「共同主観的現実」という言葉が目に入って、気になった
「NEXSUS情報の人類史」(ユヴァル・ノア・ハラリ著)
の中に出てくるのだが、人々の共通理解に大きな影響を与える物語の
役割はこの共同主観的現実だそうだ
なるほど、日本の明治維新のイメージは物語としての
司馬遼太郎の作品が多大な影響を与えている
物語は感情移入がしやすいためにそれぞれの主観の中に
どんと居座って、その人だけの信念・価値判断までも作り上げる
ベルクソンは人には作話機能があるとしていて
物語(ストーリー)が生まれるのは人の習性としている
同じ本を読んだ人は(同じ物語を聞いた人は)同じ思いを持つことが多い
そしてそれらの人が目にする出来事の理解は(体験した)物語に育まれた価値判断の元で行われる
そしてそれらは少なくない数であることで、それぞれの判断に自信を持つことができる
こんなことを思い浮かべたのは、ある出来事に対して自分とは
全く別の捉え方をする人がいたからだ
そしてそれは個性の違いとか人間性の違いというより
判断の元になる情報量の違いによるものではないか?
と思えてしまったのだった
最近あった具体的な例として、ある党の憲法案を目にして、自分はそれが国民主権ではなく
国家主権であることに問題意識を覚えた
その問題意識を持って更に読む進めると、それ以外のところでも違和感を覚えるところがあった
ところが、選挙前にしてとても穏健な友人が、ある点だけは自分と意見を異にして
とても頑なになっていることがあった
彼は従来日本人が持っていた良いところを、最近の洗脳教育(誰からの?)のせいで
失いつつあるのは良くないとして、自分が否定的な憲法案の党にハマっていたのだった
論争とか喧嘩にならないように、憲法案に対する違和感を伝えると
彼は「憲法創案には興味がない」として、今党が訴えていることを拠り所にして
判断をしているという
憲法案に不安感を覚える人間、それを問題視しない人間
その違いは、憲法というものに対する理解とか、そこから派生する出来事への
想像力の差だと思ってしまう
それは自身の判断の元になる情報量の差によって違いが生まれているのではないか
一つのことを聞いても、それに関する、あるいは派生することを瞬時に理解するひとと
わかりやすい断定で説得されてしまう人との違い
できることなら広範囲の視点から考えることが望ましいと自分は考えるが
現実世界では、それぞれが一票の力しか持ち得ないし、結果は単なる数が多いか少ないか
だけになってしまう
少し前に「教養主義の没落」という本を読んだ
従来大事にされていた全人格を育むような教育(教養課程のような教育)は
現時点での興味とか実生活上の効果あるものに変わりつつあることを
解説したものだが、こうした流れを含めて、最近の人は
反射神経的に判断を下す傾向があるそうなのは怖いと思う
頭がモヤモヤしているが、まとまらない話
最近の一番の心配事は、嘘をやデマを飛ばす人の多いことではなくて
それを真に受けてしまう人が世間には多いことだ
最近は社会もそれを心配してファクトチェックといいうHPを作って
真実を知らせようとしている
ところが問題はその拡散のスピードの違いだ
威勢の良い、感情を煽るような表現のSNSはあっという間に
何万回の視聴がカウントされる
ところがそれに対するファクトチェックの投稿は
その何分の1くらいの視聴しかない
ファクトチェックは丁寧な説明をするために必然的に理屈っぽく
データも紹介され、つまりは長くなる
一方、威勢の良い言いっぱなしの投稿は、断言して短いので
視聴に対する苦労はない
この差が、拡散のスピードの違いとして現れる
そして多くの威勢のいい投稿は、それが事実かどうかを確認している間に
次の投稿がなされ、少し前のことは言いっぱなしで処理されてしまう
少し前に読んだ「ポピュリズムの仕掛け人」には
●怒りの感情を利用する
●下品な言動や個人に対する侮蔑をタブー視しない
●人々の関心を飽きさせない
が実践的なテクニックとして有効としている
そしてこの方法を恥ずかしげもなく行っている人々が存在するのは歴然とした事実だ
話は変わるが、同居人がこんな事を言った
「選挙公約みたいなものは、どこでも良いことばかりいうので何が良いかわからない」
選挙の公約は確かにどの人も政党も口当たりの良いことをいう
少数野党でも、政権を取らないと実現できないようなことを平気で口にする
仮にその実現のための多数決の数が少ないことを自覚しているのなら
方法論としてどのように数を確保していくかは大事だと思うが
そこに踏み込んで説明するところや人はいない
つまりは、報道も人も本質的な考察や実態の把握もできていないのではないか
と思えて仕方ない
選挙は地方自治体を含めて何年に一度、その直近になって公約を比較したり
マッチングアプリで自身の考えに近い人や党を見つけたとしても
その人に問題意識とか蓄積された判断材料があれば良いのだが
大半の人は結果的に何年に一度だけ、主権者という言葉を意識するだけだ
(はたしてつけ刃の知識で良い判断ができるのだろうか)
と言っても、昔の自分は偉そうに言えるだけのことはなかった
だからこそ今思うのは、時間をかけて主権者教育を行わないとダメだということ
それは公約の正確な理解などという点ではなく、人々が暮らす中で
何か違和感を感じたりすることについて、人と話したり
自分なりの解決法を考えてなにかできることをしてみるということだと思う
ということは、実は人はちゃんとした大人になることが大事だということで
ちゃんとした大人は倫理観や正義感、共感力と忍耐力を持つ
そしてそれらは、仕事とか教育とか経験によって身につくものだ
この時のちゃんとした大人は、いい意味でいうなら「個の確立」というもので
最近否定的に使われることの多い「行き過ぎた個人主義」とは相反する概念だ
個の確立ができると、他の人の個も大事だということがわかる
自分を大事にするように他も大事と考えるようになるし
生きている間に徐々にそうした考え方は身についてくる
ということで回りくどくなってしまったが
民意の発露としての選挙も、有権者にどの程度の問題意識があるか心配なので
出てくる結果も不安だなということ
本当に、人には良い選択をする能力があるのだろうか?
と思えてならない
なんとなく覚えている話
オデッセイだったかイーリアスのエピソードの中に
(両方とも読んでいないが)
船長が部下に指示した命令に印象的なものがあった
どこかの海域に入ると、何かの魔物(霊)みたいなものに船長が惑わされて
狂った判断をするという噂を聞いていた船長は、その海域に入る時、部下に
柱に自分(船長)を縛り付けて、おかしな言動があったときは聞かなくても良い
とあらかじめ言っておいた
そのおかげで、異様な誘惑とか混乱から彼らは逃れることができた
このエピソードだけでも船長が優秀な人物であることがわかる
タイトルは覚えていないが、SF小説に中に似たようなエピソードがあった
それはまさに核戦争が始まる寸前の話で、核のボタンを押すことのできる人物に対して
直属の部下は「ボタンを推すには私を殺してから行ってください」と告げた
判断を下すのはそのくらいの覚悟が必要だということだが
親しい部下を殺すことなどは現実的にはできない
だから、暗にボタンを押してはいけないと訴えているわけだ
これら2つは単なるフィクション上のエピソードに過ぎない
でも、その重みは今こそ切実に感じられるものではないか?
暴走にブレーキがかけられない権力者たちの存在を
自分たちは嫌と言うほど目にしている
悲惨なのは,その暴走を止める部下がいないことと
自制心を失うようなときの自身の行動について
対処法を考えていないことだ
物語(フィクション)は自生活には役立たないかもしれなが
この2つのエピソードを知っているのと知らないのでは
判断を下す時に大きな違いがあると思う
漠然とした「こうあったほうが良いな!」ということが
理想主義的過ぎとか非現実的の言葉で蔑ろにされている世の中
でも、理想主義的すぎるとか非現実的であるとしても
そういうものを求めている方が人は幸せになれると思う
社会の停滞や格差などは誰かが悪いのか
それとも制度のなせる技で必然的に生まれてしまうのか
時々、そんなことを考える
多くの歴史的事実からはっきりしているのは国家(社会)の衰退は
少数者の収奪によるということ
支配者とか経済的な強者がノブレス・オブリージュの精神に従わない時
社会(国家)は残念ながら混乱と衰退に向かう
人は支配者が長くその地位に留まるとよくないことが起こる
という経験に基づく知恵を持っている
長くその体制が続くと自ずと生まれてしまう既得権とか腐敗から
生じるものだが、その大きな原因は、個人に属する性格のせいか
それとも、人は一般的にそうした傾向に陥ることを考慮していない
制度のせいかなのだろうか
昨日のこと、最近気になっていたレーニンの「帝国主義論」について
自分と違う解釈の人がいて少し驚いた
人が違えば解釈や理解は違うのは当たり前だが
なんとなく本質的なところでわかりあえていない気がしたのだった
自分は資本主義は良い人悪い人を問わず、必然的に生じてしまう
良くないことを内在的に持っているかもしれないと思うようになっている
それは人間の思考傾向を反映したものとしても
精神的な行為よりも制度が生み出すものの力のほうが大きい気がしている
つまりは制度的にお金はあるところに貯まるようになってしまっているのでは?
と考えるようになっている(現時点では)
当然ながら、必然的に生まれる弱者を思うと、なんとかせねば!
と思うのはごく自然の成り行きだ
だから昔の人も(みんなが平等な)社会主義という方法を考えつき
その理想的な社会を目指すのが良いこととした
問題はその方法とスピード感の問題で
善意故にその社会の達成を急ぎ過ぎた人たちもいた
それが革命という形で求められた
この革命という概念が大きく評価がわかれているように思える
一つは7月14日のパリ祭に代表される革命を良しとする考え方で
自分たちの力で(暴力的な要素があったとしても)
自由・平等・博愛を実現できる社会を手にしたという体験を持っている
ところが暴力を想像させるために、そして確かにその後の混乱は良くないもの
だったために革命に対して否定的な人がいるのも事実だ(トクヴィルなど)
そしてフランス以外の例では、ソ連でも革命による制度は一種の全体主義なって
上手くいかなかった
そこでは計画経済いうか、人の自由な損得に任せると上手くいかないので
お偉いさんが頭で考えた方法を実践するほうが良いとしたのだが
想像通りにはいかなかったのだった
そしてそのことで、左翼的な思考は頭でっかちで、自由がない社会で
好ましくないと思われるようになった(と自分は理解している)
とここまで自分なりに整理してみて、昨日の「帝国主義論」の認識の違いに
話を戻すと、認識の違う人は「ディープステート」の存在を信じている人だ
一方自分は{ディープステート」という存在は
資本主義が内在的に生み出してしまう少数の経済的勝者のよるものと考えている
誰かがわからないところで、世界を支配しているかもしれないが
金融資本主義とか、グローバリズムとか、新自由主義とか。サプライチェーンは
資本主義が効率よくなるために求めたように理解している(自分は)
しかし、その人の理解は全く別で、どこか悪意のある存在が仕切っている
という考え方だ、そしてその悪意のあるものはロシアとかロスチャイルド家とか
ちょっとわからない存在が蠢いているとしている
ここまで面倒くさいことをあれこれ想像したみたが
こんなことは実生活の上でなにかの役に立つことはない
それでも、何かを深く考えることとか
社会の中に見える何かを探ってみるということは無駄ではないと思う
理解の違う人は、現在(自分が思う)ちょいと危ない集団にハマっている
その人は自身の正義感からその集団への行動・支持となるのだが
少しばかり早とちりな理解は、、怖いなと思う
(尤もあちらからすれば、こちらも似たようなものかもしれないが)
ということで、まとまらない話
ここ数回の国政選挙は期日前投票で済ませている
せっかちな同居人のせいではなく
そのほうが追い立てられるような気持ちにならない
というだけのことだ
前回はどうだったか忘れたが、期日前を選ぶ理由を選ぶ欄があった
本当は投票日に投票してほしいが、仕方ない理由があれば期日前で
許してあげる、、と言ったニュアンスが感じられて
なんか悪いことをしているかのようで気分が良くなかった
わざわざ理由を問わず投票できればいいものを!
と思ったことを覚えている
今朝の中日新聞に愛知県の期日前投票が、序盤の段階では全国比較で一番高いとの記事があった
その理由として愛知県は企業ぐるみの選挙で、投票に行くように 何度も職場で呼びかけられる
ことが多いとしている
その他の理由として、過去の全国県民性調査で愛知県民は
「主張すべきことがあっても、黙っている」との質問に共感した割合が
全国でも高かったとあり、「上から言われた通りに行動する県民性がある」と分析している
投票にいかないのは世間体が悪いので、みんなと同じような行動をしがちということだ
ところが同じ中日新聞の別のページには「エンゲージメント」についての記事があって
これが対照的で興味深かった
エンゲージメントとは仕事のやりがいを示す「ワークエンゲージメント」と
企業など所属する組織への貢献意欲を示す「従業員エンゲージメント」があって
この後者の「従業員エンゲージメント」が世界と比較すると日本は最低水準だった
と紹介されていた
従来から企業戦士のようなイメージの大きい日本人だが、実態は組織に対する貢献意欲は
そんなに高くない、、というのは、そんなものかもしれない
だからこそ、ここ最近の日本企業の低迷が続いているのかもしれないと一人勝手に納得した
選挙の時期は日本人のナショナリティを過度に取り上げているところがある
そして普段日本人はどうすべきかを考えていない人でも、それらを耳にして
どこか正義感とか高揚感を持ってナショナリティを実感するようになっている
でも、選挙の時期だけ政治のことを考えるというのは、ちょいと怖いな
という気がしてならない
日々の生活は政治的なものに関係しているので、普段から政治には関心を持つべき
と今の自分の年齢ならそう思う
だが、現在の日本の教育ではそのように考える人は
結構な年齢の人でも多くないような気がする
ということで、選挙前には誰に投票すべきかだけでなく
それ以外のいろんなことを考える
願わくば、そういう人が多くいることを望むが、、さて
まとまらない話
図書館から借りてきた本は、「暗殺」柴田哲孝著は読み終えて
ジャン・クリストフ(1)は期間中には読めず、再度借りることになった
最近は小説に慣れていないモードなので、集中するまでに時間がかかるし
登場人物の名前や属性はすぐに忘れてしまうのは困ってしまうが
それでも忘れるようなエピソードが重なって一人の人格ができていく
というのは実生活でも実感することなので
忘れても「ま、良いか!」と思うことにしている
現在、再度借りたジャン・クリストフの他に読んでいる本がある
一つは本を返すと同時に借りてきた「NEXSUS情報の人類史」ユヴァル・ノア・ハラリ著と
「帝国主義論」レーニン著だ
後者は昔読んだ時に、「いつの時代の話だ!」と驚きを覚えたことが強く印象に残っている
資本主義は内在的に少数の富めるものとそうでないものをつくるという実態が
社会の(経済の)数字を基に説かれているのだが、レーニンのなすべき行動については
疑問があるとしても、この部分の考察はとても説得力がある
現在、よく使われる闇の支配者的なニュアンスのディープステートなどの言葉は
使う人が案外曖昧な使い方をしているようにも思える
それは世界は少数の人、団体による支配が進んでいるというものだが
そんなことは既に資本主義の究極の姿として、この本に説かれている
つまりは、良い人悪い人問題ではなく、資本主義は必然的にこうした状態を
生み出してしまうかもしれない、、というものだ
世界の数%の人や集団が世界の資本の大半を所有する傾向は最近はますます加速して
それは金融資本主義とか新自由主義、グローバリズムという言葉で説明される
サプライチェーンの国際化、新興国の低賃金化、貿易の不公平化等は
実は資本主義に内在する膿のようなもので、トランプ大統領がアメリカ・ファーストを
唱えたとしても、現在の状況を作り出しているのは、実は資本主義システムではないか
と考える(仮定する)ことは可能と思われる
ということで、「帝国主義論」は再度読むに値すると思えて取り組んでいるのだが
ここに見られる分析は、もう少し(共産主義)の偏見なしに読まれるといいのに!
と思えてしかたない
つい勢いで借りてしまった「NEXSUS情報の人類史」ユヴァル・ノア・ハラリ著は
そんなに集中力を要せずとも読んでいける
現代社会の様相を思い浮かべて、当てはまることが多いからだ
広範な知識を多方面からの視点で、なかなか面白いが、まだ途中の段階で
気になった問いかけがあった
それは人の社会は「損得だけの判断では回っていかない」ということだ
一見、トランプ大統領の得意とする損得のディールですべて解決できる
とするのは実態としては間違いで、実は損得以外の別の要素がないと
社会は上手く回っていかないということだ
人間の脳が他の動物と比べて大きいのは、コミュニケーションを司る
部分が大きくなったためとされている
つまりは共感とか同情とか喜びの共有とかが脳の大事な機能となっている
そして情報を得ての人の判断は損得だけでなく、この肥大化した脳の力は
人間が生き延びて栄えるために真実を発見し、しかも秩序を生み出すということは果たす
トランプ大統領は本能的なディールの天才と仮定しても
それだけでは(損得の視点だけでは)人は幸せになれないということで
そこに留まっていることは、人間の大きな脳をフル活動していないことになる
これらの個人の読書は(自分が社会に対しなにか活動しているわけではないので)
実質的に社会に影響を与えるものではない
でも本を読んで、こうして誰かに伝えようとしていることは回り回って
役になっているかもしれない、、、と思うことにしている
朝から暑い!
というより蒸し暑い!
節約家でもエアコンを使わざるを得ない
こんな日に停電になったらと想像するとゾッとする
三連休の中日の選挙に関する報道が増えてきた
テレビ・新聞媒体は独自調査を行い現状を伝えている
与党関係は過半数を維持できるか?
国民民主と参政党に勢いがあるとか、、、
だが、こうした報道はいつもその影響はどうなのだろうか?
と疑問を覚えてしまう
勢いがある党なり人物は誰々との報道は、選択に自信がなかったり
投票すべき人をよくわからない人は、そうした党なり人を選んでおけば大丈夫とか
勝ち馬に乗っておけば間違いはない、、と思ってしまわないだろうか
悪い情報と良い情報の2つでは、圧倒的に悪い情報(例えば悪口)のほうが
広がりやすい
同様に断言されてわかりやすいものと、よく考えることを要求される
(つまりは選ぶ方も責任がある)というものは、圧倒的に前者がウケる
そして人気の食べ物は、良い悪いを超えて一定の評価がなされてしまう
民意としての空気の出来上がるスピードは、情報の伝達ほどの速さはないが
その分着実に出来上がるのだが、あることがあってそれを否定するようなことは
今度はなかなか、イメージダウンは起きにくい
一旦信じたものを否定するというのは、、信じた時の気楽な姿勢とは違うようだ
ところで、マッチングアプリで個人の性格と一致する政党を探すものが出回っている
ところが、比例区ならどの政党とシンパシイーが合うかわかるのは良いとしても
個人としての人物を選ぶ時に、この一致する政党を選んだとしてそれは意味あるものだろうか
街頭演説でも候補者は自身のことよりも、所属する政党の方針を述べる
つまりはどこどこの誰というよりは、どの党に所属しているかを訴えている
(党の政策を訴えている)
所属する党がわかったとしても、国会の場で採決の一票を投じる人が
どのような判断基準を持っている人かわからないままで
党だけでその人に投票するというのは一体まともな投票姿勢なのだろうか
あと一つ思うことは、例えば誰々が当選しそうとわかるとすれば
人はその人に投票しようとした決心を変えて、全体として野党側有利
(あるいは与党側有利)になるような判断を下すことはないだろうか
実態は蓋を開けなければわからないとしても、
彼(彼女)はきっと当選するだろうから
自分は他の野党系(与党系)の人にしておこう
そう考える人はどのくらいいいるのだろうか
つまりは、誰々が良いから投票するというのではなくて
投票結果を予想して、その全体的な結果が自身の望む形になるように
投票先を選ぶということは、現実にはありそうだ
とすると、このときは政策論というよりは国会内の勢力バランスを考えて
投票することになる
このように投票という行為はいろんな立場の人が存在する
そしてその集合体が結果として数字に現れるのだが、
それでも人はちゃんとした選択ができるのだろうか?
との不安を消し去ることができないのが今の気分
毎日のルーティンが済んで一段落と言ったところだが、暑い
朝だけ涼しいので早起きしてバタバタしていたが
今になって眠くなってきた
これだけ暑いと考えるということは面倒に思えてくる
ということで、根拠もなく思いついたことを、、
大谷さんとか小泉進次郎氏のテレビの扱いが異様に多くて違和感を覚えたことがあったが
この全局同様な報道は(特に小泉進次郎氏の方)何処かから(自民党)からの圧力とか
働きかけがあってと思っていたが、実はそうではないかもしれないとも思った
それは、他の局がやっていることを自分たちはやっていない!
ということへの恐れのせいではないだろうかということ
テレビ局は自分たちの独自の判断でいろいろ報道内容を決めるのは当然だが
日本のようなに同質性を好む社会は、みんなと同じことをして
初めて安心できるのではないか
昔、女子高校生の会話に、こんなことを思いついた
みんなと同じファッションをしているのを見て
「みんなと同じ、ダサーい」
みんなと違うファッションをみて
「みんなと違う、怖ーい」
こうしたことはありそうな話だな!
と勝手に思ったのを思い出したが
女子高校生の話ではなく、大の大人の世界でのそうかも知れない
と思えてしまった
インスタで人気の店に行ってみたり、写真を撮ってみたり
ベストセラーのみを楽しんでみたり、、、
自発的に求めつもりでも、実は何かに振り回わされているかもしれない
と想像することは大事だと思う
「「集合知」という言葉がある
簡単に言ってしまえば「みんなの意見は案外正しい」というものだ
そうかも知れないと思う反面、若干の不安もある
むしろ不安のほうが多いかもしれない
集合知が機能するためには前提条件がある
そのうちの多様性という分野は問題ないとしても
それぞれが人に影響されずに意見や行動を出せるかと言った
独立性は現実的には存在し得ないのではないか、、と思ったりする
つまりは人が判断を行う場合、自分の中から生まれた判断に従うのではなくて
実態は周りの人の意見に影響を受けているのではないかということで
それに自身の損得の要素を加えれば、人は全く客観的な判断を下すことは不可能ではないか
本当は人間の善性を信じて「みんなの意見は案外正しい」ということにしたい
だが、自身の経験を踏まえると、それは少しむずかしいのではないか
と思えてならない
誰もが確実な未来を見ることはできない
未来は想像とか予想の中にあるだけだ
それ故に、あるべき未来に大して生産的な行動をすれば
未来を良くすることはできると考えることはできる
だから未来に対してできることは、想像して未来にたいする「覚悟」
の一言のような気がする
参議院選挙が行われる
投票率が高いことを望むが、高い投票率の中にとんでもない投票行動を起こす
モノがある不安を消し去ることはできないのが現実だ
(面白半分にNHK党に票を投じたり)
社会をコントロールする方法論としてのプロパガンダ、ポピュリズム、
そして少しばかり雑な断言によるわかりやすさに酔ってしまう人々
漠然とした空気に抗えない大衆
社会人としての人が何かを選ぶということは
思いのほか難しいようだ
(自分はへそ曲がりだから、投票結果は多くの人の支持があるものとしても
それが良いものかについては別問題で、気に入らないモノには声を上げるつもり)
豊橋市では参議院選挙と同時に新アリーナ建設に関する住民投票が行われる
今日が参議院選挙の告示で、推進派、反対派とも自分たちの主張を伝える
集会はできないらしい
もっと時間がほしいというのが反対派の思いらしいが
ネット上での主義主張は許されているようだ
ところで住民投票は新城市でも2015年に行われた
新庁舎建設の規模に関して計画されたものは将来の人口減を踏まえると
分相応ではなく大きすぎて、その結果金額的な負担を将来の世代に
残すことを恐れて規模縮小の案を住民投票で市民の声を聞こうとしたものだ
この住民投票の時のことを新城市民に聞いていみると
自分とは全く違った印象を持っている人がほとんどであることに驚く
自分は今での思い出す度に怒りを覚えるのだが
住民投票の選択肢があまりにも酷かった
画像の囲んだところにあるように選択肢は
●市道東新町桜淵線の路線の変更を伴わない現計画の見直し
●市道東新町桜淵線の路線の変更を伴う現計画の見直し
の中で選べというものだ
違うのは路線の変更を「伴わない、伴う」の違いだけだ
この選択肢には本当に頭にきた
選択肢が何を言っているか理解できる人は殆どいない
そもそも市道東新町桜淵線というのがどの道かわからないし
その道は(議会で)法的に従来の道とは違う様になっていた
ただ法的にそうなっているだけで、見た目は以前と全然変わっていない
自分は新庁舎はどのような規模とか庁舎が良いのかはわからないでいた
だから、一度市民の声を聞く住民投票は意味あることと思っていた
しかし議会が提案した住民投票条例はこのようなひどい選択肢だった
こんなわかりにくい選択肢で住民投票をする意味があるのか?
と思えたので、当時行われた議会報告会の会場で
臨時議会を開くなりして選択肢を変更するように求めた
しかし、それ変わらなかった
結局のところ選択肢はこのまま行われた
ただ、このひどい選択肢のせいで、テレビ局、新聞社が新城市の住民投票について
連日取り上げられたので、市民の関心は盛り上がり、投票率は53%ほどになった
この間の出来事はこのブログでも取り上げていて
今振り返ると、多少の間違いがあるが、それでも必死になんとかしようと
もがいていたのがわかる
そして冒頭に挙げた普通の人との印象の違いというのは
自分は怒りを持ってこのことをいつまでも覚えているのに対し
多くの人は住民投票をしたことは覚えているがその選択肢のことは覚えておらず
それに対して怒りも感じていないということだ
自分にとってはとても大事な出来事で、それは市民にとっても同じことと思っていたが
現実は時の流れと同様に忘れ去られていくものでしかないようだ
その認識のギャップが自分には驚きだった
多数決という選択は(あるいは社会の空気というのは)
実は無関心層の漠然とした判断に支配されてしまうものだな
と思いを今も深く実感している
何かを詳しく知っている人の話は、理解するための情報や法的背景を知ることが大事だが
それはなかなか直ぐ様わかるような直感的な理解というわけにはいかない
だから自分なりの理解の仕方をする
そしてその自分なりの理解は必ずしも正確な理解ということにはならない
豊橋市の新アリーナ建設の事業についてはPFI BTコンセッション方式らしいが
この方式はどういうものかを知っている人はそんなに多くないようだ
(豊橋の人に聞いたらその人はわかっていなかった、多分、豊橋市民の姉も)
こうしたことを思うたびに、人は何かを正しく選択する能力があるのだろうか?
と思えて仕方ない
(と言って嘆いていても始まらないので、まずはできることを考えようとするが)