることが必要だと、心底から感ずる性格をもっていて、
その規範のために易々として身を捧げる」のである。
そのような自らに厳しい規律を課している人間であれば、寿司職人であろうがプロ野球選手であろうが、「エリート」と呼ぶことができる。
反対に高級官僚であろうと財界の幹部であろうと、「自分に何ら特別な要求をしない人」であれば、それは大衆的人間にすぎないのである。
大衆というのは「社会階級の区分ではなく、人間の区分、であって上層、下層の階層序列とは一致するはずがない」とオルテガは明言している。

また「貴族」にはこんな表現をしている

「私にとっては、貴族とは努力する生の同義語であって、常に自分に打ち克ち自ら課した義務と要請の世界に現実を乗り越えてはいっていく用意のある生である」
再び確認しておくと、ここで言う「貴族」とは特定の階級のことではなく、人間の高貴な生き方のことである。

これには続きがあって「大衆」をこのように批判している

これに対して大衆的人間とは、今の自分に満足し、安穏として暮らせる現状にあぐらをかき、自己鍛錬をすることなく、いい加減に日々を過ごしている者のことである。
こうした大衆は、発達したし近代産業文明の中で、豊かに安全な暮らしを保障されるようになったことで世にはびこるようになった。
大衆とは近代産業文明から生まれてきたのである。

どちらも自己に厳しい規律を課しているような人、、ということになるが、日本でこの意味で「エリート」とか「貴族」が使われると良いのだが
日本では「出世コースを邁進しているちょいと運の良い人たち」で、一歩間違うとルサンチマンの対象となりそうな認識ではないのかと不安になる

言葉の使い方で、これもどこか違ってやしないかと疑問に思えるものに「保守」がある
保守の旗頭バークは

偏見は文字通り人が前もって(pre)一定の判断(judge)をもっていることを示唆する。その意味で先入見とも訳すことができる。
通常できるだけ偏見を排して物事をみるべきであると言われるが、人間精神はすべてのものでも常にゼロから眺めることはできない。
むしろ、多くの対象について、人間はあらかじめ判断して、ある所与の基準から理解する。

その意味で、人は常に中立的な立場から論理的に思考するわけではなく、かなりの程度あり合わせの道具立てで状況に対応する。
さもなければ思考に時間がかかりすぎて、変化する多様な環境に適応できないからである。

人間の思考とは、長い時間をかけて斬新的に発達したものであり必ずしも合理的に設計されているわけではない。
このように考えるバークにとって啓蒙思想家たちはひとたび偏見や迷信を打破すれば、
後戻りすることなく理性がおのずと支配的な地位に立つと考えた点で、根本的に誤っていたのである。

少しわかりにくいので、日本の保守の代表格西部さんの言い分を抜き出すと

保守主義は宗教に対する狂信と科学に対する盲信とをともに回避したうえで、いわば進歩の中庸化を図ろうとするものである。
しかし、その中庸は決して単なる平準化・平均化なのではない。
科学によって代表される合理性と宗教によって代表される非合理性のあいだに、つまり対立する価値のあいだに際どく平衡を与える知恵の集積、保守主義が保守しようとするのはそれである。

保守主義は人間の完全可能性を信じない。それは人間が知的にも道徳的にも不完全であるという前提から出発する。

人の(理性による)進歩を無条件に受け入れず、人間は失敗するものとし、失敗を試行錯誤で乗り越え
より良き社会を形成してきたと考えるならば、過去の慣習や思考は一概に否定できるものではなく
一旦は考慮すべきもの、、、、と捉えている

しかし日本の「保守」の使い方とか理解はどうもこのようではなく
偏った「伝統回帰」のみに突出しているような気がしてならない

一部の人から安倍さんは「保守主義ではない」と言われるのは無理からぬことと思える

それにしても、言葉で人間社会は成り立っているというものの
その言葉は一人ひとりが案外勝手に理解し使っているものだと実感する

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「帝国の慰安婦」を読みながら感じたこと

2019年07月29日 09時33分14秒 | 

映画「主戦場」を見て従軍慰安婦について関連本を探していたら
客観的な本と紹介されていたのでアマゾンから取り寄せ読み始めた

「帝国の慰安婦」朴裕河

現在進行しつつある日韓関係の背景の一つを丁寧に説いている
まだ途中の段階だが、思わず泣きそうになった
具体的にどこの箇所か覚えていないが文字が滲んきた

圧倒的に感じるのは「そういうことはあったかもしれない」と思わせるリアリティだ
明日は生きていないかもしれない
先程もとんでもない戦いだった、、
と実感している生物としての男は、一種の興奮状態であの行為に浸ってしまうこと
故郷から遠く離れた男が求めたのは、衝動的な行為だけでなく、安らぎでもあったこと
日本人の中でも何もしないで時を過ごした人もいたとか、、、
女性の中には日本人に愛情を覚えてしまう人もいたとか
どんな悲惨な中でもたくましい生き様を求めるものもいたとか
騙され管理された女性たちがあるときは遊ぶとか馬に乗るとかダンスをするとか
刹那的な気晴らしに時を忘れることがあったとか(そうでなければやっていけない)
一部の韓国人がそういう組織の協力をしたとか
業者はただ儲けるためだけに嘘を平気でついたこと
軍は強制的に運営はしなかったとしても、病気等の定期検査を行い管理していた
親も親戚もそして自分自身も秘密にしておきたかった
いつまでも記憶に蘇る屈辱的なシーン(便所扱い)

要するにすべてが異常の中の出来事で、一旦異常が発生してしまえば
人間というものはこのようなことをしてしまう存在であることがわかる

人間がしでかしてしまう失敗を振り返さないための教訓として、この問題が扱われればいいのだが
残念ながら国と国(特に隣同士の国)では、そう簡単に物事は進められないようだ
そこには政治的な意図が介入する
そして情報はその政治的な意図によって、取り上げられるもの切り捨てられるもの無視されるものに分けられる
これは韓国に限らず日本でも(いや歴史上何時の時代もどこでもそうなんだろう)
人には意地とかプライドがある
それらが表に出るときは、物事の本質とは別の力が大きく働く

この本は韓国国内でも批判されたようだ
ハンナ・アーレントも「イスラエルのアイヒマン」の出版は批判された
どちらも組織に協力した被害民族がいたと明らかにしたからだ
だが、それは決してありえない話ではない、、
むしろ、あのような状況では人はそれをしてしまうかもしれない
といった一般化できるよう行為だ

正直なところこの本を読むまでは「慰安婦」のことはよく知らなかった
なんとなく感情的にお互いが、相手の主張を一方的に受け付けないでいる
そんな印象を持っていたし、残念ながら今もそれは続いているように思える

話は逸れるが、この相手側の話を一方的に受け付けない雰囲気というものが(この話に限らず)
現在の日本に強く漂っていないか、ふと連想してしまった
最近の技術であるインターネットは情報収集には便利で有益だが
どうしても自分にとって好ましい意見だけを受け入れてしまい
反対側の意見に対して感情的に反発する
物事を妙に単純化して、個人攻撃をする
そしてよくわからないが一方的に「論破」したと宣言する

ITの発達によって加速化された意見の分断
そしてその思い込み
一部の情報だけが一気に空気を支配する
そして「数は力」だと開き直って自分たちを正当化する人たち

「帝国の慰安婦」は、事実確認として非常に参考になるだけでなく
様々な問題提起とかインスピレーションを引き起こす
読み終えるには少し残っているが、今年読んだ本の中では「職業としての政治」
と同等の読まれるべき本の一つ
(このような本がベストセラーにならないものか、、と切に思う)




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

直感による把握(藤圭子とフルトヴェングラー)

2019年07月27日 09時40分57秒 | 音楽

宇多田ヒカルのお母さん、藤圭子の歌う「乱れ髪」をYoutubeで見た
コメント欄にも書かれているが、うまいな!と感じる
(うまい!が適切な表現か疑問だが)
歌が始まった瞬間から独自の世界が現れる
あの独特な声の伸びも美空ひばり並みで味わいがある

Youtubeの良いところは、他の人が歌うのを直ぐ様比較できること
早速手当たり次第に探してみると
作曲した船村徹の歌うものやら森昌子のも見ることができる
船村徹のは彼の年齢から来る味わいも好感をもった
森昌子は「うまい」とか「丁寧に技術的・効果的に歌ってる」と感じる

比較して初めて分かるとか感じることがあるが
藤圭子の歌の直ぐに感じる「直感による全体の把握」の印象は
他の人にはなかなか感じられない
他の人は分析的・心情に寄り添っての捉え方(のように感じる)

話はいきなり飛んでクラシック音楽の指揮者に移る
自分が二度もお墓参りに訪れたカラヤンの前のベルリン・フィルの指揮者フルトヴェングラー
この人の演奏は藤圭子の歌の印象に近い
音楽は大づかみに把握され、それが紛うことなき直感に支えられているような
フルトヴェングラーは作曲もしているので、作曲技術の分析的な把握はできているが
演奏は分析の結果成り立っているというより、もっと別の、やはり直感というしかない
ものに支配されているような気がしてならない
そしてそれは誰にも真似はできない
天才とは(天賦の才能)とはこういうものだとつくづく感じてしまう

もっとも、このように感じる事自体がかなり個人的な捉え方で
これが一般化されることはないのかもしれない
でも、本人はこの考え方が気に入っている

フルトヴェングラーは過去の人になりつつある
ドイツ人でもフルトヴェングラーを知らない人は多い
ハイデルベルク駅の観光案内所で「フルトヴェングラーのお墓のある場所はどこですか?」
と聞いたことがあったが、若いスタッフは「フルトヴェングラーって誰?」といった表情をした

これはとても残念なことだが、時代はその求める精神も変わってきているかのようだ
フルトヴェングラーの深い洞察力と音楽への没入
そうしたものは、もはや求められていないかのように思えてしまう
でもだからこそ、一旦知ってしまった彼の魔術のような音楽に身を委ねて何かを
感じたいと思ってしまう

でも彼の演奏は、何度も気楽に聴くというタイプの音楽ではなくて
その気になったとき、まるでコンサート会場にいるかのように集中して聴くほうが得られるものは多い
(おととい、何年かぶりにブラームスの3番のレコードを引っ張り出して聴いてみた
 彼としては評判の演奏ではないが、それでもとても面白かった)

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ツイッターの投稿から思うこと

2019年07月26日 08時32分51秒 | あれこれ考えること

学生時代、同じ下宿屋の彼は突然
「俺はヨーロッパに旅にでる。大学は休学する」
と宣言した

そしてその言葉通りさっさと手続きを終えて自分らの前からいなくなった
しばらくして彼からはモスクワの風景が写った葉書が届いた
「俺は今、モスクワにいる、、、、」

常識的な生活しか考えられなかった自分は彼は無謀なことをしていると思いながらも
自分は取り残されている、そんな気がしたものだった

こんな昔のことを思い出したのは、ツイッターの投稿がきっかけ
ある人がツイッターでこんな情報提供をした

すでに海外旅行者で日本人は少数派です。
中国語や韓国語表記があっても日本語表記はない所も増えた!
2018年
中国の外国人観光客 1億4000万人
中国人海外旅行者  1億5000万人
韓国人海外旅行者    3000万人
日本人海外旅行者    1895万人

これを受けて、無謀と思える旅に挑戦した学生時代の彼を思い出して
今は若い人の海外旅行する割合は減っているのだろうか?
そもそも若さゆえのバイタリティがなくなっているんじゃないか
と書き込んでみると、直ぐ様、学生の現状はこうなんだとのツイートが返ってきた
そしてそれは、現役の親世代からは納得される内容だったようだ

というより、現状がいっぱいいっぱいな人が多いのではないでしょうか。
20代娘に尋ねると、経済的に余裕がなくバイト長期に休めないとかという人が多かったようです。卒後も奨学金返済あるし。
本当に今の若い人は、しんどいと思いますよ。そんな社会にした私たちに責任あるんですけど。

こう感じている人が多いなら、何故若い人は怒りを表に出さないのかと返してみると

日本が成長している時代を知らないから、そんなものだと思ってるんではないでしょうか。
腹を立てるにもパワーがいりますし。現状を受け入れるしかないと。
まぁいろんな若者がいると思うので一概には言えませんが。
あと反発することはマイナスだと思っている人が多いような気がします。

このツィートにも共感する(同意する)人は多かった
上の学生さんたちの経済的な現状
下の学生さんたちのメンタリティ
これらは世論調査とか就職内定率が過去最高などと報道されているものと違った印象を持つ
現実の世界はそれほど豊かで未来に明るいものではないような
そして何よりも学生さんのパワー(内的な)が不足しているような

自分らの若かったとき、下宿の彼は五木寛之の「青年は荒野をめざす」を読んで居ても立ってもいられない気持ちになった
小田実の「何でも見てやろう」に刺激を受けた人もいた
もう少しあとの世代の人は沢木耕太郎の「深夜特急」を読んで、
自分の中から湧き出てくるコントロールしきれない気持ちに振り回された(と思う)

不安定な精神状態が当たり前の若い世代
かつては後先考えずに動き出した人間が少なからずいた(結局自分もそういう行動に出ることになった)
しかし、今は、、動き出せない状況や、先を考えると得ではない、、、
と考えるおとなしい人が多いようだ
(その反対の些細なことにキレる人もいるようだが、、そしてキレるのは決まって些細なこと)

一見賢い選択をしているような今の若者たち
でも本当にそうなのか、、とむかし若者だったおっさんは不安になる(昔話をすると嫌われる?)
若者には「失敗する権利がある」
そして、寄り道したときにそこで何を身につけるかが、真の知恵(勝負)となると思うのだけどな

「やってみなきゃわからないじゃないか!」
はかつて若者の専売特許だった
最近の「やる前からわかってる」では少しさびしい気がしている

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベルクソンとウェーバーの混じったようなリップマンの「世論」

2019年07月25日 08時16分07秒 | 

「100分deメディア論」で紹介されたリップマンの「世論」

この本に紹介された「ステレオタイプ」なる言葉が有名になって、NHKの番組でもそれが取り上げられた

自分たちが自分たちで考えたと思っていることでも、実は前もって与えられたり経験したイメージから
パターン化されたものに従っているに過ぎない(人はイメージ通りに見る)
その与えられた状態への安易な追従は問題がありと(様々な視点から)説いた本と番組では紹介された

ところが読み終えて、読む前に想像したものとだいぶ印象が異なった
正直なところ安易な思い込み(イメージ)からくる危険性を繰り返し記述した本だと思い込んでいたが
実際にはこの本は、アンリ・ベルクソンとマックス・ウェーバーのを混ぜたような本だった
物事の認識への接し方、そこから生まれる心理的傾向、そしてその社会的な意味合い・影響
それらが広範な事例(ほとんどがアメリカの知らない例だったのでよくわからなかったが)から
単に事例の紹介に終わらずに、人間社会の一般化という形に進められていく西欧の特徴的なまとめ方の本だった

巻末にあるリップマンの紹介を読んで、なるほどこの人はギリシア人が教養としていた分野を
内的経験として身につけている人物だと納得した

で、ここからが問題なのだが、この手の本、しかも世界に通用するような本を日本人の社会は
生み出すことができるだろうか
具体的事件の詳細は残すことはできているようだ(松本清張らの真面目な分野の研究?)
しかし、その事件等から想像する人間社会への一般化は、説得力のあるものとして生み出せるか

どうもできないんじゃないのか、、と不安を覚えてしまう
過去に、現在に、世界に通用する知識人というのは日本に存在したのだろうか
作家ではなく社会学とかジャーナリストの世界でオルテガやリップマンに匹敵するような人物は、、、

そもそも日本社会自体がそのような人物を期待していないし、登場したとしても理解できない
(受け入れられない)のかもしれないとの思いを消し去ることができない

愚痴はここまでとして、この「世論」は日本ではどのくらいの数が出版されて、読まれているのだろうか
ちょいとそちらの方も心配(もう廃刊になってるみたいだし)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

外国に行って感じること(人それぞれ)

2019年07月23日 10時10分35秒 | あれこれ考えること

今よりも外国旅行が容易でなかった明治から昭和の初期
国費で視察に欧米にでかけた人は、その地で見たその圧倒的な文明の差に
自分たちの今後目指すべき方向を見つけ、手本にし、追いかける気持ちを強くしたらしいが
そうではなかった人たちもいたようだ

彼らも圧倒的な差は感じた、そしてその結果自信喪失をしてしまった
そこで彼らが考えついたのは、追いかけることを選択してしまうと
今までの自分たちの拠り所が不安定(あやふやなもの)になってしまう
とする考え方

そう考えた人たちは国に戻って、自国の歴史・文化・体制などを他の国に劣るものではない
むしろ誇るべき存在と考えたい、、と思うようになった
(これは福沢諭吉のなにかとか天皇機関説事件の本のなかにあったような記憶がある)

これは今の「日本って凄い!」
とか、あちらの考え方の人たちの「日本に生まれただけで幸せ」とか
「日本の悠久の歴史が凄い」(本当に歴史の知識があるのか疑問)とする人たちのメンタリティに近い気がする

ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」2 帝国主義には、
外国に飛び出していったのは国内では上手く生きられなかったモッズで、彼らは肌の色の違う人々をみて
それなりの習慣・文化・文明・社会システムがある人たちとは見ず、下に見るべき人々と決めつけたとある
この根拠のない決めつけは、ネトウヨさんたちのそれに近い

世の中にはいろんな国・人たち・考え方・文化・習慣がある
それを自分の中に落とし込んで、受け入れたり違和感を感じたりするのではなく
最初から受け付けない人たちがいて、その声の否定的な声が徐々に大きくなりつつある
最近心配なのはこれが無関心層にも広がってしまわないかということ

不意にネトウヨさんたちは外国に行ったとしたら、何を感じるのだろうかと頭に浮かんだ
「人間、みんな同じだ」とか「世の中、なんとかなるものだ」とか「世の中にはいろんな考え方があるものだ」
が自分の実感
確かに日本にいるとき以上に自分が日本人だ感じたことはある
でも、それよりも強く感じたのは「みんな同じだ」という感覚
困ったとき親切にしてくれたおばさんや、チキンをナイフとフォークでぎこちない食べ方をしていたとき
「手づかみで食べなよ」と教えてくれた人、本当はいけないけど回送バスに内緒で載せてくれた人
出会った人たちは優しかった
そして多分これは自分が行かなかったアジアや中東、アフリカ、南北アメリカでも感じるだろう

「寛容は自らを守るために、不寛容に対し不寛容になるべきか」
つい、このパラドックスを思い出してしまった




 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テンポ・リズムでずいぶん印象が変わる

2019年07月23日 09時32分17秒 | 音楽

知ってしまえば当たり前のことでも、不意にそれに気づくことがある
7月21日の日曜日、名古屋に劇団四季の「エビータ」を見に行った
音楽はアンドリュー・ロイド・ウェバーでこの人の作った作品は
全部見たいと思っていた(きっかけはキャッツだった)

そのエビータの舞台、最初はエビータの葬送のシーンでコーラスも民衆の嘆きを
表現していて、それがとても迫力がある(声の力の凄さを再認識した)
それが終わると、舞台には物語の進行役の男性が歌い始める
そこで気がついたのはその音楽は、エビータが歌う「アルゼンチンよ泣かないで」の
メロディを型どったものということ

エビータが歌う「アルゼンチンよ泣かないで」はとても静かな切ない深い感情に溢れた音楽だが
進行役が歌うそれはリズム・テンポを変えて全く印象が異なる
同じ音形でもこれほど印象が異なるのか、、、音楽の変奏とか変形というものはこういうことなのか
という点が驚きをもって感じられた

そう言えば、、と連想したのがブラームスの4番の交響曲
その三楽章はリズミカルな騒々しい音楽だが、その中間部、主となるメロディとは違うけれど
やはりリズミカルなところがある(急き立てられるような印象)
その少しあとに弦でゆったりとしたしたメロディが奏される(癒やされるような)
この印象が全く異なる音楽が実は音形が似ている
速いテンポとリズムを際立たせるのとゆっくりと歌うように演奏される
作品の統一感というのはこうした仕掛けの上に成り立っているのかもしれない

些細なことだが、これに気づいてどこか得したような気がしている
(音楽家には当たり前の大したことじゃないかもしれないが)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美人投票・部分最適・全体最適

2019年07月22日 08時17分36秒 | あれこれ考えること

昨日は参議院選挙投開票日
また個人的には劇団四季の「エビータ」を見に行った日
「エビータ」も記憶に残るところが多かったが、まずは選挙についてあれこれ

選挙カーが回ってこなかった新城市の投票率は
男 58.83%  女 54.82%  全体 56.79%  前回比 ▲4.96%(※中日新聞より)
付き合いよろしく芳しい投票率ではない
何故、投票率が上がらないのか、、、
分別くさく言われるのは「上から目線」で、それだけで嫌になる人たちがいるらしい
少しわかるような気もするが、ちょいと残念

選挙のことを考えていたら2つのことが頭に浮かんだ
一つはケインズの「美人投票」
もう一つは「部分最適」と「全体最適」

個人的には今回の選挙の投票は結構迷った
今までなら支持している人の名を無条件に書いていたが、今回はその人は
自分が書かなくても当選しそうだから、全体のバランスを考えて
自分が望むべき方向に進むと思われる方向の別の人の名を書いてみようと考えたのだ
みんながみんな自分と同じように考えて、彼は安心と思い込んだりすると思わぬ結果を
招くことになるかもしれないが、そのときはそのとき、一種のささやかな賭けに出ることにした

そこで思い出したのがケインズの美人投票
何名かの肖像写真を見て誰が一番美人だと思うか、、を問うのは普通の美人投票
ケインズのそれは、「最も多かった人に投票した人たちに景品を与える」という条件をつけたもの
こうなると自分の直感だけで人は投票しなくなる
他人はどう考えるか、、他人の評価が気になる、、そして顔色をうかがう、、
そして自分が一番と思った人物以外に投票をしてしまう

なんだか今回の自分の投票はなんとなくこれに似てるな、、
もっと純粋に選んだほうが良かったのか、、、それとも、これも知恵なのか、、、

もうひとつの「部分最適」と「全体最適」
自民党は組織もしっかりしていて実績もある
こまめに地元での活動も行い、人柄も(表に出てる部分は)問題ない(ように思える)
だから地元の普通の人が彼を選ぶ理由は、地元にとっては「部分最適」となる
しかしこれが全体となると果たして最適かどうかは一気に怪しくなる
まだ国民が説明不十分、納得できないとの声が多い森友学園・加計学園騒動
公文書改ざん問題、外国人就労者のあやふやなデータ、勤労統計・年金問題の曖昧さ
これらは与党が選挙で数を手にする事によって、結果的に問題視されなくなってしまう
投票した人物は、選挙後にこれらの状況になるかもしれないと想像して判断を下したのだろうか
そんな全体のことをいちいち考えて投票するより、現時点の地元での判断を優先したに過ぎないのではないか

現場の一つ一つが最適化されれば、全体が最適化されるか
どうも人間社会はそうではないらしい
全体を見た上でのトータルな最適化が必要なんだろうが、それを仕切る人は誰で、それを選ぶのは誰

時々、人はそもそも全員に間違いなく人を選ぶ能力があるのだろうかとの疑問が頭に浮かぶ
(その力はないとする国もあるらしい)

ということで、つくづく民主主義は未完のデリケートなシステムだと感じるこの頃



 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

選挙後のメンタリティについて

2019年07月20日 08時51分03秒 | あれこれ考えること

参議院選の真っ最中だが田舎のわが町は静かなもの
ツイッターで見られる熱狂は一切なし
宣伝カーもやってくることがあったのか、と思えるほど

「俺達は無視されている、頭にくる。これで投票率は都会よりも良いのだから余計に!」
そうした声につい納得してしまう

都会で熱狂した方たちは時代の傍観者となるか、それとも参加者となるかどちらの選択もでき
ダイレクトな実感を感じるわけだが、気になるのは不利な戦いに真面目に取り組んだ人のことで
こんなに真剣に考えて、行動している、みんなが実情を知れば必ずこう考えるはず、、
ついそのように考えてしまうタイプの人の選挙後のメンタルのこと

世の中はそう簡単には変わらないもので、真面目に行動した人間ほど挫折感や悔しい思いを持つ
その後の彼らの行動は、この挫折感で何をやっても無駄!と考えるか
それともこれが始まり!と考えるか、、

ハリウッド映画なら二時間ちょっとの間に挫折を乗り越えて予定調和のような結末に向かうのだが
現実の時間の進み方は、実感としてとても遅く、まして結末は見えていない(うまくいく保証はない)ので
自分たちの行動自体の意味さえ疑うことになりそう

その上で、自分の行うことに意味があると考えるのは、なかなか難しいのかもしれない
気が長い人や、世の中は自分の思うようにならないことが大半だ、、と感じる人は良いが
せっかちな人や正論のみを信条とする人は、結構きついのかもしれない

それでも、結局は自分たちの未来は自分たちの手で掴み取る
(代議士を選ぶという間接的であったとしても、その選択に必死に取り組んで)
手応えを経験することは無駄ではないように思われる

それにしても都会と田舎のこの違い、、、
同じ国で同じことについて戦ってるとは思えないな



 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

過去を反省は、ミスを防ぐシステムづくりだけじゃない(と思う)

2019年07月19日 08時32分58秒 | あれこれ考えること

ドイツ人、あるいはヨーロッパ人は第二次世界大戦を起こしてしまったこと
ホロコーストをさせてしまったことについて、深く反省の意味を込めて
知識人が膨大な資料から重要な著作を生み出した

ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」「イスラエルのアイヒマン」
フロムの「自由からの逃走」がそれだ

これらは著作は有名でも日本で読まれているかは少しばかり不安を覚えるが
もっと不安なのは、日本でこれらの本に該当するような本は存在するのだろうかという点

探せばあるのだろうが、パッと思いつかない
深く内的に反省するよりは、次はどうしようと具体的に指針を決めることが
現実的に反省したことになると、未来志向との言葉を使いたがる人たちは考えたがり
とんでもないことをしでかしてしまった根本の要因に対する関心がない

野球でもサッカーでも負けた試合は見たくない
反省は大事だが、長くそれに浸るのは精神的に耐えられないのが
どうもこの国のメンタルな傾向のよう

そしてその悪い現れが、歴史修正主義につながっている
ミスを繰り返さないことは、繰り返さないシステムづくりだけでなく
人の心に巣食っているいただけない部分を認め、それを発揮させない訓練も
必要だと思うってしまうが、、、夢想家の戯言か

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする