パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

風の感触と蝉の声

2024年07月31日 09時25分41秒 | ダイアリー

今年の立秋は8月7日
それまでは暑中見舞い、この日からは残暑見舞い
とはがきには書くのだそうだ

クソ暑い今年の夏
朝の涼しいうちにお墓参りにいく
そこではいつも蝉の声が聞こえる
まるで「この世をば 我が世とぞ思ふ」 
と思っているかのように夏を謳歌している

だが蝉の寿命は長くない
できり限りの声を上げて、生きている何かを訴えているかのようだ
この蝉の生き方から「セミと風鈴」というメルヘンを創造したのは
10年以上前のこと
この作品を他人に見せたのは、わずか4.5人
読んだ人は、悲しくなっちゃったとか、絵が頭に浮かぶ
とそれなりの評価だった
これはみんなに見せてもダメで
人を選んで見せないと無駄に終わってしまう作品だ

ところで、立秋はまだだが、昨日の朝と今朝、風がなんだか違っていた
どことなく乾いているような、そんな気がしたのだった
不意に
「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」藤原敏行
が思い浮かんだ
肌の上を過ぎる風の感覚が、風の音ではないが秋を感じさせたのだった

でも暑さはこれからが本番
一年の最高気温は8月に記録されるらしい
まだ耐えなければならないのかと思うとゾッとする

ところで、メルヘン「セミと風鈴」はこんな作品
10年前にここにアップしていた  「セミと風鈴」

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熱中症の経験

2024年07月30日 09時25分08秒 | 徒然なるままに

暑いっ!
朝からあっという間に30℃超え
こんな日はエアコンの効いた部屋で大人しくしているのが良い

この炎天下の外出、二日前には無謀にも新城軽トラ市に出かけた
出かけたのは10時頃、駐車場はガラガラでいつもよりも混んでいない
ウォーキングがてら端から端まで歩いたが、これはまさに失敗だった
途中でなんか気持ちが悪くなってきた
「今日は来ちゃダメ!」出店者が言うとおりだ
この日はゆっくり見物はやめ、すぐさま家に帰ることにした

こんな暑い中、昔はよくやったものだ!ということがある
それは午前9時から12時までの少年サッカーの練習
練習場の総合公園のグランドは日陰がない
今ならきっと練習は暑さのため中止の判断がされただろう
(あの時、熱中症の子がでなかったのは本当に良かったと思う)

防災無線ではここ数日、熱中症予防のためグランドゴルフの大会、
ソフトテニの大会の中止との連絡が入ってる
そしてそれは、当然の判断と思う
昔も暑かったけど、こんなに暑かっただろうか、とフト思う

自分には、おそらく熱中症と思われる症状が出たことがある
一つは10年以上前のこと、豊橋祇園祭の花火大会の会場整理みたいなことを手伝った
確か4時くらい(?)から花火大会が終わるまで、水を飲みながら
団扇で風を当てながら、ひたすら早く終わることを望んでいた

体が変だと感じたのはすべてが終わって、家に帰ってお風呂に入って
脱衣場でパジャマに着替えようとした時のこと
急に体が寒くて寒くてガタガタと震えてきた
声もどこか震えている
気温は暑くてたまらないのに体は寒くて寒くてガタガタ震えている
結局、夏なのに布団をかぶって寝ることになった

これは熱中症なのかどうかは正確にはわからないが
自分では熱中症に違いないと勝手に思っている

もう一つ熱中症の記憶は子供の頃の出来事(小学生より小さい時か)
家族そろって豊橋で行われていたサーカスを見に行った
その帰り道、自分は暑さで気を失った
そのころは「男の子は弱いな」との声がよく出ていたが
姉とか妹と比べて自分はよく医者にかかっていた

ただ自分は街を歩いていて気を失う瞬間は覚えているような気がしている
そして、気がついたのは親戚の家で、変な支えをした氷嚢で頭を冷やしていた
このシーンは何故か自分が他人の目で自分を見たかのような映像
として記憶に残っている

いずれにせよ、こんな暑い日は外に出ないのが一番だ

それにしても、かなわんなあ、このクソ暑さ




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「命令に従わない権利」

2024年07月28日 09時11分07秒 | あれこれ考えること

ここ数日間はオリンピックの話題ばかりは仕方ないが
この騒ぎ様はなんとなく気持ちが悪い
一つは、以前から指摘しているが「パンとサーカス」状態ではないかという不安
もう一つは「ナショナリティ」が妙に表立っていること

愛国心が無いわけではないし、金メダリストが表彰台で流す涙は
そこに至るまでの努力を想像すれば、人として理解できる
だがそうしたストーリーはどの国にも、どの人にもあるのだろう

今朝、28日の日曜日
定期購読している中日新聞の日曜には「視座」という欄がある
今日の執筆者は田中優子氏

ここでは、本を読まない人への不安をわかりやすく紹介している
(本を読んだ人の変化といったほうが良いかも知れない)

これらは自分も常々感じていることだが、今朝の記事で気になったのは
ちょいと見過ごしてしまいそうな以下の言葉だ
「人の尊厳を侵害する命令には従わなくて良いとするドイツ連邦軍の抗命権」
規則を守る民族と思われているドイツだが、こんな法律があったとは

そう言えば、アメリカにも宗教的、倫理的な理由から殺人を行うような
軍の命令には従えない場合には、何とか権といった法が適用されると聞いたことがある
詳しく知らないのが、自分らしく情けないところだが、つまりはナショナリティよりも
個人のアイデンティティなり考えが優先されるということだ

多分、日本ではこのような思考法には至らない
みんなが命令に従っている、、、とか、
みんなのためには現実的にはこの方法しかない
との、公益中心主義で個々の自由や倫理観は抹殺される

西欧的な個人主義が現在の日本社会をダメにしている
との考え方が、よく考えられないまま世間に広がっているが
先のドイツの抗命権などの、西欧の個人の尊厳重視の考え方は
想像以上に試行錯誤の考察の産物と思われる


漠然としたみんなのためという想像物とか公益性
一人ひとりが判断を下するように賢くなることは求められずに
ただただ、命令に従う人間をつくる(それが果たして人間なのだろうか)
今の日本社会に思うのはこうしたことだが、今回の異様なヴォリュームの
オリンピック報道はそれに拍車をかけそうな気がする

金メダルの高揚感だけで、いい気持に浸ってはならない
それはそれ、他にも大事なことはある
と敢えて思い続けないとアカンと思う

最近の日本では公益通報と思われるものが、職員の秘密保持の法令遵守義務違反として
処罰された例が鹿児島と兵庫で起きている
こうしたことが形になって残されてしまうと
前例になって個人の判断はますます軽いものになってしまう
田舎のおっさんはこうしたことが怖いと思う


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男にはわからない世界がある

2024年07月27日 09時05分04秒 | 

小泉今日子は知っているが岡崎京子は知らない
知人の女性に薦められたのがこの本

ふたりのキョウコのお話

小泉今日子はキョンキョンの頃は知っている
わいい女の子でCMによくでていた印象だけが残っていた

だが、気になりだしたのは、前回の衆議院選挙の時
和田靜香さんの紹介(?)で坂本美雨さんと香川一区の小川淳也さんと
インスタライブで珍しい政治的な対談をしたからだ

珍しいという言葉がでてしまうこと自体が、日本の社会の異様さを現すものだが
現実世界として芸能界はその手の話をするのは稼ぐ手段を失うきっかけになる
小泉今日子もその経験をしたひとりで、若い頃、ちょっとしたきっかけで
政治的なコメントをしたところバッシングを受けて、しばらくはこの手の話は避けよう
と世間知がついたのだが、年令を重ねるとそれはおかしいと気づくようになって
大人の普通の女性が人間として日々感じることは口にしてもいいのではないか
と思えるようになったことを伝えていた

この発言がごくマトモに思われたので、この人はちょっと違うかも知れない
と心に刻んだのだった

それがあったのでこの本を手にしたのだが、
もうひとりのキョウコである岡崎京子は全く知らなかった
(知り合いの女性は漫画家であることを知っていた)

この本で驚いたことがあった
それは多少年齢のせいもあるが、おそらく性差のせいと思われる
全く知らない世界があたっといことだ

小泉今日子の生き方を紹介した部分は記憶をたどればなんとなくわかった
しかし、全く知らない人物の岡崎京子を紹介した部分は
ほとんど何もわからなかった
女の子の雑誌のやファッションの話やら、女性がごく自然に感じる何かを
男だと頭で理解するのはなんとかできたとしても心から共感するというのは
全く不可能と思えてしまったのだ

ただふたりともひたむきに生きているということはわかる
わかったのはそれだけだ

こうしてみると、根本的な共感の部分で男と女はまったく違った傾向をもつ
と思えてしまう
だからこそ、男中心の世界があまりにも優先し過ぎていると思われる世界は
もう少し女性の感じかたとか生き方、知恵を借りたほうが良いと思われる

それは女性の味方をするというのではなくて、そのほうがバランスが良さそう
と感じたということ

新聞の週刊誌の広告は、男用の雑誌と女性用の雑誌は記事内容の傾向は全く違う
それが良い悪いというのではなく、こうした事実があることは
もう少し考慮すべきかな、、と思ったということ

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パリの記憶

2024年07月26日 09時01分58秒 | 旅・旅行

日本のメディアはこれから約二週間、パリ・オリンピックの報道で溢れるだろう
若干の違和感を覚えるが、視点を変えて外国との比較の機会と思えば
少しは耐えられるかもしれない

昔、フランスに行ったことがある(メインはドイツの旅だった)
ただ残っている写真は凱旋門だけ

本当はもう少し撮っていたと思うが確認できるのはこれしかない

自分はいつもそうだ
肝心なことはいつも抜けている
ルーブル美術館に訪れても「モナリザ」は見のがした
ただナイキの名前の由来となった「サモトラケのニケ」は
なんかきれいな彫刻だなと感じたのは覚えている

フランスで感じて今も覚えていることは
モスクワからパリに向かう飛行機の窓から見た景色で
パリの街は石ばっかり、、というのものだ
それで感じるフランス人の精神的なタフさは日本人にはきつそう
そんなことを思ったのだった

フランスでは未修正の「エマヌエル婦人」を映画館で見た
ちゃんとチケットを購入して入ろうとしたら
10%ほどのチップが必要のようで、映画館の女性に怒られてしまった
覚えているのは映画よりもそのことだ

それから凱旋門近くの地下のセルフサービスの食堂では
みんなが白いチーズらしきものトレイに入れていたので
自分も真似してみたが、これがとても美味しかった
後にそれがカマンベールチーズということを知った
日本ではまだ白カビのチーズは一般的ではなかった頃の話
この時、他の人と同じようにワインを飲むことにしたが
安いワインは悪酔いしたみたいで、苦労したことも覚えている

世界中の若いお上りさんがパリには溢れていた
日中にスペインだったかのジーンズを履いた女の子と話すことがあったが
その彼女らは、夜(7月14日のパリ祭の夜)ななると
服装をしっかり変えてめかしこんでいた
こちらは昼夜にはこうしたメリハリをつけるものか、、と漠然と思ったものだ

服装についてはフランスはおしゃれだなと漠然と感じた
紺のスカートに白いブラウス、シンプルな組み合わせでとても品が良い
さすがファッションの国だな、、と思ったりした
こうした(色の)組み合わせは、お母さんから教えられるものだよ
と誰かから聞いたような気がするが、詳しくは覚えていない

それからフランス語は全然駄目だったが
地下鉄(メトロ)の入口・出口のフランス語だけは覚えた

あとは、、まるで夢の中の出来事みたいで
不意に思い出してくるのか、すっかり忘れてしまっているのか

このパリに滞在中は、ある日本人夫妻からセーヌ川の遊覧船を奢ってもらった
そのことは覚えているが、船からの印象などはまったく記憶にない

記憶というは随分いい加減なものだな!と思うこの頃


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奈良公園の鹿を蹴ったのは、、、

2024年07月25日 16時06分37秒 | あれこれ考えること

数日前、奈良公園の鹿を足蹴りした動画をX(旧ツイッター)で見た
そこには鹿を蹴っているのは中国人と断言されて
そのために、良いねのアクションが多かった

だがその動画を見てのアクションの中には「邪魔だ」と日本語を話していることや
蹴った人物がベルトにいくつもの鍵の束をぶら下げていて、
生活者としての日本人は予想されるもので、少なくとも旅行者としての中国人ではない、、
との冷静なアクションもみられた

それを行ったのは日本人か中国人かわからない状態で中国人の仕業というのは
関東大震災のときに「韓国人が井戸に毒を入れた」というデマと同じようなものだ
そのために韓国人は失わなくて良い生命を終えた人もいた

最近のこの国は、左翼(パヨク)という言葉で
自分たちと少し考え方が違う人々を徹底的に蔑視する人たちがいる
なんでそこまでするのかな、、と自分の理解を超えているが
これらの人々は先日取り上げた「モッブ」(暴徒)という人々だ

他人を貶めて、自分を高い立場の人間としたいのは心理的には
ありうるかも知れないが、そんなことをしなくても
自分が自分らしい人間と信じることができないのは
きっと満たされていないからだろう

日本はストレスの多い国になっているのだろうか




 

 

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本を読んでいない人

2024年07月25日 09時03分12秒 | あれこれ考えること

思い切り偏った話
でもいくらかの真実があるかも知れないとも思う

不意に変なことを思いついた
トランプさんはきっと本を読んでいないだろう
仮に読んでいるとしても、それビジネス本とハウツウ物で
いわゆる古典と言われるものは読んでいないと想像した

そして本を読んでいない人は、あのような人物をつくる
というのが紛れもない事実のように思えてしまった

トランプさんを支持する多くの人もやはり古典を
読んではいないかも知れない
そのような人々は、古典の知識を知ったかぶりに話す知識人なるものを
知識人故に嫌う反知性主義に至ると想像した

もちろんこれは個人的な思い込みに過ぎない
だが本の効能は、多くの人が述べている
例えば3万冊の本を読んだがすべてを忘れている人と
全く本を読まなかったひとと比較すれば、
その違いは明らかに存在するというのがそれだ

どこか心のなかに沈潜した大事な何かは
なにかの時にフッとその姿を現す
その何かこそが、いつの間にかその人の個性となっているものだ

ということで、夏休みの読書は若い人にとって大事なものだと思う

ところで昨年、岸田さんは夏休みに本屋に行って
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を購入したとの報道があったが
それを読了できなかったとの後追いの報道もあった
彼ならそうかも知れない、、と思ってしまったのは、ちょいと残念なことだ

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自分は全く気づかなかったシーン

2024年07月24日 09時10分53秒 | あれこれ考えること

カップル同士がすれ違う時、男は隣のパートナーを気にしながらも
女を眺めるが(何となく分かる)、女もやはり女を見るらしい
どうやら服装・化粧・ヘアスタイルなどチェックをして
自分との比較を行うとのこと
それが性差のなせる技といったところだろうが
こんなことを思い出したのは「光る君へ」のFBグループで
道長が倒れ、静養している明子の家に本妻である倫子が訪れたときの
服装についてグループ内で盛り上がっていたからだ

明子と倫子の服装が被っていたのだが
本妻である倫子はそれを見てカチンときただろうという意見(心理分析)が多かった
あの服もきっと道長から贈られたものに違いなく
それが自分と同じような服であることが屈辱的だと多くの女性達は感じるらしい

同じシーンを見ても男としての自分は服装には全く関心がなかった
あの場面では本妻の倫子(黒木華)が、病気で寝ている道長のことを
源明子(瀧内公美)によろしくお願いしますと口にしたところが
どこか怖かったくらいにしか記憶にない
(あのときの女優さんの顔の演技というのはすごいものだ)

深読みというか、洞察力というか、物語はディテールにこだわるだけの
知識があるとより楽しめるものかも知れない
少なくとも被った服装でいろんな想像ができた女性たちのほうが
漠然と見過ごしている男ども(自分)よりはドラマを楽しんでいるといえる

ということで、人が死ぬような物理的戦いの少ない今年の大河ドラマ
(その分安心して見られるが)
でも実は女同士の静かな戦いが繰り返されていると感じることは
人間性一般を理解するためには役立つかも知れない


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気になる「モッブ」という存在

2024年07月23日 09時26分32秒 | あれこれ考えること

暑いっ!
早くも室内は下で32℃(午前8時半現在)
2階は、、見ていない

ありがたいことに、夜中はエアコン無しで寝られている
南側に庭があるのが本当に効いているようだ

ところで、暑い中で気になっていることをボケ防止のこれで
頭の整理もしないでぶちまけることにすると、、

アメリカの大統領選挙のトランプさんの報道を見るにつけ
かつてのドイツ国民のヒトラーに対する熱狂を連想するので
ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」3を再読している

すると、今まではさほど気にしなかった言葉が今回は妙に気になってきた
それは「モッブ」という言葉
前に読んだときも、どういう意味か?とネットで検索した記憶がある
その時はウキペディアで示された「暴徒」でわかった気になっていた

しかし、この「モッブ」という存在は意外や意外
その一つ一つは取るに足らないような存在からスタートしていても
結果的に庶民の間の空気づくりに大きな影響を与えるように思えてきた

多分、モッブという言葉が登場したのは「全体主義の起源」2の方だと思う
階級とか制度がかっちり固定して行き場のないヨーロッパの連中が
海外に生きる道を求めることになった(その一つがモッブとして扱われている)

この海外に挑戦する人びとが、良い人ばかりなら良いのだが
残念ながらそう言うわけには行かなかった
例えば、南アフリカで初めて会う肌の色の違う人、見知らぬ言葉を話す人
生活習慣も違う人、、、そういう人たちの対して、今の世の中で要求される
多様性を受け入れる考えで対峙することは少なかった
簡単に言えば、彼らを下に見て統治すべき存在として扱ったということで
現実には海外に生きる場所を求めた人は「あぶれ者」みたいな人が多かったので
そういう考えに至ることが多かった

アメリカも元はヨーロッパからの移民が多く
それらの人々は立派な人格者だったかと言えばそれは怪しい
(西部開拓も彼らからの視点に過ぎない)
極端なのは南アメリカの出かけたヨーロッパの人々は、必ずしもそうではなくて
植民地主義を残酷なくらい進めた人々で、その後遺症がいつまでも
現在の格差にまでつながっている

たくましさとか勢いとか行動力のある「モッブ」という存在
それらは知識人にとっては取るに足らぬ存在だったかも知れないが
現実世界では馬鹿にできない状況を作り出したようだ
だからこそハンナ・アーレントは取り上げたのだと思われる

暴徒という解説で示されるように、モッブは理性的な存在ではない
感情的、暴力的とも言える
だがそれ故に、大衆の中においては力を持つ
それは現在進行中のアメリカ大統領選の異様なネガティブキャンペーンで
モッズの姿が現実に見られる気がする

ここで話を日本に置き換えると、日本のモッブとは北一輝を始めとする連中とか
天皇機関説を猛烈に反対した論客とその一派だと想像する(個人的には)
そして現在の日本社会では、SNSを使った実態はよくわからないが
知らず知らずフェイクの噂を広め、静かに侵攻する人々でないか

つまりは、大規模の存在ではないが妙に人の感情を煽る存在
感情に訴えるだけに、その言い分は理性との対話が成り立たない
そして困ったことに一気に広がりやすい

人の世の中は、どういうわけか、信じられないくらい良い人が存在する
と同時に全く反対の悪い人も存在する
これは生物が生き残るためにいくつかの可能性を残しておく
その例の一つかもしれないが、できることなら良い人が多いほうがありがたい
そして「モッブ」という存在の少ないほうが好ましいと思う

いつもの、まとまらない話



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単なる妄想ではないと思うが、思いついたこと

2024年07月21日 09時30分53秒 | あれこれ考えること

「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」

広島の原爆死没者慰霊碑のはこのように刻まれている
今までは、サラッと読んで気に留めなかったが
先日気になることがあって無関心ではいられなくなってしまった

この文の主語は誰だ?
と、この碑文自体に文句を言う人々がいるというのだ
ここからは想像だが、そう言う人たちは(おそらく)
この文の主語は原爆を落とし多くの死者を生んだアメリカ
としたいのだろうと想像した

そしてそのように思う人は、日本国憲法についても
アメリカから押し付けられたもので、すぐさま改憲する必要がある
と声をあげている想像した

そしてもう一つ、このような思考傾向の人は、先の戦争での日本の行いに
ついてのお詫びを(自分たちが関わっていないのに)
いつまでもしなければならないことに不満を持っている人々と想像した
これは思い込みかもしれないが、当たらずと言えども遠からずではないだろうか

ところで、自分は冒頭の文の主語は、人類全体くらいの感覚でいて
それは人類の共通の知恵となりうるものだと思っていた
痛い思いをした人々は共通の知恵としてあることを心に刻む
それは自然なことで、みんなで共有するものと思っていた

話は変わって旧優生保護法による強制的な不妊手術は違憲とされ
国は被害者にお詫びを行い、更に被害弁償を支払うことになっていると報道された
つまりはこの話は、過去の政府が行ってきて現政権には直接的な責任はないことだが
それでも国として責任あるものとして、お詫びやお金を支払うべきものとして
行動するのが当たり前としている
これは世界的に法的にそう言うものなのか
それとも感情的にそうあるべきというところなのか、わからないが
行政の連続性というのはそういうことなのだろうとも思う
それがあってこそ、国は信用されるものだと思う
(昔、行ったことを今生きている自分たちのせいではないから、
責任は負えないと言ったら、他国はそんな国を信じるだろうか)

先の戦争の責任についていつまでお詫びをすればいいのか?
と言った、自分たちを精神的に救いたい気持ちはわからないではない
それが、みっともない出来事なら尚更だが
悪かったことは素直に悪かったとと認めることは
その後の関係に大きな影響を与えると思われる
(いつまでかは残念ながら自国で決めるものではなさそう)
でも、それができないのが人間という生き物
今の世の中、色んな面で余裕が無さすぎるのだろうか?

人が、いい人間であることは思いのほか難しい





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