パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

チェリビダッケの思い出

2007年04月26日 22時22分13秒 | Weblog
今朝の通勤途中、NHKFMでセルジュ・チェリビダッケの指揮する
ブルックナーのテ・デウムを聞いた
残念ながら仕事場に着いてしまって
聞けたのは時間的にほんの少しだったが
このCDは確か家にもあるはず!
と思い先ほど聞き返してみた

チェリビダッケ特有のゆったりしたテンポ
一気呵成に演奏される事の多そうなこの曲も
ゆったりしたテンポに慣れてしまえば、それなりに
アレッ、と思う瞬間があって楽しめた
そうこうするうちにチェリビダッケの実演の事を思い出した
いや、正確には演奏ではない
演奏内容はあまり覚えていないのだ
プログラムはハイドンの何番かの交響曲と
チャイコフスキーの悲愴
特に際立った印象はない
ところが今でも強く記憶に残っているのは
あの巨体が舞台の袖から指揮台まで歩く時の姿
ノッシ、ノッシと、しかし音は全然しないで
聴衆も咳払い一つしないで彼の挙動を見つめている
その静寂はまさに一つの音楽のようだった
そしてその時、これを感じられただけで元はとった!
と思ったものだ
それにしても、何を感じるにしても生はいいものだ
連休の「熱狂の日音楽祭」のコンサートは
今年は聞くのは7本の予定
楽しみだ(ビールの方が楽しみだったりして!)
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「私は馬鹿です」と宣言する人?

2007年04月25日 21時07分08秒 | Weblog
電車や店の中で、大きな声で話している人がいる昨今の携帯電話事情
気が散って落ち着かなかったり、うるさかったりして
かけている当人を迷惑に感じるのだが
「私は馬鹿です」と自ら宣言しているのだと思うと
少しばかり哀れみを感じたりして我慢できるかもしれない

ホント、本来は常識的にそんな行為は避けてしかるべきで
そんなことをしたら恥ずかしいと思うべきなのに
そんな神経を持たずにいる事は
その家の教育程度まで推し量れそうで
裸を見られているのと同じ事なのだ

便利だからどこでも使う
それは無粋な者のする事
格好が悪いと思わなければいけない
だが、こうしたとらえ方の教育が最近では
難しくなってきているのだろうか

若者は人に格好よく見せたいなら
こんな事にもこだわらなくては!
と思うのだが、、、。

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時には大目に見る事も必要なのでは!

2007年04月24日 21時07分04秒 | Weblog
先日大学生になったばかりの甥が帰省し、
久しぶりに話す事があったのだが
いつの時代でも同じなんだと思い出した事があった
それはコンパと称する飲み会の事
大学生になったばかりは現役なら18歳もしくは19歳で
当然のごとく飲酒は禁止されている
しかし自分の時代も、まるで通過儀式のように酒を飲んだ(飲まされた?)
それも初めてに近いにもかかわらず大量に!戻すくらいに!
おかげでしばらくはビールの香りを嗅ぐだけで、
オエッとしたものだったが
甥も全く同じ経験をしたらしい

結局、全国で同じような経験をしている連中は
半端じゃないくらい多いだろう

そこで問題なのはこの飲酒に関する大人、マスコミのとらえ方
大半の大人は「まあ仕方ない事」くらいに思っているだろうが
いったん未成年の芸能人が飲酒等と報道されると
いきなり善人ぶって社会のルールは守らなくてはいけない等と口にする
もちろん公な発言で、おおっぴらに規則を破る事を認める事は出来ないだろう
しかし、それでも本当にいいのは(自分の考えでは)
見て見ぬ振りをすることじゃないかと思ってしまう
おとなの余裕とか、いろんな意味での弱い人間を認めた上で
人間にはそんな時期も必要と許してあげる気持ちが
大事なのではないだろうか
(それなら未成年の飲酒が禁止されている事実はどうなのだ、
 これ自体無駄な法律ではないか等と考えるのはここでは
  あえて問題としないでおく)

通過儀礼、
それは本や映画で体験するものではなく
実体験として、こうした馬鹿な行為も味わう事が必要なのではないのか
そうすることによって他人への許容範囲も広がるようになるのではないだろうか
残念ながら人間はなかなか決めた通りにはいかないものだ
夏休みの宿題、最終日に泣きながら親に手伝ってもらいながら済ませた経験を持つ人間は
この国には数万といるだろう
自分はそれを情けない事だとは思わない
あまりにも大勢いるのなら、実はその方が自然なのだと考える
多くの人間が経験する事、そしてそれを自らも味わう事
それは未成年の飲酒はいけない
夏休みの宿題はきちんとやっておくべき等と(ルールは守るべき等と)
四角四面に守る事より大事だと思うのだが
少し甘過ぎるだろうか?



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よそ者、わか者、ばか者。

2007年04月23日 20時22分33秒 | Weblog
今日の新聞に、沈滞する商店街を変えるのは
「よそ者、わか者、ばか者」と出ていた。
なるほど、そうかも知れない

彼らは未来を悲観的に予想しない
たとえ好ましい結果が予想されなくても
やってみないと解らないと思い込んでいる

一方在住の年配者、分析家は出来ない理由を挙げて
失敗をしないように、その行動さえしようとしない
(だが、経験を積むという事は、実はリスクの可能性を
 慎重に読む事でもあるのだから仕方ないけれど)
しかし、結局はやってみなければ解らないのかもしれない

残念ながら、未来は分析した通りには現れない
いつも裏切った形でやってくるのではないだろうか
ならば何の恐怖心もない「よそ者、わか者、ばか者」に
未来を託すのも良い事かもしれない

小賢しい者は、大いなる愚者に負けることがある
近頃、そう思うようになった

怖い物を知った上で、失敗のリスクの可能性を知った上で
なおかつ勇気を持って踏み出す
本当はこんなのが一番なのだろうが
口では簡単だが、なかなか出来ない事だ
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使わないより、ない方がいい銃。

2007年04月21日 21時19分21秒 | Weblog
「銃は悪くない
悪いのは銃を扱う人間だ
だから教育をしっかりしなければいけない」
銃規制に反対する人々の意見だ

しかし、人を傷つける目的の道具が存在する以上
人はそれを使わずにいられるのだろうか?
人はそんなに理性的な存在ではなく、
時として、たいへんな事をしでかしてしまう

だから、予防として銃などの道具を持たないようにするのは
理性的な(種の保存)方法ではないだろうか
(これは原子爆弾にも言える事だ)

最近、人間は生物の霊長として地球上に存在する、というのが
疑わしく思えてならない
世界は弱肉強食といえども、同じ種の中でこんなにも
他を排除しようとするものは存在するのだろうか?

危ないものには近寄らない!
それを強い意志でもって行うのは
決して勇気のない事ではないと思うのだが、、、。
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サウンドクリエートボードの効果

2007年04月19日 22時38分58秒 | Weblog
1月下旬に立て替えの今の家に引っ越して約3ヶ月
満足の生活を送っていたのだけれど、一つ満足できない事があった
それはホビールームのステレオの音
この部屋は2階にあって床が若干柔らかめのため(?)踏ん張りがきかず
芯のある音や低温が出難くなっていた(と自分勝手に判断した)

そこで、オーディオショップに行って相談して奨められたのが
スピーカーのセッティングを高めるサウンドクリエートボード
(TOAC SCB-RSシリーズ)
つまり、スピーカーの下に硬く密度の高い敷物を置く、という訳だ
「アンプが一クラス上になったくらいよくなりますよ
 現実的に効果ありますからおすすめです」
多少の疑問、不安はあったものの運を天に任せて手に入れてみた

さて、その効果は?

なるほど劇的ではないが変化はしている。
まず音がくっきりしてきた、そして艶っぽい音になり
楽器のある位置もはっきりと解る
そして前に聞こえなかった音も聞こえるようになった
(これだけ変われば充分劇的じゃないか?)
ショップの人の説明によれば、音が逃げていたのがなくなるからだ、とか

人の耳はすぐに慣れてしまって
今の感激もいずれ忘れてしまうのだろう
しかし、今回の買い物は正解かな!

試しに聴いた曲は
ベートーヴェン ピアノ三重奏曲「幽霊」の第2楽章
シューベルト  ピアノ三重奏曲第2番の第2楽章
ベートーヴェン  荘厳ミサから「ベネディクトス」「アニュスデイ」
モーツァルト ピアノ協奏曲22番、23番の第2楽章
夜なので大きな音は出せられないのでアダージオ、アンダンテ系の
癒しの曲を聴いたのだが、こうして聞いてみると
音楽って凄いな!と再確認。
しばらくは、このサウンドクリエートボードの効果のおかげで
楽しい日々が過ごせそうだ。
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「千の風になっては」小声で歌うべきでは、、、。

2007年04月18日 20時48分52秒 | Weblog
昨年の紅白歌合戦で取り上げられ
一躍クラシック部門のベストセラーになった
秋川 雅史の歌う「千の風になって」

しかし、へそ曲がりの自分は、どうにも違和感が拭いきれないでいる
まず、あれはクラシックというジャンルに入るのだろうか、ということ
別にジャンルなんかどうでも良いのだけれど
あれでクラシックといわれてしまうと、
なんだか少し違っている気がしてならない
クラシックはもう少し作者が全身全霊をかけて作っているイメージがあるのだが
この作品はシリアスな内容ではあるが、それほどまでの力を込めて作られた曲ではないように思える
むしろ、フッと浮んだものを作品化した気がする
だから、新井満がボソッと歌っているのを聞いた時
「この方がいいや!」と思ってしまった
それは作者だから良いというのではなく
あの曲はオペラのように声を張り上げ、
多くの聴衆の前で歌う曲ではないように思えるのだ
むしろ少人数、いやたった一人に向かって歌う曲ではないのか
詩自体もメッセージ性はあっても、一気に多数の人間に訴えかけるものではなく
一人一人の心の中に静かに入っていけば良いようなものに思える
メロディーも詩も歌い上げる曲ではないのだ
これはシューベルトとプッチーニの違いのように思える
片方はリートで心の機微を繊細に表現し
片方はドラマティックに熱情、感情を吐露する
どちらがいいというのでなく
そうした違いがあるということで
自分は「千の風になって」はボソッと個人間に伝わればいいと思っている

話は変わって、ジョン・レノンの「イマジン」
これは平和の象徴として歌われるが、この曲は果たして
多く人が一緒に歌うのに適しているのだろうか
メロディーラインはそうではないように思える
この曲も個人的なメッセージなので大げさに歌わない方がいいと思える
大勢で歌うというのはポールの「ヘイ ジュード」みたいな曲だ
歌っていて楽しくなるような曲、効果が上がる曲が多数で歌うには適しているように思うのだ

勿論、音楽はいろんな解釈があっていいのだし
どんな表現をしてもいいのだが、
それでも大きな声で
「私のお墓の、、、、」
なんて歌われるのが変に思えてしまうのは
自分だけなのだろうか?
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またもや銃乱射事件

2007年04月17日 22時08分45秒 | Weblog
またか!
それが朝の米バージニア工科大学の大量射殺事件の一報の感想
アメリカは結局なんだかんだと言って
簡単に銃を持つ事の出来る社会を許容している
ライフル協会の政治献金が馬鹿にならないから銃規制は進まないとか
まことしやかに報道されているが
何を優先すべきかが抜け落ちたところで議論が進んでいるのではないだろうか

こういう類いの話に多数決で決めようとすると
必ずしも好ましい結果が出るとは限らない
少し前の万博も、自然を壊すから反対という人々よりも
万博をする事によって現実に仕事が発生し、
経済的に潤う事が出来る人たちの方が必死になって
運動をして開催された訳だが
自分が見に行ったときはやはり削り取られた山肌が痛々しかった

つまり、アメリカでは銃を作っている人々の
銃規制に反対するパワーの方が
一般の銃規制に賛成する人々よりも
必死さの度合いで大きいのではなかろうか

我が国は秀吉が刀狩りをして以来?
簡単に武器は持てない生活になっているが
それは不公平であっても結果的には良い結果を導いたのだろうか
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訂正!やっぱり調子良くないノートパソコン

2007年04月16日 21時24分44秒 | Weblog
ノートパソコンの調子、やっぱり良くない
昨日は無線LANからケーブルにしてよくなったと思ったのだが
今朝やってみると、あやや、またもや画面がぎらついている

となると1階の部屋だと調子が良くなくなるみたい
2階に持ってきたら回復傾向にあるみたい
どうも解らない
何が原因でそうなるのか
PCチェックというのを試してみると悪いところは無し
悪くなってしまったのなら、ずっと悪ければ物理的に悪くなったのかも
と思うのだが、直ってくるからなおさら解らない

しかし、やっぱり気になるのは電磁波の事
まだ購入してから1年半
もう少し頑張ってもらわねば、もったいなくて
おまけに大事な?ファイルもあるし、、、
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パソコンの調子と地震の関係?

2007年04月15日 21時30分22秒 | Weblog
昨日からノートパソコンの調子が悪い
画面がギラついて起動するときも変な音がする

前にもこんな事があって、サービスショップに持っていったら
その場所では正常に稼働して結局は原因わからず終い

ただ調子の優れなかったその時も能登半島で地震があった
そして今回の調子が悪いのも、もしかして地震があるかも、と予想していたら
三重県中心に震度5の地震(やっぱり!)
まさかパソコンの置いてある位置が地震予知の
心霊スポットでもあるまい(偶然の一致?)

つらつら考えるに、自分のノートパソコンは無線でインターネットと
ルータを通して接続していて、
つまり電波を受信しているのだが、その受信の際に
地震を起こすような地殻の変動による地場の変化、
電磁波が反応してパソコンに悪い影響を与えているのではないか
と思わないでもない

パソコンを1階から2階へ持っていくと異常は少し軽くなるが
まだまだパソコンが途中から動かなくなってしまっている
(バックアップはまだ充分にしていないし、困ったものだ)

それで、もしかして、と思って無線の受信機能をカットして
有線でインターネットに接続を試みると、なんだかよくなったみたい?

さっきまで全然動かなかった画面も動くし、画面のギラツキもない
こんな風に結果が出てみると、案外ピントは外れていない仮説かもしれない

実際、調子の悪くなったのは本当に能登半島地震の前後
しばらくは落ち着いて今までは何ともなかったのが
昨日また急に半端じゃなく変になった

実証できないのでオカルトっぽい話だけれど
誰か実験、研究してみてもいいような事柄に思えるのだが、、、
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