パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「法学の基礎」手に負えない本だと思っていたが、、、

2018年10月30日 09時19分20秒 | 

年をとって仕事を離れ、何もすることがない状況を
悠々自適の生活と判断するか、退屈で毎日が日曜日と感じるかは
人それぞれだが、本質的には横着な人間の自分は、
割合退屈していないというのが現在の姿
(怠惰な生活にあっという間に慣れる自信がある)

生産的でないから使うお金も節約気味
いい車に乗って、いい服を着て、高い酒を飲んで、高価な肉を食べて、いいカメラを持って
いいホテルや旅館に泊まって、豪華な電車旅行や船旅ができなくても
そんなに苦痛は感じない(同居人はどうだかわからないが)

できれば音楽会にちょくちょく行ければいいなとも思うけれど
慣れっこになると演奏の比較ばかりが気になって(それも楽しみ方の一つだが)
音楽を聞く(体験する)新鮮な体験ができなくなるから
度々にしかいかないのは却って良いことだ、、と思い込もうとしている(ところもある)

人はお金を稼ぐ方法はそれほどいろんな方法があるわけではないが、使う方は本当に種々様々だ
そこで自分は何にお金を使っているかと考えると、現実には本というところかも知れない
ショボショボになっているがまだ使える目を酷使する読書が自分を退屈な生活から救ってきている
だがこの一月くらいバイオリズムが低下してきたのか、少しばかり読書モードから離れていた
これは時々あることで、そういう時は軽いミステリーで読書の勢いをつけるのが解決策だった
今回はそうした気分にもなれず、それでも読まない時間が増えてくると不安感に襲われて
思い切ってアマゾンの「欲しいものリスト」に登録しておいた本を買い物がごに入れた

なんとまあ硬そうな本で、昔なら絶対手にしない本だ
だがある時自分がツイッターでフォローしている方のお勧めの本として挙げられていて
最初の一章、二章だけでも読む価値があるとあったので、その言葉を信じてお金を投じた
と言ってもお薦めの本だからといって闇雲に購入したわけではなくて、最近の自分の住む町や国の
政治的・法的なモヤモヤ感が少しは解決するのかな、、と期待したところもあった

法学は素人なので、最初の章だけでもったいないがそれで良しとしようとしたが
読み始めるとこれがなかなか面白い
今まで現実世界で経験したこと、そこで感じたこと、考えたことが法の体系・考え方のなかに
組み込まれていて、なんとまあスッキリと解説されている
(情けないのはそれらを覚えていられなくて直ぐに忘れてしまいそうなことだが
 その時はもう一度読み返せば良いこととしようと自分に言い聞かせている)

本は読むタイミングがある
この本は少なくとも市政の多少なりとも関わって、いろんな疑問を持つようになって、いろんな体験をしたからこそ
リアリティを持って読むことができる
もっとも人が本を選ぶのではなくて、本が人を選ぶみたいなところもあるのも実感としてあるけれど
この本の最初の部分はこんな内容

著者はとりあえず一章と二章を読んでおいて、それからは問題が起きた時、
該当案件に接した時に読み続ければ良いと言うようなことを「はしがき」に述べているが
理解できるかどうかは別として、どうやら最後まで読んでみたい気持ちが強くなってきている
結局は途中で苦しくなって最後のページまで文字を追っただけ
ということになるかも知れないが、その時は、その時
とりあえず、現時点では手に負えない本だと思っていたが、、案外そうではなかった、、という感じ

 




 

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「世界に知ってもらいたい」と言う経験

2018年10月28日 08時53分48秒 | あれこれ考えること

安田純平さん絡みで最近有名になった4コマ漫画がある
学校の教室と思われる場所で、先生と教師の会話
1.何故ジャーナリストはわざわざ危険な場所へ行くのですか?(生徒)
2.誰かが危険な場所で何が起こっているか世界に知らせないといけないだろう
  何が起こっているかわからなければ世界は対策もたてられないからね(教師)
3.みんなは危険な場所で何が起こっているか知りたい(教師)
 シーンとして手を挙げる生徒はいない
4.じゃあ逆に君たちが危険な場所に暮らしているとしたら、世界にそのことを知ってもらいたい人(教師)
 生徒の大半が手を挙げる

この漫画を見た時に思い出したことがある
4コマ目の、世界に知ってもらいたい(他の地区の人に知ってもらいたい)と切に思ったことで
それは2015年の自分の住む町の出来事

この年の5月、新城市では住民投票が行われることになった
案件は新庁舎建設に関することで、庁舎の規模・予算が必要以上に大きすぎないか
身の丈にあった庁舎を建設すべきではないかとの意見と、
分散していた今までの庁舎を一棟集約して利便性の高いものを建設すべきとの意見の相違があった

ところが、住民投票となった投票の選択肢にはなんとも不思議な選択肢が議会で決められた
1.市道東新町桜淵線の路線の変更を伴わない現計画の見直し
2.市道東新町桜淵線の路線の変更を伴う現計画の見直し
このどちらかを選択し投票することになったのだが、一見して何を言っているのかわからない
個人的には庁舎についてはどちらの言い分もあるのだから、市民が選んだほうを実行すれば良いと思っていたが
この選択肢で住民投票を行うことについては強烈な違和感をもった

それで不可思議な間違いやすい、しかも内容のよくわからない選択肢を
わかりやすい間違いの起きないものに変更してもらうように運動、声を挙げたが
それは無視されて粛々と住民投票が行われることになった
この時に感じたことが、漫画の4コマ目のことだ
「世界の人に(他地区の人に)何が起こっているか知ってもらいたい」という思い
この時、実際に自分は他地区の友人(メディア関係の人もいた)にこの惨状(こんな選択肢で住民投票を行うこと)を伝え
なんとか外から自分の町の状況を変えてもらえるように期待した
そしてそれは必死な思いだった(この選択肢で住民投票を行うことは絶対に間違いだと)

結果的にこの選択肢の奇妙さはテレビ・新聞の注目を集め、連日とまではいかなくとも
大きく扱われ、市民全体の関心もアップして住民投票の投票率も予想以上に高いものになった

こうした経過を経験しているから、ジャーナリストが知らないところで何が起きているかを知らせることは
とても重要なことだとの認識がある
本来は自分たちの地区のことは自分たちで解決すべきことなことなのだろうが
残念ながら外からの何らかの力が働かない限り変わらないことは存在するのが現実

人は比較することによって初めて自分たちの考え方がスタンダードかどうかを判断できるようになる
そうして意味も含めて、他を知ること、物事を知ることは必要だし
その役割を果たすジャーナリストの存在は必要だということ
それにしても、あの時自分は本当に必死だった
(どちらの選択肢に投票してほしいというのではなく、こんなので進めて良いのかと)

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あの感覚が好きなんだろうな(ポール・マッカートニーで好きな曲について)

2018年10月27日 07時46分06秒 | ポール・マッカートニー

モーツァルトとかブルックナーの話を人とする時、会話の一つ一つ(例えばどの曲が好き?)で
その人が彼らをどのくらい好きなのかを分かるような気がする時がある
有名なタイトルの付いた曲を好きというのは、確かにタイトルの付いた曲は名作の評価があるので
その気持はわからないではない
でも特に意識的に定番外を探すわけではなくても、あまり有名でない曲をあげる時
その気持わかる、、あの部分、あの感覚が好きなんだな、、
と自分の意識に照らし合わせて妙に納得する

昨日、ポール・マッカートニーのライブに出かける予定のある人と話す機会があった
そこで意地悪するつもりではないが、どのくらい好きなんだろうと興味をもって
ポールの中でどんな曲が好きか?と尋ねてみた
すると、難しいな、、、だが実はちょっとした小曲が好きなんだ、例えばジャンクとか
ユア・マザー・シュッド・ノウとか

あまり有名でないジャンクが出てくるとは、、少し驚いた
でもその気持は分かる
センチメンタルで大したことを歌ってるわけではないけどなんか心に残る曲で自分も好きだ
またユア・マザー・シュッド・ノウは歌いやすくてとても気持ちいい
ポールを好きな人は、こうしたあまり有名でないちょっとした曲を好きかも知れない
(と自分は思いこんでいる)
ポール・マッカートニーが大好きと公言する藤田朋子は「アイ・ウィル」が好きだという
アイ・ウィルってどんな曲?
多くの人はそう思うかも知れないが、自分は、その気持よくわかる
ポールを好きな人はなんとなく納得できる心地よい感覚を得ることができる曲だ

その人との会話ははずんで「レッドロードスピードウェイ」のアルバムことになった
あまり好きではなかったが最近聞き直してみたら、案外良くて見直した(自分)
あれはB面のメドレーのところが良いんだ(その人)
やっぱり同じように感じている、あの感覚が好きなんだ
アビーロードのメドレーほど純度も完成度も高くないけれど、それでも音楽的な楽しみは
あのメドレーの中にも感じられる
(財津和夫のチューリップのアルバム「テイクオフ」にもこのメドレーの発想を採用した部分がある)

音楽を言葉で語ることが難しい
ここの部分が心地よいと言っても、それは万人が感じられるものではない
ところがあるグループは、みんな同じようにその部分を心地よいと思う
その心地よいと感じる感覚は、生まれつきのものなのか、それとも訓練・経験で得られるものか、、

ということで、毒にも薬にもならない話
でも間違いなく、同じように感じているんだろうなと言う実感は間違いないと思ってしまう

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豊川海軍工廠平和公園

2018年10月25日 18時45分34秒 | あれこれ考えること

豊川海軍工廠平和公園に行ってきた
暑さにはめっきり弱く出不精になってきた母が一度は行ってみたい
と言い続けていた場所で、最近過ごしやすくなったので以前からの約束を果たすことにした

1945年8月7日、豊川に空襲があったその日、母は海軍工廠に出かけた
本来ならば休みの番だったそうだが、何かの用事ができてバスででかけた
空爆は工廠に着くや否やすぐさまが始まったのだそうだ
始まると何をするも必死で、まずは防空壕に逃げ込んだ
爆発のすごい音とブルブル震える振動、それに防空壕に土が足首のあたりまで降り掛かってくる
じっとしている不安に耐えきれなくなった母は、思い切ってどこに向かうと知れず防空壕を抜け出した
その時靴は脱げてしまっていたのだそうだ
防空壕から抜け出す時、(横たわった?)誰かの体を踏んだという
助けようにもその時は余裕がなくて必死だった
でもその時の踏んだ感触は忘れられない、、とつらそうに口にする

この日母は何人かの友人を失った
だからその地は母にとって決していい思い出の地ではない
でも何年か前、浅丘ルリ子が主演した「早咲きの花」という映画を見に行った時
海軍工廠の空爆のシーンがあって、それを見た母が一度立ち寄ってみたいというようになっていた

現在は平和公園の海軍工廠の建物は、旧第一火薬庫と旧第三信管置場が見学できるようになっていて
地元のボランティアの方が説明をするようになっている
土塁に囲まれたそれらの厳重に設計・管理された部屋(火薬が湿ってしまわないように、爆発しないように)
それらは機能的であるがゆえになにか非現実の空間のような印象をもたらした
(母が働いてきたのは第二信管置き場で現在は影も形も残っていない)

この非現実的な印象が、一気に現実のものとして感じられ猛烈な怒りを覚えたのが
母が逃げ込んだと思われる防空壕の跡を見たときだ
「防空壕跡」と看板がロープにぶら下がっている
でもそこのどこが安全そうな避難場所だろう
防空壕は名ばかりで、ほんのちょっとだけ掘ってあるだけ、ガイドさんの説明によっても
深さも大したことなく、入り口出口に階段があって、5.6人が腰をかがめて入るくらいだったのだそうだ
そして天蓋があるものや無いものもあるという
何という人命を考慮していない、やっつけの施設なんだろう(冗談じゃない)
そのガイドを聞いていた年配の女性も
これが防空壕の全体?もっと深いところはあるのですか?バカにしてる!信じられない!
の言葉が漏れてくる
この日海軍のお偉いさんは、地下のもっと頑丈で安全なところで身を隠し生き延びひともいたそうだ

悲劇はいつも弱い立場の人のところに降り掛かってくる
どんな大義名分があろうとも実際の被害にあうのはこうした弱い立場の人々
赤紙一枚で戦場に送られ、貧弱な名ばかりの防空壕で我慢せざるを得なくなっている

現在、戦後生まれのお偉いさんが抽象的な危険を煽り、仮に危機的な状況にあるとしても平和裏に解決しようせず、
ただひたすらに自国防衛の名のもとに(他国から見れば危ない兆候と見られるかも知れないのに)軍備を増強している
だがこの人達は、この平和公園で見られた本当の現実を見て何かを感じたのだろうか、、
またネトウヨと言われる人々は、こうした庶民が味わった理不尽な苦労を自分の身に置き換えるという
基本的な想像力を働かせているのだろうか
(彼らの頭の中はロールプレイングゲームのような、実際の痛みや悲しみを体験しない世界で成り立っていないか)

見るのは悲惨すぎて、あえて見る気にはなれない施設のこの豊川海軍工廠跡地
でもアウシュビッツ収容所と同じように、原爆ドームと同じように、また知覧特攻平和公園と同じように
絶対に悲劇を繰り返さないために、忘れやすい人間には、脚を運ぶべき、、と実感した次第

それにしても、あの防空壕、、、言葉が出ない



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人の意見に影響されること(自分を貫くのは難しい?)

2018年10月22日 15時56分34秒 | あれこれ考えること

紙の上に並べて書かれた5センチの黒い線と6センチの赤い線
そのどちらが長いか?を問う実験があった
当たり前のように赤い方を選ぶ人が多かったが
次のような仕掛けをした時、その答えは違ってきたのだそうだ

その仕掛けとは、これこそが実験の肝なのだが、(実際には短い)黒のほうが長い
と答える人を打ち合わせて用意しておいて、(その数は無視できないほどの数)
その答えを実験する人の耳に入るようにしたのだ

そうすると、結果はなんと赤い線が長いのではなく黒のほうが長いと判断する
人がぐんと増えたのだそうだ
「自分は赤のほうが長いと感じていたが、多くの人が黒だという
 もしかしたらみんなが正しくて、自分が勘違いしているのかもしれない、、」
このような心理で自分の意志を変えてしまうと、この実験を行った人物は解釈していたが、
笑えないのはこういうことはありそうだということ

特に答えがはっきり出ないような事柄
善悪、美醜、道徳的なこと、政治的なこと、、どちらかといえば自然法に準ずるような判断の時
人は素直に感じた自分の直感どころか論理さえも、他の多くの人の声を聞くことによって
自らの判断力を疑い、安易な同調に流れてしまう

この実験を日本人、欧米人、アジア人、アフリカ人、中東の人々と比較すると
同じような傾向が見られるかどうかはわからないが、少なくとも日本人には
大いにありそうな傾向だ

となると、自分を信じるとか、自分の全人格的な判断を貫くというのは
実は想像以上に難しいのかもしれない
日本では「長いものには巻かれろ」という諺がある
判断を自分の責任の上で行うより、責任は他人に預けて従うほうが楽で
責任もない、、、そして多分正しいことだと思いたがる、、
でも、この傾向が蔓延すると、少しやばいことになっていきやしないか、、、

特に体制順応型の今どきの若者は、大丈夫か、、、
とついつい言いたくなってしまう昨今!
(自分たちの若い時は、、、、)





 

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気になること(嘘を貫き通す姿勢は何を導くか)

2018年10月21日 08時46分44秒 | あれこれ考えること

サウジアラビア政府はカショギ氏の死は偶発的なものとして
丸く収めようとしているだが、世界は果たしてどう出るか
物事は皇太子とカショギ氏の関係だけでなく、サウジとトルコの関係、トルコとロシアの関係
アメリカとトルコの関係、サウジとイランとの関係、そして貿易的な意味を含めて
サウジとアメリカとの関係が複雑に絡まって本当のことが明らかになされるのは
少しばかり期待薄な感じ

ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」では嘘は嘘で貫き通す
その姿勢と組織のヒエラルキーが、全体主義の運動を実行可能なものにしていると述べている

そんな難しい話は横において、やっぱり同様なことが連想できて気になるのは現在のこの国のこと
嘘は嘘で貫き通して、人事権をもった人間が自由気ままにその権力を行使し
批判的なメディアの存在を少しづつ潰していく、、、と思われような現状(容易に想像できると思われるが)
これは少しばかり想像力を働かすと危なっかしいと感じるが
このようなことは大昔でもあったと思われる

大津皇子の変  
持統天皇のお姉さんの子どもで、天武天皇の子どもで優秀と思われた大津皇子は
あらぬ疑い(謀反)の罪で死罪を命じられ、時間を与えられずに処刑されている
謀反等は後に冤罪と判断された(ている)ようだが、彼が死んでしまえば
草壁皇子の立場を守る持統天皇の目的は果たしている

ある時点での嘘を貫き通してしまえば、世の中は権力者の思うがまま
小市民や大衆の思うことが全面的に正しいとは思わないが、それでも権力者の暴走は恐ろしい
大津皇子本人は自分の運命を薄々感じていたらしく、
万葉集で伊勢神宮の斎宮になった姉の大来皇女との歌のやり取りは
その後の運命を暗示させるような響きがある
(自分はこうした運のない人間に興味とか同情がいってしまう)

残念ながら人というのは同じ間違いを何回でも繰り返してしまうのかもしれない
忘れてはいけないことでも時間が経過すると、自分の身に起こっとことでないのは
リアリティが感じられず想像の世界の出来事になって、過去の過ちを繰り返してしまう
このあまり喜ばしくない傾向が全世界的に一気に進んでいるような気がしてしまうのは
心配性のせいなのだろうか(田舎の小市民があれこれ言っても何にもならないけれど)

日曜日の朝にふさわしくない話題


 

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シーン!という音

2018年10月20日 08時30分53秒 | 徒然なるままに

夜の時間でわざわざ見ようとする唯一のTV番組が「チコちゃんに叱られる」
普段何気なく使っていたり当たり前のようにしていることを
「なんで?」と聞かれて答えられずにいることを、関西のノリの会話で
面白おかしくしているだけでなく、NHKの解説も調子にのって笑いに拍車をかけている

昨晩のテーマの一つは「なぜ静かな時にシーンというのか」だった
確かに静かなシーンの漫画などでは「シーン」の言葉が使われる
もちろん誰も答えられなかったが、答えは「実際にシーンという音がしているから」
ということだった

音という空気の振動を電気信号に変換させる時に、外有毛細胞なる組織が小さな音は大きく
大きなじゃまになる音は小さくするように24時間活動して、静かな時は音を探していて
その時の活動の音が「シーン」と聞こえる音だそうだ

ところで、昔「シーン」という音を聞いたことがある
本当に聞いたのか、そう感じたのかは定かではないが、その時を放言するには
「シーン」の表現しか思い浮かばなかった

そのとき、中学の頃、季節は冬
この頃は空が澄んでいて星がよく見える
星好きな友達に感化されて興味を持ち、天体望遠鏡を買ってもらって
真夜中に外に出て木星の衛星や土星の輪などをみていた
(天文ガイドには木星の衛星の位置が日毎に掲載されていたが、そのとおりだったのがとても不思議だった)

そんなある日、プレアデス星団(スバル)を望遠鏡で覗いていた
最初は目立つななつ星(?)が気になるだけだったが、慣れてくると望遠鏡を通して目に入る星がどんどん増えてくる
それはまるで深海に潜っていくとどんどんいろんなものが見られるようになったのと似ていて
自分がまるでその暗い静かな空間の中に吸い込まれていくようなそんな気がしてきた
そのとき聞こえたのが「シーン」だった
確かにシーンという音がした
それ以外の何ものでもない

この記憶はとても印象に残っていてシーンという音は存在するなどと勝手に思っていたものだから
昨晩の番組にはちょいとびっくりした
ということで、昨日の解説には大いに納得というところ

ところで番組の次の問題、「鏡の左右は反対に映るのに上下は何故反対にならないのか、、」は
「自然界における左と右」という本の導入部に使われていた
この本は自分が読んだ科学関係の本でで12を争う面白い本
それでもう一度読み返したくなったが、、本棚にあるか、、さて

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なぜ今、思い出したのだろう「二十歳の原点」高野悦子

2018年10月19日 10時21分56秒 | 

怖くて読み返せない本がある
その世界にどっぷりと浸かって、自分も同じようなことをしてしまうのではないか
そんな気がしてしまうから
それは高野悦子の「20歳の原点」

手にしたのは大学の入学の頃だったと記憶している
よくわからないまでも心とか感情が揺さぶられた
それで2つ上の姉にも興奮してなにか語りかけたが、姉は大して関心がなさそうで
なぜ、そんなに心を動かされすにいられるのか不思議に思った記憶が残っている

高野悦子さんは自ら命を断った
その理由は、今もわからないかもしれない
でも全体を覆う若い日のトーン「未熟であること」の痛切な生き方は
いま「ボーッと生きてんじゃねーよ」と言われそうな自分らに今一度
何かを感じることを要求しているような気さえする
(なぜ急にこの本のことを思い出したのか)

この本の最後に詩が掲載されている
怖いほどに、感情に訴える
まだ感じる感覚が残っているのかと安心もするが
生き延びてしまっていて申し訳ないような気も、、
読むのが怖いその詩は

 旅に出よう
 テントとシュラフの入ったザックをしょい
 ポケットには一箱の煙草と笛をもち
 旅に出よう

 出発の日は雨がよい
 霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
 萌え出でた若芽がしっかりとぬれながら

 そして富士の山にあるという
 原始林の中にゆこう
 ゆっくりとあせることなく

 大きな杉の古木にきたら
 一層暗いその根本に腰をおろして休もう
 そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して
 暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう

 近代社会の臭いのする その煙を
 古木よ おまえは何と感じるか

 原始林の中にあるという湖をさがそう
 そしてその岸辺にたたずんで
 一本の煙草を喫おう
 煙をすべて吐き出して
 ザックのかたわらで静かに休もう

 原始林を暗やみが包みこむ頃になったら
 湖に小舟をうかべよう

 衣服を脱ぎすて
 すべらかな肌をやみにつつみ
 左手に笛をもって
 湖の水面を暗闇の中に漂いながら
 笛をふこう

 小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中
 中天より涼風を肌に流させながら
 静かに眠ろう

 そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう


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相性

2018年10月18日 19時34分24秒 | あれこれ考えること

世間的に有名だったり評価が高くても、自分にはしっくり来ない演奏(演奏家)はあるものだ
その一つがクラシック音楽の分野ではカール・ベーム
カラヤンと同時代の指揮者でお互いしのぎを削った関係だが、一般受けのカラヤン
通好みのベームみたいな偏った評価が幅を利かしていた時期があった

でもこの頃から、ベームは合わなかった
最初に手に入れたブラームスの一番 ベルリン・フィルのレコードは友達に譲ってしまったし
評価の高いドン・ジョバンニもどうも最後まで聞けていない
合わないものとしていたからそんなにレコードを手にすることはなかったが
中古レコードでてにしたベートーヴェンの序曲集もやっぱりハズレ

とにかく、合わない
聴いていて直ぐに退屈になってしまう
何かが違う、、、
よく考えれば理由はあるのだろうが、なにかしら生理的に合わない感じ

同じようなことは小説家でもある
三島由紀夫はあわない
太宰治も勘弁してくれ、、という気になる
この二人は語り手の人格が見える(感じられる)時、嫌悪感が襲ってきてしまう

世間ではベストセラーが評価されるが、たくさん売れてるからって良いものとは限らないぞ
と偏屈な自分は思ったりする
(ほんと、どうでもいいことだけど)

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そうなのか!(偽証罪に問われないひと)

2018年10月18日 09時39分47秒 | 徒然なるままに

先日偶然見かけたテレビ番組で裁判の証人の話をクイズ形式でやっていた
裁判は偽証してはいけない、正直に知っていることを包み欠かさず話すことを
証人は最初に宣誓する

ところが、実際に経験した裁判の場で明らか原告側と被告側の証言が異なる事態が発生した
明らかに矛盾しているので、どちらが正しいのかそれを追求する何らかの措置を講じるかと思いきや
裁判長は大して問題視せず淡々と話を進めた

そこでクイズ、行政裁判で偽証罪に問われないのは「原告・被告・証人のうち誰か?」という問題だったが
答えは「原告と被告」なんだそうだ
原告や被告はそもそも自分に都合の良い発言(証言)をしがちで、その真偽をいちいち取り扱っていては
時間ばかりが経過して現実的でないとの判断のようだ(ちょいと見ただけなので正確な情報ではないかもしれいが)

それであの時も問題視しなかったのか、、となんとなく納得
裁判は理屈の上で成り立っていると思っていたが、
案外現実的な人間洞察のうえで成り立っているものだ
(それにしても裁判で片がつくなんてことは無いに越したことはないのに)

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