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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「ナラティブ」とは何か(お利口さんに聞いてみた)

2025年08月23日 08時51分03秒 | まとまらない話

最近、目にしたり耳にするのが「ナラティブ」という言葉
この言葉を使う人は、もう当たり前の概念としているが
自分は馴染みがなくさっぱりわからない
そこで、「ナラティブとはなんですか?」
とお利口さんの生成AIに聞いてみた

ナラティブ(narrative)」は、日本語では「物語」「語り」と訳されることが多い概念です。
ただし、単なる「ストーリー」とは少し違った意味合いがあります。

基本的な意味

出来事を順序立てて意味づける語り
ある出来事や体験を、原因・結果・登場人物の意図などを含めて「ひとつの筋道のある話」として表現すること。
人や社会が出来事に意味を与える枠組み
客観的事実そのものではなく、それをどう解釈し「どんな意味を持つ話」と捉えるかを示すもの。

「ストーリー」との違い

ストーリー(story):事実や出来事の単なる時系列の並び
       (例:Aが起きて、その後Bが起きた)。

ナラティブ(narrative):その出来事をどう語り、どんな意味づけをしているか
         (例:Aが起きたからBが必然的に起きた、と人が解釈した筋道)。


使われる文脈
文学・物語論
小説や映画などで「語りの構造」や「視点」を指す。

社会学・文化研究
社会が共有する物語(例:「日本は平和国家である」という国民的ナラティブ)。

医療やカウンセリング
患者が自分の病気体験を「物語」として語ることを通じて回復を支援する「ナラティブ・セラピー」などがある。

ビジネス・政治
ブランドや政策が「どんな物語で語られるか」が人々の共感や行動に影響する。

知人が兵庫県の知事選での混乱を見聞きして、立花氏のストーリーだての演説は説得力がある
と言ったことを思い出した
わかりやすい(感情を刺激する)語りは「ナラティブ」なのかもしれない
また源氏物語の「蛍」の巻で物語論を述べて、単なる歴史的事実の羅列より説得力があるとしたのは
このことだったかもしれない

人は事実の積み重ねより、感情を動かされる説明の方が理解しやすいようで
明治維新の実態がどうであったのかを知るのは、司馬遼太郎のフィクションに
左右されていることが多い(司馬史観というらしい)

自分以外の人のことを語るのは専門家と言えども、実は語る方の勝手な思い込み
かもしれないと思ったりする
囲碁将棋の対戦の解説者は、一手一手ごとに解説をするが、それは同業のプロとして
現時点で考えていることを想像して(それは当たる確率が高い)説明する
時には対局者は解説者より必死に考えているので、違う手段を考えているかもしれない
と正直に発言するが、この解説は理解しやすい

でも時々本当かな?と思うのは専門家の意見としてでてくる政治の話
ジャーナリストとか学者とはそういう肩書の人は、自分だけが所有している(?)情報をもとに
政治家は(石破さんとかトランプさんとかは)こう考えている、、と解説する
でも、それって解説者の意見とか考えではないのか?と思うことが少なくない
そしてそれはあるところには有利となる方向性をもっている(テレビに出る意味はそこにあるのか?)
問題なのは、そうした専門家の解説(思い込み)が社会に与える影響で
知らず知らず大衆はそれで知った気になっていないだろうか

専門家の解説は科学の分野などにおいては問題ないが

社会的な政治的な分野においては専門家という人々の解説は
無条件に受け入れるより一旦疑って(一歩ひいて)見るほうが良いような気がしている

まとまらない話

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教養について

2025年08月06日 08時51分38秒 | まとまらない話

新聞広告で見かけた「もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために」
(加藤典洋著)は今の気分にピッタリの本で運も寸もなく買い求めた
同じように目に止まったのが「文学は何の役に立つのか?」平野啓一郎著

だが自分は文学を「教養」という言葉に置き換えたいと思う
教養は物知り(雑学を知っていること)とは違う
きっかけが雑学であったとしても
そこから派生する疑問とか驚きを追求して自分の頭で何かを考え
ある程度の確信に至ったものを教養と定義したい

一時期「教養小説」が流行ったことがあった
ゲーテの「ウィルヘムマイスターの修行時代」「ジャン・クリストフ」がその例だった
先日紹介した「シッダールタ」もその部類に入る
確かに物語による体験は人に大きな影響を与える
だが教養の別の分野である音楽はどうなんだろうと考えてみる

音楽は実は何を言っているのかはわかりにくい
音楽は言葉で表現されるものとは明らかに異なり
楽しめているそのものは個人の感覚に終止しているかもしれない
でもその音楽が何故自分にとって心に響くかを考えたり
更に作曲家の生き様を知ってみたり、また構造を知ってみたりすることは
単なる雑学の領域を超える

つまりはきっかけとして音楽があったとしても
その付き合い方次第で、教養になったり物知りにとどまるかが分かれてくる

教養は何の役に立つのか?
を考えみると、現実的には教養のない人とある人の違いを比べてみるとわかる
(もっともこの区別自体が偏っているとか、偏見に満ちているともいわれそうだが)
メルケルさんとトランプさんのG7での揉め事は、その一例のような気がする
片や物理学者の経歴をもつ全人格的な人間
一方はビジネスの世界で揉まれた技術のみを盲信する人間
(彼は反知性主義者にウケが良い)

人間の脳は損得を測る部分だけが大きいのではなく、
コニュニケーションを司る部分こそが人間を人間あらしめているそうだ
つまりは人は損得だけでは動かないということだが
今のアメリカは自ら自分たちの世界を狭くしているような気がしてならない

といっても教養の世界はある意味抽象の世界で
それがどれだけ自己完結的な秩序に従い、美的なものがあるにしても
社会との関わりを関係なしに済むことはない
これは「もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために」の中でも指摘されていた

社会は関係性の中にあるので、住みやすいからと言って
そこにとどまるのはよろしくない!と自らの地位を捨てて
世の中に出ようとしたのはヘッセの小説の中のヨーゼフ・クネヒトだった
(ガラス玉演戯名人)

カラヤンの前のベルリン・フィルの指揮者フルトヴェングラーは
芸術至上主義者でそこから社会の良きものも生まれると信じようとした
だが現実はそうはならなかった
(彼の壮絶な内的な苦悩の時間は第二次世界大戦のあいだ続いた)
でも個人的には、だからといってフルとヴェングラーを批判できない自分がいる

話があっちこっち飛んでまとまらなくなったが
人は人として存在するためには、人の間に存在する大切な何かを
共有することが大事だと思う
そしてそれは「教養」と呼ばれるものだと思う
(あるいは自然法の範疇にはいるもの)

これらは昔読んだ「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか」
に影響されている考え方かもしれない

まとまらない話

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思い込みを変えるのは難しいが

2025年07月15日 10時07分21秒 | まとまらない話

他人が何と言おうと実感したことを変えるのは難しい
急に参議院選挙の重要なテーマとして浮上したのが外国人に対する認識で
否定的な考え方をする人は「過度に外国人が多くなると犯罪が多くなるとか文化が乱れる」
との主張を繰り返す

ファクトチェックによれば、外国人の数は毎年増えているが
外国人の起こす犯罪は減っているから、外国人が増えているから犯罪が多くなるということはない
でも、問題なのは「なんとなく」という個人の実感で、人は事実よりも自身の思い込みを重要視しやすい

外国人という言葉でイメージして、日本で一緒に暮らすことに否定的な思いを抱かれる人たちは
具体的にはどんな人達だろうか
(これは自身の思い込みかもしれないが)それはアジア人、中国人、韓国人、ベトナム人、
ネパール人とかイスラム系の人たちを思い浮かべていないか?
アメリカ人とかイギリス人、フランス人などに対しては日本に住むことに上記の人達ほど
違和感を感じていないのではないだろうか

外国人への判断基準となる直感とか実感は、自身が目にしたり話したりすることで育まれる
自分事で言えば、国内で出会った外国人はブラジル人、韓国人、ベトナム人などがあるが
その人たちはごく普通の人たちで、一緒に暮らすことに違和感を覚えることはない
確かに、少しばかりルーズなところもあるし、能力的な問題があったこともある(会話能力)
でも総じて、みんな一緒だな、、と思えるものだった

自分が外国人として扱われた一人旅のドイツ、オーストリアで出会った人は
電車が目的地までいかず困っていた時に、すごく親切だったドイツのおばさんがいて
とてもありがたかった
でも、そんなにいい思い出だけでなく、道に困っていた時、暗い目をして、服装もどこか貧相で
明らかにドイツ人ではない様子の人が、道案内をしてくれたのは良いが
そのあとでお金を要求されたことがあった
印象に残っているのは彼の暗い目だった
彼は多分移民で、普通の暮らしができていないだろうと想像した

外国人が犯罪を起こすとか、社会になじまないということは
その人達の経済的な要因がクリアされていないと起こるのではないだろうか
問題が起こるのは(起こるとしたら)人種、国別等の問題ではなくて
経済的な面が大きいのではないだろうか

日本が未来に希望が満ちていた時期は、一億総中流といわれた
多くの人が物持ちではなかったが、少なくとも人の気持を慮る余裕はあった(と思う)
それが今はギスギスしている
心に余裕がない
そして従来は自発的にブレーキをかけて、しよう思えばすることもできた行為はしなかった
でも今は「法的に問題はない」との考えに基づいて暴走する
そしてこの考え方を「行き来すぎた個人主義」と名付ける人たちがいる
でもそれは行き過ぎた個人主義でもなんでもない
自然法と言われる正義感とか倫理観が欠如したひとが多いだけのことだ
そしてその自然法を無視する行動は、多分社会の経済格差によるものと思う

経済格差は体験格差につながり、体験から生まれる人生観にも影響する
つまりは経済の問題は、実際は心の問題にまで波及する

ところで、昔読んだ本のぺージを折ったものを読みなおしてみると
興味深いところが見つかった(読み直そうとしたのは「絶望を希望に変える経済学」)

この本は、タイトル通り読後はなんか明るい気分になれた
確かここにも移民の犯罪の確率はイメージと違って実態はそれほど多くない
とされた著述があったように記憶しているが、この本ではなかったかもしれない
(とにかく、日本のファクトチェックと似たようなことが外国でもあったということ)

この本で紹介された中で、興味深かったのはアメリカのキャンプ場で行われたある実験で
11歳から12歳くらいの子どもを2つのチームに分けて(お互いの存在は知らずにいて)
あるタイミングで例えば綱引きなどの戦いをすることにしたところ
それぞれにチーム内に相手に対して否定的、侮蔑的な言葉が生まれて(そうすることで結束力は増した)
両チームの関係は芳しくないようだったが
キャンプの最終日にキャンプ場を断水状態にしたところ、2つのチームは最初、協力を渋っていたが
そのうちに力を合わせて問題解決に取り組むようになり、お互いの敵意は消えていったとオチがあった

つまりは知らないでいると、無意識に否定的なものとして扱う傾向があるということと
目前の課題については、人には無意識に生まれた敵意などは関係なく協力しうる能力がある
ということで、こうしたことは人を肯定的に捉えていてとても救われる気分になる

もっとも、こうした思いは「お花畑」「非現実的」と断定する人達がいるもの事実
でもそういう人が使う「現実的という選択」は時として
権威主義に従うだけとなることも想像できる
そしてその権威主義に従うだけの社会は、果たして良きものか?
と想像してみると、それは実はつまらない世界ではないだろうか

というこことで、まとまらない話

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漠然と信じていたものを疑うことは大事

2025年07月05日 09時24分04秒 | まとまらない話

少し面倒くさい話

戦後のGHQの洗脳によって、日本人の持っていたものが失われた
と主張する人がいて、それを無条件に受け入れている人が少なくない

それについて、ちょいと考えてみると
「戦争に負けるということは実質的には憲法を変えるということだ」
との考えがある
実際のところ、GHQは戦争を始めて多くの犠牲を生むことになった
日本のあの体制を否定している
戦争の空気を生んだ国家神道の体制をなくそうとするのは
アメリカの立場になれば当然のことだろう
ただアメリカの都合もあって、将来のロシアとの戦いを想像すると
国益として日本を上手く利用したいという現実があったにも事実だ
(この部分は松本清張の帝銀事件とか下山事件でそれとなく問われている)

なんとなく、あまり考えずに受け入れている昔から持っていた日本らしさ
というのは、一体なんだろう
日本人独自というのは、実は他国と比較してこそ明らかになる
勝手に日本人だけと思っていたことが、他国にも存在しているということは少なくない
八百万の神の存在は確かに一神教の文化とは違うが
あらゆるものに霊魂や精神が宿るとするアニミズムは日本以外でも存在する

つまりは日本人だけと思うのは実は間違いで、人間が持ちうる傾向のひとつで
それは一般化できるものであることも多い
両親を大事にするとか仲間と仲良くする、正しい行いをしようとする倫理観や正義感は
一種の自然法に含まれて、日本だけのものではないと思う

日本人の道徳心の高さを示すものとして、電車で財布を落とすと
財布は何事もなかったかのように戻って来るという例がある
ところが、小さな子供を連れた妊婦さんや、高齢の人に電車の席を譲る
というのは圧倒的に少ないらしい
(ブラジルでは財布は戻ってこないが、席はすぐに譲るらしい)

最近、違和感を覆えるのは「保守」という言葉の使われ方
西部邁さんが使う保守という言葉は、復古主義の硬直化した伝統主義のそれとは違うし
自身も西部邁さんの言わんとすることに納得できる
でも、最近はもっとあやふやな括りで保守という言葉が使われる
(それは左に対する言葉として)
対立構造を上手く利用されて、本質とは違う捉え方がなされる
ということは、今では当たり前のようになされているのではないか

左翼とか左巻きという言葉は、リベラルとか社会主義者を批判的に捉える言葉だが
社会主義とか共産主義の思想が生まれるに至った経過とか
矛盾する資本主義社会をなんとかしようとした気持ちは少なくともそこは理解できる

問題は、よく知らないままで随分雑な括りとか断言で物事が括られてしまっていること
世の中はそんあに簡単ではなさそうだし、気持ちが悪いとしても
曖昧なままいろんなことが存在するのはむしろ社会の実態だと思う

ということで、日本人が昔から持っていた善きものとは何か?
それは本当に日本人だけのものか?
もしかしたら人類全体が持っている精神的傾向なのではないか?
というところが、現在の自分の関心事

土曜日の朝 まとまらない話



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「目利き」の効く人と効かない人

2025年06月27日 08時44分35秒 | まとまらない話

「目利き」という言葉が目に入って頭の中に引っかかった
魚は目利きの効く人が、多く中からその力を発揮して高品質のもを探し出す
スポーツの世界では、まだひよっこの状態の選手を目利きの効くスカウトが
宝物を見つけるように発掘する(後の伸びしろはどうやってわかるのだろう)

これらはおそらく「目利きの効く人」の長年にわたって蓄積されたものが
勘となって形に現れるものと思われる
つまりは目利きの利く人は、常日頃からの蓄積の量が普通の人とは
ぜんぜん違うと思われる

社会はこうした変わった才能のある人を重宝してうまく活かしている
しかし、不意に気になってしまったのが「この世界だけは全く違うな」ということ

この世界とは、政治もしくは選挙の世界のことで
特に選挙では誰もが同じ一票の力しか持ち得ない
ものすごい情報量で広範囲の視点から考えられる人も
普段は何も考えず、その時々の空気にのってしまう人も
容姿が良いとか、家系が良いとかだけで判断する人も全く同じ一票しか力を持ちえない

今はそれは当たり前のこととして存在しているが
果たしてそれ本当に良いことなのだろうか?
と最近の社会を見るにつけ、ちょいと疑ったしまった

この同じ一票の危険性は既にある程度考えられていたようで
「多数決を疑う」の本の中では、一般的に合理的な決定機関とする
普通の(選挙)投票に変わる方法も、いろんな人が考えていた

ポピュリズムがその破壊力を発揮するのは、この一人一票の力で
人の善政とか倫理観とか、、そうした一種理想的なイデアを頭に浮かべるよりも
現実的な興味とか眼の前の対処法に心奪われる人が多いことだ
(ヒトラーも立花孝志氏もこうした人をうまく利用している)

確かにみんながみんな個の確立をし、一人ひとりが賢く広範囲の視点から
理性的に考えられるようになるのは理想だが、現実世界で周りがそんな人ばかりだと
少し息苦そうな気がしないでもない

ということで、人間社会はなんか難しいな、、と思うこの頃
でも個人的には、少しばかり息苦しくても
個の確立ができた人が多いほうが良いと思う

まとまらない話

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権限への逃避(個人の責任はどこへ行くのか?)

2025年06月01日 10時55分59秒 | まとまらない話

「知事及び元副知事の指示に基づき総務部長の職責として正当業務を行ったにすぎない」
これは兵庫県の情報漏洩についての第三者委員会で疑わしいとされた元総務部長の言い分だ
何かに似てるな!と頭をかすめたのは、アイヒマンの言い分だった
ガス室へ淡々とユダヤ人を送り込んだアイヒマンは凡庸な人だったとか
今ではやはり変な人だったとの評価があるが
彼は仕事として与えられた仕事を実行したに過ぎないと自己弁護している

ドイツはどうかわからないが日本では公務員は法律で
職務上の命令に従うというのが決まりになっている
つまり上からの命令があればそれに従うのが法令遵守していることで
元総務部長はそのことを訴えたわけだ

若干の違和感があるが、アイヒマンの例では彼の判決文にはこの言い分は考慮されていない
判決文はこちら↓

つまりは判断力を持った個人としての人間は、個人として審判されるということだ
責任は曖昧なものではなく、個人に特定されることは十分にありうるということだ

今日の中日新聞の書籍紹介のコーナーでは丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」があったが
2年ほど前読んだ時にショックだったのは、戦争を起こしたのは誰だったのかということが
つまりは「ここまで来たらやめられない」と漠然とした空気の中でなし崩しに突っ走ってしまったこと
そして多くの人間は「責任は自分ではない」と逃げたことだった
それを丸山眞男は「既成事実への屈服と権限への逃避」の言葉で解説している

現実はここまで来ているから仕方ない
自分には事態をを変える力がなかった
この言い分が通るなら人は誰も罰することはできない
ハンナ・アーレントは「責任と判断」の中で個人としての人間の存在を
そんなに軽いものとして見ていないし、自分も時と場合によっては
個人は激しく糾弾されるべきだとも思う
そうした個人としての存在は、欧米のそれに対する時間と日本人の思うそれとは
随分違っているような気がする

日本人は安易に「行き過ぎた個人主義」という言葉を使い個人主義を批判する
でも自分の中の自分と対話する個人は、行き過ぎた個人主義にブレーキをかける
つまり成熟した個人主義は、実は公益にも役立つはずで、
一概に無視される概念では無いと思う

これは自身の感覚的なことなので伝わりにくいと思われるが
自分は結局は日本人はまだ「個の確率ができていない」と思えて仕方ない

ところで今日の中日新聞の本の紹介コーナーにアリストテレスの「政治学」
が取り上げられていたが、以下の紹介文が興味深かった
それは、なる」中間層が国家の主体となるべきという説で
傲慢になりがちな富裕層や素行不良になることがある貧困層と異なり
「道理に従うのが最も容易になる」つまり民主主義を強くするには
中間層を増やさなければ!としている
この本は新自由主義経済の下で格差が開いてしまう現状への
痛烈な批判として受け止めるべきだとまとめている

ところで最初の兵庫県の情報漏洩については、総務部長、副総務部長
副知事が知事の指示があったする共通の認識を持っていて
知事だけがそんなことは口にしていないと言っている
自己の認識だけで物事が解釈されるのは公平ではなく
客観的な事実として幹部3人が共通認識を持っているという方が
事実に近いと考えるのは無理のないことだ
裁判では3人の言い分のほうが事実と認定されると思う

相変わらず、まとまらない話


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住民監査請求

2025年05月01日 10時04分54秒 | まとまらない話

世の中にはいろんな制度・システムがある
その中に普通の人は死ぬまでに一度も関わることのないものがある
その一つが「住民監査請求」でネットで調べると

住民監査請求とは、地方公共団体の住民が、その団体の執行機関(市長など)や職員による違法または不当な財務会計上の行為があった場合に、監査委員に対して監査を請求し、必要な措置(防止、是正、損害賠償など)を講じるよう求める制度です。

住民監査請求の書類を提出し、受付、受理の約一ヶ月の検査の後
返された回答に請求した人が納得できない時は
期日内に行政裁判に訴えることができることになっている
我々の身近のところでは、新庁舎建設用地外の移転補償費についての裁判も
養鶏場の予想外の高価での購入についての裁判もこの過程を踏んだ

いまこの言葉を思い出したのは、兵庫県で奇妙な住民監査請求が行われ
その結果が出て、行政裁判に至るような話があるからで
住民監査請求の趣旨は、自死された県民局長は仕事の合間に県から貸与されたPCを
使って私的な事柄に時間を費やした
その分だけの給与は兵庫県に返却してほしいというものだ

この住民監査請求に関して先日回答があって
そのPDFファイルをダウンロードしてざっくり読んでみた
すると、監査の方たちは、精緻な作業を行っていることがわかる
(自分たちの場合も全体的には精緻に行われたが、一部解釈の違いがあって納得できずに
 次の段階に移った)

給与の返還については、いつ(◯月◯日◯時◯分)どのくらいの時間を
私的な使い方をしたかを確定する必要があるが、今それはわからない
PCに残っている作業時間等も、ファイルを開けっ放しにして他の業務をしていた
可能性があるのでこれもわからない
なので今となっては不正確な情報を元に、請求されたことに応えることは
できないとしている

そして住民監査請求をして人たちが、その隠れた目的の一つである
県民局長のプライベートなファイルの公表についても、監査員は
お金の返却要求とPCの中身とは関係ないのでそれをする必要はないと答えている
(百条委員会も第三者委員会もプライベートな内容については同様な判断をしている)

これは至極当然の回答のように思える
しかし不満を覚える人がいるのも事実だ
だがその人たちは果たして、回答を読み込んで自分なりに理解して不満を覚えたのだろうか
むしろ、県民局長への懲罰感(それは斎藤知事への支持につながる)から感情的に
生み出されたものではないだろうか

最近の社会の分断は、事実認定がバラバラになっているためだと思えてならない
それぞれの陣営が自分たちの良いように解釈して
一般化できるような事実認定を行わないとか、あるいは認めないせいで
いつまで経っても収集がつかないでいる

今、アメリカで起きている分断(トランプ支持者と反トランプ支持者)と
兵庫県で起きている分断
それは同時期に起きているというだけでなく、根本的なところも
どこか似ていると思えてならない
なんか怒りの感情が世界に溢れているような不穏な空気を感じるのは
杞憂なのだろうか

まとまらない話





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しっぺ返しはやってくる

2025年04月29日 09時09分51秒 | まとまらない話

今年の大河ドラマ「べらぼう」は見ていない
始めのうち少しだけ見たが、なんとなくわかりやすいのが
つまらなく思えてしまった

蔦屋重三郎の時代は松平定信とか田沼意次が活躍した頃で
ドラマにも登場している
田沼意次は評価の分かれる人物で、政治的手腕の優れた人物
という評価と賄賂政治の典型みたいな捉え方がされている
池波正太郎の剣客商売では肯定的な捉え方がされている
(良い方の捉え方では田中角栄みたいなイメージで理解されているみたい)

ところで、不意に思い出したのは歴史で習った松平定信の寛政の改革のひとつで
武士が借りていたお金を免除する(棄捐令(きえんれい)という政策
随分強引なことをするものだ学生時代も時も思ったが
結果的にお金を貸していた人たちは、次に武士にお金を貸す時は以前よりも高利で
貸すことになって、それでお金が回らなくなったという顛末に
そりゃそうだよな!と思ったことを思い出した
(毎度のことだが覚えているのは本当に変なことばかりだ)

倫理観をもって質素倹約に努めるように望んだ松平定信の改革は
生活者としての庶民にあまりウケなかったのかもしれない
つまりは社会は理想通りとか理屈どおりにはいかないということで
今の言葉で言えば「複雑系」こそが社会・経済ということだろうか

現代社会も複雑系で成り立っている
マクロ経済学が科学的に見えようが現実には不確定要素が多すぎて
数式が成り立つにはありえないような前提が存在するらしい
(先日読んだ政策の哲学によれば)

もしかしたらMMTを信奉する人たちも極度に簡略していないか?と思ってしまった
MMTを勧めるひとは現在の経済的停滞の理由をお金の流通が不足しているとして
紙幣を刷ることで社会に回していけば良くなるはずだとする考え方だが
それは既に赤字公債を多く生み出している現況と同じことではないだろうか

そしてなんとなく違和感を覚えるのは
自国通貨だからといって際限なく刷ってしまうことは
何らかの基準を設けて国の経済状況を評価しようとする世界の判断に
マイナスの影響を与えないかと思えたこと

と言ってもこのあたりはとても難しくて、はっきり言ってわからない
ただMMTに対しては漠然とした不安が消えることはないということ

ということで、自分のキャパを超えた問題なのでまとまらずに終わってしまった


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そうなるのは必然性があったのだろうに

2025年04月18日 09時33分39秒 | まとまらない話

学生運動が騒がしかったころに学生時代を過ごした
学内には特徴的な文字が書かれた大きな看板が置かれていた
スピーカーを通じてベトナム戦争や産学共同体への抵抗を訴えていた
(今は産学共同は当たり前のように捉えられているので隔世の感がある)

ノンポリだったので無関心ではないが、何にも参加せずにいた
学生運動の反対行動の中に「公立大学の授業料の値上げ反対」があった
当時の国立大学の授業料はとても安くて、月1,000円だった
確か高校のそれよりも安かったと記憶している
それが3倍になる政府の方針が提示され当事者として学生は反対行動をした

この時、3倍になることに反対はできないかもしれない
と思ったことを覚えている
その頃はモラトリアム時代を謳歌して、だらしない学生生活を過ごしていた
勉強もあまりせず、マイペースで時間の過ぎるのをただ経験していた
だが、それで良いのか?という気持ちは少なからず持っていた

こんなに大学の授業料が安く済んでいるのは国が補填しているからで
それを思うと、自分の生活はダメだな、、と申し訳ないと思ったり
安すぎる授業料を値上げするのは仕方ないというか
自己弁護するためにもこの程度の値上げはしたほうがいいのかもと思ったりした

値上げだから反対!
その理由の如何をを問わず、そのように反応するのは違うんじゃないか
と感じたことは今も覚えている

話は変わって、現在はまるで決まり文句のように
共産主義とか社会主義が否定される傾向にある(GHQの教育方針のせいで?)
それは問答無用の扱い方で、社会主義だからという理由で避けるべき考え方とされている
だが、なんでそんなに嫌われる考え方なのだろうか?
と考えてみると自分にはよくわからない

そもそも社会主義が生まれる歴史的必然性はどこかにあっただろうし
マルクスの考え方も当時の社会の精緻な分析から生まれたものだと思う
少なくとも不公平な社会をなんとかしようとした気持ちはわかる
だから、それまでも否定して、頭ごなしに全否定するのはよくわからんなあ
という気分だ

共産主義とか社会主義が嫌われるのは
理想とする体制に持っていく手段のせいなのかもしれない
つまり革命とちょっとばかり武力行動を想像させるものが
否定されているのかもしれない
それならわからないでもない

急激な変化というものはどこか大きな傷を負うことにある
良かれ!と思ってしたことが、却って混乱を招くということは
フランス革命の例では、貴族の立場にいたトクヴィルは実感したようだ

絶え間ない少しずつの変化、訂正(創造的破壊?)
それができていけば良いのだが、どうも世の中はそうは上手くいかない
でも、少なくとも歴史を辿ってその考え方が生まれるに至ったことを
こころに留めておくことは必要だと思う

自分が今一番実感(心配)することは、
何事もあまりにも簡単な言葉で説明されすぎということ

103万円の壁
オールドメディアの一言での不定的な捉え方
民意(選挙結果)は正しいとする考え方
社会主義・共産主義への嫌悪感
諸悪の根源は財務省にあるとする考え方

これらは無条件に受け入れたり引用すべきものではなくて
一度自分のなかで消化してから使うべきものと思うが
世間へは尋常でないスピードで拡散している
何が怖いかといえば、この事実こそが怖い

まとまらない話

 

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全能感の誘惑

2025年04月08日 09時55分21秒 | まとまらない話

一度経験してみたいものに、野球の監督、指揮者、そして政治的なトップがあるらしい
それらは自分の下す命令を疑うことなく従うという一種の全能感に満たされるからと思われる

経験から振り返ってみると確かにサッカーの監督(野球ではないが)によってチームのカラーは違う
フォーバック、スリーバック等のフォーメーションの選択だけでなく選手を起用するポジションも違う
それは小学生のサッカーチームでも明らかに見られた
自分の率いたチームは超攻撃的でそれいけドンドンだった(一点でも多く得点したほうが勝ち)
別の仲間は率いたときは、後ろに重心がある「負けないサッカー」を目指していた
どちらが正解かはわからない
大人の世界なら勝点を多く重ねるほうが正解ということになりそうだが
小学生の時点では伸びしろを考えると評価基準は勝ち点だけではない

自分が率いたチームは最初に戦術とかイメージしたフォーメーションがあって
それに人を配するというという決め方ではなかった
まずはポジションなしに全く自由にどこでも動ける試合をしてみて
前目に行く子ども、心配性で後ろにいる子をみて
その性格に合わせてポジションを決めた
同じポジションに重なるときは我慢ができるタイプに無理を聞いてもらった

とりあえずポジションを決めて試合をしてみる
すると、どうも不自由そうだな、、と思えることがある
それを見て彼らがもっと自由にプレーできる方法を考え形をいろいろ変えてみる

流行りの勝率の良さそうなフォーメーションをあてはめるというよりは
人間には個性があるから個人個人の特性にあったものを中心にした

話は変わって指揮者の仕事を(素人が)想像してみる
指揮者は楽譜を読み込んで自分なりの解釈、表現を自覚する
そしてそれをオーケストラの奏者に伝え、思い浮かべた解釈が
完全に実現されるように練習をする

だが奏者も専門的な技術者なので音楽に関する解釈や理解は
全面的に指揮者とは一致するとは限らない
自己から自然発生する表現意欲は、それを使わないと勿体ないし
奏者も満足感を得られない

練習を完璧にして音を合わせるというタイプの指揮者が一般的と思われるが
フルトヴェングラーの指揮は「振ると面食らう」のジョークがあるように
わかりにくかったそうだ
運命の冒頭の音を出すタイミングは、指揮棒を見れば誰でもわかるというものではなく
奏者は「今だ!」と感じた時に音を出したそうだ
すると感じ方によって多少のズレが生じる
そのズレた音は、あっていないと評価するより、どこか味があるとの評価を
フルトヴェングラーはしていたそうだ

彼の指揮した音楽が他の人と違うのは、奏者の自発性みたいなものが
圧倒的に感じられることだ
確かに指揮者によってコントロールされている
しかし奏者が触発された感覚は猛烈な熱気を持って音楽に集中する
それは指揮者と奏者の共同作業のように思える

サッカーでも、個々の臨機応変な自由な判断がなされるというのが
自分の求めたものだった
約束事を守るほうが現実的だったとしても、どこか選手に
任せるところがあるというのが好きだった

今度は政治的な問題に対して想像してみる
大統領や首長のやりがいとは何だろう
世の中を良くしたいという使命感が自分の力で達成できることもあるが
今のトランプ大統領を見ていると、どうもそうではなさそうに見える

彼が実感しているのは(やりがい・生きがいは)「全能感」ではないだろうか
マックス・ウェーバーの支配という定義を思う浮かべるまでもなく
とりあえずは法的な支配によって、彼の判断は実現される
(それ何であろうと)
官僚とか職員は、専門的な知識とか広範な知見によって
現実的な方法を考えうると思われるが、その自発的な能力は必要とされない
必要なのは命令に従うだけ

例えばそのような環境で音楽やサッカーは、面白いのだろうか
少なくとも職員・奏者・プレーヤーは満足できているのだろうか
人の力を借りるということは、自分の思い通りではないとしても
結果的に良いものが生まれる可能性はあると思えるのだが、、さて


まとまらない話

コメント
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