パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

評価について(市の事業の)

2019年02月28日 10時14分14秒 | あれこれ考えること

補助金の申請などには、その事業によって期待される効果とか雇用を
事業前と事業後でどのくらい変化(増加)するのかを数値で表すことが必要とされる
抽象的な言葉による「効果がある」という表現では駄目で、誰もが納得する数字によって
客観的に明らかにされることが必要とされる
そして事業報告書にも実績数値が記述されることになる

この補助金等の審査を行うのが国とか省とか地方自治体
ところが自分たち(国・省・地方自治体)の仕事ぶりを評価する場合は、
この客観的な数字を使ってはいないことが多いのではないか
また仮に数字を使っているとしても、それは少し甘い使い方なのではないか、、と思うことがある

抽象的な話ではなく自分の住むところ(新城市)に限れば、行政が主体となって
進めている事業の評価は、果たして適切なんだろうか、、、ということ
より具体的には、新城市には若者会議というシステムがある
対外的には知られているが、市内においては名前は知っているが実際は何をしているか
また会議の結果何が実行されたのかわからないという人も少なくない
この現実を踏まえて、この事業の評価をするのはどのような判断基準が適切か、、ということが問題になる

一昨年(?)の行政改革報告会(?)だったかには、識者が
「若者会議はどれだけの費用を使い実際にどれだけの金額の効果があったかを、具体的に市民に知らせなければ
 税金の使い方としてはふさわしくないのではないか、、」(コストベネフィット分析が必要)と総括していた
その時の行政の答えが「数字には現れない効果もありますので、、、、」

このような抽象的な評価には、地域自治区制度もある
10箇所に分かれた地域自治区に、活動交付金と地域自治区予算の2つの予算が与えられて、各自治区で独自の使い方が
できるというものだが、これも若者議会と同様にその内容を知っている人は多くない
知っているのは輪番あるいはあて職で区長を経験したことのある人物などの一部
他の人は、このシステムの存在すら知らない(民度の高いと思われる女性会議に参加した人でさえ知らなかった)
そしてこのシステムの評価をする時には(議会で質問されて)どのように説明されるか、、といえば
「過去何年間に500以上の活動交付金事業を行い、、」との実績を述べて、それで上手く回っていると言い切りたい感じ
ところがそのように簡単に言い切れないことが起きてしまった
それが活動交付金の不正受給事件で、手続き上の正規な手続きを経ずとも交付金を支給された団体(個人)があり
その活動の主だった人物が議員であったために、政治倫理審査会まで開かれ、議員辞職勧告まで議決されることになり
一旦支払われた交付金も取り消し、返却を求められることになった
今回はこのような事があったために、単純に今までの実勢数を紹介するだけではこの事業(システム)の評価軸とはならない

また新城市には「市民まちづくり集会」というものが一年で一回以上行われることになっている
これは自治基本条例で、議会・行政・市民の三者が力を合わせてまちづくりをするために情報共有の機会を持つために設ける
となっている
この「市民まちづくり集会」の評価が、どうなのか、、と気になるところだが、現実を見ると実行委員会の方々の苦労とか
努力には頭が下がるが、参加者、会議の内容ともに、とても成功しているとは思えない

上記3つの事柄は、自分たち(行政)の検証が極めて甘いのではないか、、
あるいは、その評価基準があまりにも曖昧なのではないか、、ということだ

行政の方々は経緯を知っているから、前と比べれば今はマシ、と考えるかもしれない
「市民まちづくり集会」などというものが存在しなかったときと比べれば、
今は参加者が少ないとしても好ましい状況になっている、、と
ところが過去の経緯を知らず現時点での印象で評価をするものは、これを全く良しとしない

果たしてどちらが(経緯を知っている人、知らない人)正しいか、、、
どちらの評価を重要視すべきか、、
文句言いの自分としては、現状の把握はもう少し厳しい目で見るべきじゃないか、、との方
確かに数字に現れない効果はあるかもしれない、、でもそれをなんとか数値化して表す工夫・知恵も必要と思うけどな

ということで、面倒くさい話、、やれやれ

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似たようなことが起きている

2019年02月27日 08時40分17秒 | 庁舎用地外移転補償騒動

世の中には似たようなことがいたるところで起きてる
経験的には一つの出来事があれば、世界中で同じことが起きているということで
例えば連休の交通渋滞を避けるために早く行動を開始しようと一人が考えると
同じように考える人がバカにならないくらい多いということ

統計の世界では一部の抽出データで、ある程度の信頼度をもって予想できるとしている
工業製品の不良率は一部を抜き出して検査すれば、そこで出た不良率は全体の不良率とほぼ等しい
と統計学的にはされている
最近の厚労省の統計不正の関するドタバタは、この抽出調査の方法について抜き出すサンプルが
どうも政府にとって都合のよい方法に変えられているのではないか、、との疑いが起きたことで
実際のところ、統計の技術的なことを話し合うセクションでは、問題はあるかもしれないが、
当分は以前のままの、サンプル全部入れ換えがふさわしいと報告書を出していたにもかかわらず
その後では、何故かその結論が後退するような成り行き(部分入れ替えも検討)になっていたメールが
見つかって紛糾しているということ

一度出した結論(報告書)が、何故か変わっている、、
実はこれと似たようなことが地元の新城市でもかつて起きていた
(この部分が、世の中には似たようなことが起きているという点だが)
少しばかりくどい話になるが、新城市は庁舎建て替えの際、庁舎建設予定地に住んでいた方々に
移転してもらうために移転補償費を払うことになった
これは当たり前のことで問題はない
ところが、ある時、飛び地となっている物件にも移転補償も支払うことになった
普通はありえないことで、何故市はそのような判断をするに至ったかと尋ねると(市議会の一般質問)
コンサルタント会社の意見を参考にした判断だという
コンサルタント会社は飛び地になっている家は、庁舎予定地で移転することになっている方の持ち家で
そこには家族が住んでおり建設用地内の家と行き来して生活が一体化しているから、
その家族の生活を守るためには一括して移転補償費を払いのが適切との報告書を出してきた というのだ

ところが、ここからが統計のドタバタとよく似てるが、実はこのコンサルタント会社は市にこの報告書を出す前に
全く反対の内容の(中間)報告書を出している(メールで)
そこには、生活は一体化していない、、だから、移転報償費は払うのが適切ではない、、といったニュアンスが込められていた
生活が一体化する条件として、その飛び地の住人が住んで行き来していることが条件になるが
調べてみるとそこには人は住んでいなかった
またその家の写真を見ると、おそらく誰もがすぐにここには住んでいないだろうと思われるような乱雑ぶり
それが、ある時から全く別の方向に変わってしまった

この不思議な経緯に疑問が生じ、その後住民監査請求、行政裁判とつながるわけだが
裁判ではコンサルタント会社が途中に提出した報告書は怪文書ではなく、ちゃんと証拠の一つとして扱われている

裁判の行方は気になるが、今日のテーマは似たようなことが起きているということで
この移転補償に関する別の話題もある事件とよく似ている
それは神風が吹いた、、と籠池さんが口にした森友学園事件
ある時からあれよあれよと加速度的に籠池さんにとって都合のよい方向に物事が進んだが
新城でもある人物にとって、とても都合の良いように(建てられない土地に家が建てられるように)
あれよあれよとものごとが進んでいった
(市はその一つ一つには正当な理由があって適切に判断の上行っているというが
 トータルで考えると、一気にそのようなことが行われるのはとても不自然)
この経緯を辿っていくと、状況証拠との言葉が浮かんでくる
当事者(市と土地所有者)からの言葉はないが、客観的に見ていくと「怪しい」と思われても
仕方のないようなことがオンパレードなのだ
(この細かいことは以前にここでアップした)

またもう一つ似ている事件を思い出した
それは沖縄の県民投票から連想されることで、新城市の住民投票のこと
沖縄は何億もかけて県民投票をした価値がない、、とあるメディアは報じているが
新城市でも当初2000万円もかけて住民投票をする価値がないとの批判をした人たちがいた
似たような話はこれだけでなく、その結果についても「法的拘束力はない」とか
住民投票に参加しなかった人の意見も考えなければならない、、とか
今回の沖縄の県民投票後に出てきた問題が、あのときも頭を悩ますことになった
そして絶対投票数のこと、沖縄では全有権者の四分の一以上で政府やアメリカにその結果を伝えるとあったが
新城市でも住民投票が行われる前に、見直しの賛否の結果が出たとしても、絶対投票数が少ない場合
(投票率が低いなかで行政案が否決されても、住民全体からすると多くない場合)
住民投票結果を守るか、、どうかは、、、、

結局のところ、投票率は不思議なことに今回の沖縄と似たような数字だったと記憶してる
まさかこれまで似たようなことが起きる、、、ということではないだろうが
ホント、世の中はいたるところで似たようなことが起きているということ

ところで国会でも市議会でも裁判でも、絶対本当のことを言わないと覚悟している人に
本当のことを言えと強制しても無駄なのはよくあること
(行政裁判では原告・被告は事実と違うことを言っても偽証罪にならないらしい)
物事に対して、自白を求める限界というのはあるものだ、、、と何時も思ってしまう

ということで、ちょいとくどいかもしれないが間もなく結論がでる出来事と関連して
ダラダラとアップしてみた






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100分de名著(大衆の反逆)を見て

2019年02月26日 09時30分00秒 | あれこれ考えること

民主主義は合意形成のステップが肝心、、との話が
昨日の国会とNHKテレビの「100分de名著」オルテガの「大衆の反逆」でも出てきた
概念的にはこれはその通りだ
しかし、問題は実際の現場とか運用となると、これがとんでもなく難しいことになってしまいそう

内容がじっくり話し合われることが必須となるのだが、残念ながら現在は
そのステップを踏んだという事実のみが、内容も深く検討されたとの証となっている
お役人がよく使う「適切に」の言葉は「ステップを規定通りに踏んでいる」との意味で
内容そのものの評価ではないことが多い
(地元の例では庁舎建設についてのことや新城八名地区の産廃業の操業認可などで)

いきなり結論めくが、人の考えること(システム)は何時もどこかに欠陥がある
最初に考えたとおりにはなかなか物事は進行しない
それどころか、予想もしなかった結論を導き出すことさえある
(ナチスは正式な手続きによって政権を把握したことなど)

人は完璧なものを考ええない(間違いを犯す)というのが根本となっている考え方が保守
理性のみを楽観的に信じて急激な改革を進めようとする改革への対立概念で
チェスタトンは理性のみを信じるのは狂気とも決めつけている
人は間違いを起こす不完全な存在、、だから時点での理性的な判断だけで物事を決めて良いのか
人が試行錯誤でいろいろ共通の知恵としてきた慣習や伝統をより良い判断の材料として
急激な変化をするのではなく、緩やかな変化をしたほうが現実的との考え方が保守
しかし、現在の日本は若干これとは違って保守という言葉を使っているようだ
「伝統回帰主義者」昔は良かった、、、と考える人が保守のように思われている
実際は「昔の人間も間違いを起こす不完全な人間たち」なので、その当時もより良きものを求めて
試行錯誤をしているのだから、伝統は大事にするが、守ってばかりではなく
徐々に変えていくのが真の保守主義者というところだが、日本ではどうもそこまでの理解ではなさそう

西部さんは「大衆への反逆」で、大衆の批判がタブー視されつつある空気を問題視している
これは少しニュアンスが違うが地元新城の「若者議会」に対する批判ができにくい空気・雰囲気と似てるかもしれない

以上は「100分de名著」オルテガの「大衆の反逆」を見て、刺激されてつらつら思ったこと
しかし、このシリースの解説に「エリート」の言葉が一度も出てこなかったのは、少し物足りないな
これは案外重要な概念だと思うのだが

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終わった感じがするのはフルトヴェングラーの演奏

2019年02月24日 09時22分07秒 | 音楽

秋になると聞きたくなる曲(クラシック部門)という調査があると
なぜか上位を占めるのがブラームスの交響曲第4番
晩年の作品で、寂寥感を感じさせる音楽というだけでは説明がつかない
万人をそう思わせる何かがある

録音媒体を通じてしか体験できない田舎の人間は、
この曲を高校時代にカラヤンの指揮(ベルリン・フィル)のもので聴いた
全く同時期にマーラーの9番の交響曲もバーンスタインの指揮(ニューヨークフィル)
のレコードを手に入れた

当時はマーラーの方を繰り返し聴いた
特にベルクが高評価した一楽章を、気分の変化の多い感情の爆発のような音楽が
高校生のエネルギーに満ちた生理的なものとマッチしてとても好ましく思われた
一方ブラームスの方は最初の楽章の少しセンチメンタルな主題のせいもあって
どこかなよなよとして、言いたいことがストレートに出ていないもどかしさを感じたりして
男らしくない、、とまで感じてそれほど頻繁に聴いたわけではなかった

ところが最近はレコードやCDを取り出して聞く回数は全く違ってきている
そしてその理由も高校時代とは反対の理由で、昔は肯定的に思われた感情表現の爆発が
今では少し恥ずかしいとか、ストレートに表すものではないとか、もう少し抑える方が良いとか
そんなふうに感じるようになっていて、ブラームスの古典的な様式の中に密かに込められた思いのほうが
上品で、いろいろ経験してきた身にはしっくり来るような気がしている
そしてこれは、源氏物語で交わされる歌の評価とも似たところがある
つまりあまりにもストレートな表現は少し下品で、、好ましくないように思えてしまうのだ

音楽は感情表現のひとつだが、感情の面が表に出すぎると、情に訴えてわかりやすいかもしれないが
最近はどこか引いてしまうところがある
チャイコフスキーの音楽とかシューベルトの晩年のピアノソナタは、聴いてるその時は良いかもしれないが
あとで少し恥ずかしい気がしてならない

人生を重ねるうちにいろいろ感じ方や好みも変わってくると実感するのだが
このブラームスの4番の交響曲は、変奏曲形式の第4楽章がとても変な終わり方をする
それは「終わった感じがしない」と感じることで、何度か聞くうちには多少なれたが
それでも何時もどこか中途半端な終わり方だな、、と思っていた
これは自分だけの感じ方ではなくてコンサートを主催する立場になっていた知り合いも
この曲の終わり方は変だとこぼしていた

しかしこれも何故だかわからないが、フルトヴェングラーの指揮する音楽だけは終わったと感じる
それは必然の流れ、終わり方、、と感じる
音楽を聞くということは耳を通して受動的に感じているのだが、フルトヴェングラーの場合は
聴いている音をきっかけにして頭の中でその音楽に参加しているような気分になることが多い
フルトヴェングラーは音楽は聴衆との共同作業との言葉もあるが、
録音媒体を通してでも音楽への参加を感じさせるような、、音楽を聞いていると言うより
何かを体験したという感じが聞き終わったあと残る

ということで、やっぱり不思議な指揮者のフルトヴェングラー
それにしても、何故彼の演奏だけ終わった気がするのか、、、不思議だ

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ストーリー以外で気になること(源氏物語で)

2019年02月23日 08時36分22秒 | Weblog

現代語訳の源氏物語を楽しんでいるが、当たり前だが現代と随分違っていることが多い
まずは結婚の形式としては、通婚(かよいこん)
これはある程度知られた話だが、それに至る過程がなかなか面白い
女性は昼中に自分の姿を見られることを良しとしない(御簾で隠している)
ちらっと見た男は、歌を詠んで女性に渡す(周辺の女性を通じて)
歌を渡された女性は返事をする(本人の場合と周辺の女性が代わりに詠うこともあり)
そうしてやり取りをした後、合意すればことに至る
その行為は随分暗いところでなされるようで、明るくなってよく顔を見たら
案外、、、だったなどという記述がある(末摘花・夕顔)

しかし、順調に行くときばかりではなくて、これが小説の中だけのことなのか
実際によくあったのか知らないが半ば強姦のようなことが行われる
(これが後半の悲劇的な物語のきっかけにもなるが)
ことに至った後、薄暗いうちに男は女の家から出ることになるが、それからも
歌を送る続けるのが常識とされているようだ
つまりは歌の素養・センスが無いとなかなか好ましい結果には至ることができない
(この選別の方法は、当てが外れる事のない様にするためには現実的な方法かもしれない)

光源氏といえば浮気とかプレイボーイの代表とされるが
この時期はイスラム諸国に見られるような一夫多妻制で、ここが光源氏の偉いところだが
関係のあった女性にはみんなそれなりの対応をしている
よく見たらちょっとブスだった末散花、歳を重ねて魅力が無くなってきたが日常生活の
知恵とか技術がしっかりしていて気が楽な花散里
浮気相手(明石の上)の子供を我が子のように可愛がる紫の上、、、
それそれが嫉妬心を抱えながらも仕方ないと諦めて暮らす
中には嫉妬から逃れられずに怨霊となった六条の御息所もいたが、これは小説的な登場人物

最初はこのようなことが気になっていたが、そのうち別のことが気になりだした
一つは度々登場する「宿命」という言葉
誰かと誰かが結ばれるもの、好ましくない運命に至るもの「縁」と言われるものから結果で
「宿命」は仕方ない、、という考え方
これは仏教的な考え方かもしれないが、どうやらこの時代は想像以上に仏教が大きな力を持っていたようだ
出家をした人(藤壺、朱雀院)したがる人(光源氏・紫の上)など、終活は仏教というところなのだろうか

またこの時代は医学・科学が進んでいないので、体調を崩した人には加持祈祷で平癒を期待するようだ
そんなもの当てにならない、、というのが現代人の発想(ドーキンスは祈りなど全く意味がないとしている)だが、
あの時代は真剣に効果があると思われていたのかもしれない
(加持祈祷が頻繁に行われていた様子は枕草子にも書かれていた、その中で読経をする人がイケメンだと嬉しいとか
 途中で眠くなって船を漕いでる人がいるとか、そんなエピソードの章がある)
話は飛ぶが雨乞いの祈祷で効果があったのは空海と安倍晴明の二人だったとの説もある

こうした生活感の違いが面白いが、物語の中盤を過ぎて性格描写が多くなって感情移入しやすくなった
源氏物語は、女性の書いた物語だな、、と感じる
それは諸田玲子の「姦婦にあらず」を読んだときも不意に襲ってきた感覚だが、髙樹のぶ子の作品でも
そんなふうに感じることがある
(反対に男っぽいなと言うのは小説ではないが音楽でアントン・ブルックナーの作品が挙げられる
 これは男しかわからない世界に違いないと何時も思ってしまう)

他にもいろいろ気づく点があって思いの外楽しめている状況
全部読み終えたら解説本でおさらいをして、それからこの時代の歴史の本を読むとすんなり頭に入っていくかもしれない

それにしても、この時代の人はすぐ泣く  
男は泣いちゃいけない、、となったのは、いつ頃からなんだろうか、、と気になりだした



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話をまとめる人、進める人

2019年02月22日 08時23分00秒 | あれこれ考えること

いつもの独断と偏見に満ちた話

諮問会議とパブリックコメントは行政のアリバイ作りとの考えがある
実際のところ、ある計画のパブリックコメントを求められたとしても
現状分析、ついであるべき姿が記述されていたとすると、あまりにも当たり前の事柄で
その手の議論になれていない人には口を挟みにくい
仮にできたとしても「てにをは」の使用の間違いとか変更を指摘するくらい

抽象的な話題について識者に意見を求めることはよくあることだ
識者は自分の専門とする分野については自らの知識・経験を踏まえて説得力のある話を発言できる
しかし、その会議が専門家同士の話ではなく多方面の識者が集まる場合は、前提となる知識が異なるので
いざ同じテーマについて話し合うというのは案外難しい

抽象的な問題を数の限られた会議で答えを出すには、会議の無駄のない進め方、論点の整理が必要となる
この会議の進め方に関して最初に論点整理とかレジュメが与えれることになるが
果たしてそれがふさわしいものか、、もしかしたら恣意的な要素が込められていないか、、と考えてしまうことがある

実際のところ抽象的な問いに対する会議は、誰もがどのように進めるのが適切かわかりにくい
ところが、どうやらいろんな会議には「お手本」となる進め方があるようだ
進め方のみならず会議の報告書についても、一定の形式・筋立てがあってそれに従えばそれなりの形で終えられる
このまとめ役が誰になるかが、実は大きな要素となる

諮問された事柄に対する報告書
それを誰が書くか、、
人は同じ空間にいて同じ話を聞いていても感じ方は違うことがある
ある現場で熱のこもった議論を誰かがまとめる
そして第三者に対して報告するのだが、一般的にはこの報告の仕方・内容で良いかどうかを
会議の参加者に事前に閲覧してもらい了承を受けることになる
まとめられた報告書はどこか不足部分を感じながらも、実生活に関わりのないことなら
そんなものだろうと緩い判断を下すことになる

ところが話があちこちに飛んだ場合には論点整理をして一応整った形にするにはかなりの事務的な能力が必要とされる
要約筆記という言葉があるらしいが、世の中にはいろんな能力の人がいるもので、その人は多方面に散らばった話し合いも
ある概念のもとのものに整理・区分けしてスッキリしたものにできる
ところがこのような人の存在は稀有なもので普通はどこにでもいるわけではない
とすると、まとめ方はある定まった形式によるものか、ただただ議事録の羅列とか
あるいは、その能力があるだろうと想像される肩書をもった人に依頼することになる
ところが、この肩書をもった存在の人は、本当に第三者的な視点で物事を見られるか、、
というのが、細かい話だが気になる

これは現在進行中の国会の統計不正についても見直しの云々等は、専門家の技術的な問題だけでなく
ある方向性をもった会議の進め方というだけである種の意思を感じることになる

つまりは一般人が簡単に想像できないような抽象的な問題についての会議(の報告)は
その会議が行われる最初の段階と最後の段階で、わりあい都合よくまとめられてしまうかもしれない
だからこそアリバイ作りとの声が出てしまうのだが、、

抽象的な話は進めにくいが、抽象的なこのような物言いは更にわかりにくい、、
ということになるのだろうが、あまりにも具体的に記述すると少し問題があるので敢えて
それとなく、、、

諮問される第三者機関と言われる組織は、その構成メンバー構成に偏りがないかとか
メンバーが依頼主と金銭的に無関係か、、といったところが肝心となりそう
だがこうした諮問会議は普通の人には関心の外にある
それ故、どんな内容でもあまり気にならないことになる
そしてキチンとステップを踏んで適切に行なった、、という表現になりそうなのだが
これでいいのかな、、、というのが今回のポイント
(しかし、面倒な話は関心がない気持ちもわかるし、、、)



 

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見て見ぬふり(あるいは無関心層)

2019年02月20日 08時27分21秒 | あれこれ考えること

最近の芳しくないニュースの原因は「見て見ぬふり」をしている人の存在
千葉県野田市の小学生虐待死については学校・児童相談所・教育委員会
政府の統計不正については官僚さんの、そしてレオパレスでは実際に携わっていた人たち
彼らはみんな知っていたのに見て見ぬふりをしていた
それが極論とするなら大した問題ではないと錯覚していた

こうした無責任な行動をした人達を外から批判するのはたやすい
怒りを口にしていれば、ニュースの傍観者はストレス解消できたような気持ちになる
しかし、オルテガが大衆と名付けた一般の人たち(ニュースの傍観者)は同様に「見て見ぬふり」をしていないか

この見て見ぬふりをする存在は、無関心層と一致するかもしれない
無関心で本当に知らなかったから見て見ぬふりをしていたのではないと反論があるかもしれない
仮にそれが本当だとしたら、この何も知らない人(大衆)になにか重大な決定を委ねる権利(例えば選挙権)を
与えるのは正しいことか(将来にとって有益なことか)は少し疑問が生じる

知らないことに対して判断を要求される、しかし、その内容が複雑な場合
人はわかりやすい例えとか単純化された説明をそれが全てと思い込むそして、自らの権利を実行する

大衆は、あるいは民衆は正しい(後の世界でふさわしいとされた)判断を行えるか
大枠の人の直感は割合正しくて、無意識的に適切な選択をするだろうとする楽観的な考え方もあるが
感情・空気に左右されやすい人々はとんでもない間違いを起こす可能性があるとの考え方もある

つまりは当たり前のように存在している今の社会システムは、案外微妙なバランスで成り立っている

こんなふうに一種民主主義の否定するような思いに至っているのは、最近の国のせいだ
一昨年の森友・加計学園、南スーダン日報問題、公文書改ざん問題、辺野古埋め立ての土砂の問題
サンゴ移植の問題、そして今回の統計不正、いずれも重大な事件が存在するにもかかわらず
内閣支持率はさほど下がっていないという実態に少し違和感と疑問を感じるからだ

そもそも内閣支持率が新聞ごとに要求される数字を反映していて、それ自体に問題があるとか
母集団の選択に恣意的なものはないかとか考えられているが、もっと大きな問題は
何があっても心を動かさない無関心な見て見ぬふりをする人たちの存在

ハンナ・アーレントは全体主義の起源のなかで、全体主義運動は無関心層の存在によって達成される
と緻密な検証から報告している
どうしても存在するこの無関心層が、大事な問題を決める権限を持って良いものか、、
いつまで経ってもクリアできない問題として気にかかっている

これはオルテガとか西部さんの影響かな、、きっとそうだろうけど、、

 

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ベストセラー・ベスト盤を購入する人

2019年02月19日 10時31分31秒 | 徒然なるままに

自分はベストセラーの本を購入するタイプではない
同様に難解な本でも、理解できるかどうかは別にして
解説本よりもまずは原典を読みたいタイプ
また音楽もベスト盤を購入することも少ない

果たして本好きと言われる人、音楽好きと言われる人は
ベストセラーとかベスト盤を購入するのだろうか、、

確かにベストセラーやベスト盤は、(最初の)選択に対する良い指標になる
でも、自分はそれ以上の選択基準があるようだ
それは「なんとなく」とか「じわじわ湧いてきた感覚」とか
フト目にしたきっかけだとか、、、
つまりは外的な要因はあまりない

本棚を見ればその人の人間性が、CD棚を見ればその人のセンス(感性)がわかると言われる
だからこそある時、人柄を知るためにおすすめの本を三冊挙げてほしいとの質問を考えたことがあった
(3人の人間性を比較する必要があった場面で)

ベストセラーを購入する人は、それを楽しむというよりは、多くの人の中のひとりとして
今の時代に遅れないでいられるという安心感のほうが大きいのではないかと思ってしまう
(現代人は孤独とオルテガなら言いそうかも)

今年になって読み始めた源氏物語(現代語訳 瀬戸内寂聴さん訳)も
クライマックスシーンの若菜(上)、若菜(下)を過ぎた
登場人物への感情移入もしやすくなってきたが、困るのは一晩寝るとどういう人間関係だったのか怪しくなっていること
(最後のページに人間関係の図があるので、何度も見返すことになっているが助かる)
源氏物語はベストセラーだから読み始めたのではなく、内的な衝動から、、

源氏物語が世界のベストセラーとして、今も読まれているのは納得できる
ホント、なかなか面白い

 

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後から思うこと

2019年02月18日 08時40分40秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

経済とか政治の世界は何が正しいか明確には決められない
それがあるとすれば結果で判断するしかない
自分の住む新城市でも、このことをつい考えてしまう事柄がある
(偏見と独断だけれど)

いろいろあった新市庁舎ができて10ヶ月
そこに行って驚くのは「案外広々としている」という実感
特に2階より上は全くギュウギュウという感覚はない
(というより、通路側はスカスカしている)
そこで思うのはこの広さが本当に必要だったのか、、という考え方
内覧会で見せてもらった市長室・副市長室・教育委員長室はコンパクトにまとまっているというよりは、かなりスペースに余裕がある
少し豪華な机と椅子、その後ろに本棚のようなもの、床はカーペットが敷き詰められフカフカとしている
内覧会の時に感じたのはこの部屋の主は、どのくらいの時間をこの部屋で過ごすのだろうという疑問
デスクワークをするだけだったらこれほどの広さはいらないと小市民は思ってしまうし
仮に在室時間が少ないなら、やはりこの広さは無駄になってしまう、、

この広さの基準となると思われるのが起債を起こすときの計算式で住民投票のときに調べたが、
職員一人あたりの所有面積は基本となる数字が決まっていて、職員の階級が上がるごとに基本となる面積に係数が掛けられる
例えば新人が1とすれば、係長は1.2倍、課長は2倍、部長は5倍の面積を所有すると計算する
(この数字は市の人口が5万人以上と以下では係数が違う、市の説明は新城市が5万人以下にもかかわらず
係数の大きな5万人以上の数字を使って市民に説明した)
この係数の応じて市長室・副市長室・教育委員長室の面積が計算されたのだろうが
そのような計算式はあるとしても、それが現実的か、、というのはかなり疑問を感じる
実際のところ、行政に新城市の人口は5万人以下なのに何故係数の大きい5万人以上のケースを用いたのかと聞いたことがあったが
その面積の根拠になる考え方は現在使っていなくて、各自治体が各々必要とする面積を考えれば良いとされているので
最終的には独自判断で行ったのだと答えた
独自判断の結果があの面積か、、、とモヤモヤした気持ちは晴れない

新庁舎を建設する時には庁舎にどのような機能をもたせるか(期待するか)との検討がなされ、その答えを反映するように計画されたようだ
その中で違和感を持ったのが「庁舎は皆が集まるところ」みたいな表現(だからそのようなスペース・装備が必要とされた)
果たして市民はそんなことを庁舎に求めているのだろうか
その当時のアンケートでは市民が庁舎に来る用件は
戸籍や住民票、印鑑登録に関すること78.5%、国民健康保険・国民年金に関すること32.4%
税金に関すること21.8%、福祉に関すること18.1%  と出ていて
庁舎に滞在する時間もそれほど大きないと思われる
それよりもそもそも市民はどのくらい庁舎に訪れるか、、が知りたくなるが、
試しに知人に庁舎に最近行ったことがあるかと尋ねると、ほとんどいかない、、との答え
これは複数の人も似たような答えで、おそらく大半はそうだろう
新城市は人口は少ないが面積が広い
この広い地域からコンセプトが「庁舎は皆が集まるところ」とされても、それは現実的か疑問に思えて仕方ない
多くの計画がコンセプトが建てられて、それから具体的な各論とか実施計画に降ろされるが
この重要なコンセプが実は現実を反映していないのではないか、、というのが自分の思う問題点
そもそもコンセプト自体があったら良いなとかどうあるべきを考慮しているものの、肝心な予算・経費の視点が抜けている
財政が豊かならば問題はないが、残念ながらそんな訳にはいかない
ならば現実的には予算の枠を大きく決めて、その中で実現できそうな(優先順位を決めて)コンセプトなり計画を
作成・実施するような段階を踏むべきと思うのだが、、

何故今の時点でこんなことを取り上げたかといえば、一つは鳳来支所の建て替えで
またもやこのような一見正しそうだが現実的ではなさそうな計画が
進められるのではないかといった不安があるからだ
ただ作手地区に立派なものができて、新城地区に庁舎ができた、鳳来地区にだってそれなりのものが欲しい
という地元の方々の気持ち・感情はわからないでもない
つくづく思うのは、希望とか夢ではなくて現実を見据えた上での計画を実行してほしいということ
コンセプトさえもあとから考えると甘いものだった、、とならないように

後から考えると首を傾げることのもう一つは、2015年に行われた住民投票に関すること
新城市には議会の議決によらず住民投票を行うことできる常設型の住民投票条例がある
ところが、この条例はその下に規則というのがあって、実際の運用などはこの規則に従う
この規則が曲者で、住民投票を求めたい人は所定の書式に従って書類を市に提出すると
次は「市民自治会議」をいう諮問機関で住民投票をするに値するか、値しないかを討論されることになっている
住民投票するに値しない、、とそこで結論を出されると、住民投票はできなくなる

2015年の住民投票はこの常設型の条例を使ったものではなかった
実際の経過は省くが、当初はこの条例を利用して行う予定だった
だが第一関門の「市民自治会義」で躓いた
この市民自治会議が、非公開で行われ時間がかかり、その答申が曖昧なものだった
あとになって、(今の段階で)この答申を読むと、市民の代表とされた市民自治会議の方々の
現状認識がかなり偏っている感じが見受けられる(両論併記となったが)
住民投票は庁舎の規模のみならず財政に関わることで市全体にも影響すると思われるのに大した問題ではないとの発言があったり、
住民間で盛り上がりは無いとか、市民間に意見の相違は無いだとか
庁舎問題は先の市長選の争点で結論が出ているので今更あえて行う必要はないとか、、、
一番の問題はこの市民自治会議のメンバーは庁舎の対案を出すことになった人たちの説明会やら
議会への傍聴にでかけたか、その時点の空気を読む気持ちがあったかどうか、、という点だ

結果的に言えばこのときの市民自治会議のメンバーの判断は、その後の住民投票の盛り上がりを思うと
ほとんど外れていた、、と言わざるを得ない
未来のことはわからないから、その時点での判断は仕方ないのか、、
といえば、それだけではなさそうな要素もありそう!とへそ曲がりは考えてしまう
この市民自治会議はその存在自体が市長の諮問機関
その諮問機関が純粋に第三者機関として、市長にも都合の悪い話(市長案を否定するような住民投票)を
公平に判断できるのだろうかとの疑問がすぐに湧いてしまう
そしてこの疑いの気持がそのまま反映されたのが先の答申とひねくれ者は想像してしまったわけだ

後になってしかわからないことはある
だからこそ、検証作業は必要なんだろうが、最近地方も国も詭弁と思われる言い回しで
その時だけを逃げ回るようなことが続いている(と思う)

先日、住民投票を振り返る機会があったので、こんなことが頭に浮かんできた





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詐欺メールに注意

2019年02月17日 09時42分49秒 | 徒然なるままに

いかにも怪しそうなメールが届いていた

早速調べたところ、これは詐欺のメールのようです
アマゾンを語っていますが、差出人のアドレスが公式のものとは全然違っています
こんなのが来たらご注意を!

詐欺の手口も段々巧妙になってきています
お互い気をつけましょう

アマゾンからの連絡かどうかの識別はこちら⇒アマゾンヘルプ

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