パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「なぜ、子どもはあのような絵を描くのか」

2024年08月31日 09時38分18秒 | 

今回のノロノロ台風は雨台風
今日も新城市には大雨警報が出ている
自宅付近ではさほど大雨の印象は無いが
この数日で宇連ダムの貯水率が11%台から50%超えとなっているから
やはり相当降っていると考えるほうが妥当だ

新城と言っても中心部と鳳来地区、作手地区と気象条件が違う
数字が発表される観測所はいったいどこだろう
きっと自宅から遠いに違いないと勝手に思い込んでいた
ところが調べてみると場所は冨永で、自宅から1.5キロくらいのところ
子供の頃、川遊びに通った場所だった

すると、数字と実感との違いが気になってしまう
実感は信用できない怪しいものなのか、
それとも馬の背を分ける雨の降り方のせいなのか
いずれにせよ、今日も雨模様だ
晴れは飽きることはないが、雨は数日で飽きてしまう

先日、新聞広告に掲載されていた本をざっと読んだ

いつも思うことだが、子供の絵はどこか迫力がある
ただ単に、上手く使えない手で鉛筆をもって右左したり
丸を描こうとしているだけなのに、それは確かに何かを訴えているような気を起こさせる

姪が時々、お兄ちゃんと3歳の女の子を連れてやってくる
始めは慣れずに不安そうな顔をしていたちびっこも
最近はいつもの場所に置いてある貯金箱を持ち出して
お金を出したり入れたりして遊んでいる
また2階に行って無双窓を開けて母親に嬉しそうに声をかける
お兄ちゃんと二人で、部屋中を走り回るのは相変わらずだ

先日は絵を描きたいから、あるようなら鉛筆を貸して欲しいと姪が言った
幸い色鉛筆があったのでそれを出して、紙はプリンターで使用するA4の紙を渡した

ピンクの色鉛筆を持って彼女は右から左へと線を引く
何回か同じことをして、その線はバラバラでそれだけだ
次に丸を描こうとする
大きな丸できっちり閉じていないがそんなことはお構いなしだ
それを描くと、その紙は用無しになって次の白紙に向かう

一番偉いのは一番年齢の低い子だから、彼女の要求通りに白紙を渡す
また同じことを繰り返す
何かを描こうとしているのか、ただの運動なのか

しばらくして丸い図形をさしてお母さんといった
もう一つの丸は別の人物だと宣言する
この本には、子供の絵には丸から脚が出ている人間が描かれることがある
と紹介されていたが、それが見られた

少し昔の話だがある時、子どもが描いたお父さん、お母さん、お姉ちゃん
自分自身の絵を見比べる機会があった
丸に目鼻口と僅かな髪の顔の絵で、一見同じような絵ばかりなのだが、
ヒントなしにそれらの絵を見て、どれがお母さん、お父さんなのかと判定するのだ
これに真剣に向かうと、なんだか知らないがこれはお母さん、あれはお父さん
というのがわかったような気がした
そしてそれは当たっていた
何故当たっていたのかはわからない
別の人にもトライしてもらったが、その人も自分と同じ答えだった
つまりは何らかのメッセージを感じ取ったということで
それは一体何だったのだろうか?との疑問がずっと残っていたので
今回この本を読んでみようとしたのだった

子どもの発達の経過と変化、それに対する仮定や考え方
世の中にはこうしたことを研究する人がいることに少し驚くが
読んでいる間は、頷くことが多くて面白いものだった

ということで、困った台風の中、少しばかり興味深い本を読んだということ

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詳細な描写、想像力を刺激する表現

2024年08月30日 09時20分18秒 | あれこれ考えること

男はいつものように起きた
女はいつもより長く寝ていた

これは源氏物語で紫の上が光源氏との初めての夜を暗示している
事細かく書かなくても想像力で何が起こったのか想像することは
ストレートに描写されるより余韻が残る

話は変わって、昨日、NHKの「趣味どきっ! 葵の上」の録画を見ていたら
ツンツンして冷たい感じの葵の上が、六条御息所の生霊に苦しめられ
夕霧を産んで少し弱っていたところの表情は、光源氏にとって
いつもとは違う美しい女性と感じさせるものだった
それまで冷たくしていたことを後悔する気持ちを表現した文章が
原文にあると解説にあった
一方、葵の上は見守ってくれていた光源氏が部屋から出ていく時に
初めて素直な気持ちで見送ったと原文にはあるそうだ
だが、その直後、葵の上は亡くなってしまう
この対比の効果的なこと、(なんとなく不幸が予想されたが)

源氏物語にはこうした印象に残る描写は他にもあって
覚えているのは光源氏の正妻の紫の上の子育ての部分
紫の上は自身の子供はいない
その代わり明石の君の赤ちゃんを育てることになったが
(ちょっと残酷な状況だと思う)
紫の上は乳の出ないおっぱいを赤ちゃんに含ませている
このエピソードは紫の上の悲劇的なイメージを連想させる
(少なくとも自分には)

また面倒な古文の文法をしっかり理解していると
藤壺と光源氏の不道徳な行為は、懐妊につながるその夜だけでなく
以前にもあったと想像できる表現だそうだ
あの時代の人たちは、それが直ぐに理解できただろうから
いま現代文約を読む我々よりはもっと楽しめたに違いない

人は2回目より1回目の方が記憶に残るはずと想像して
源氏物語には欠けている帖があるとして小説を書き上げたのは
丸谷才一の「輝く日の宮」だった

詳細な丁寧な描写、何かを想像させてやまない描写
文章とか音楽にはそういう2つがあるようだ
自分を顧みると好みは圧倒的に後者の方だ
その例が歌舞伎よりも能が好きと感じる点と
音楽でも歌(歌詞)のあるものより、
楽器だけで奏される音楽が好みなのもその現れかもしれない

瀬戸内寂聴さんは、とにかく源氏物語を読んだほうが良いと言っていた
きっかけは漫画でもいい 現代語訳でも良い
でも一番いいのは原文と言っていたが、あれだけ含みの多いものだとしたら
そうかも知れないとも思う

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台風被害にあったことがある

2024年08月29日 09時19分55秒 | 徒然なるままに

台風が来るたびに、この地区の山を背負った牛倉(うしぐら)とか出沢(すざわ)の人たちは
大丈夫なんだろうかと思う
今回の台風10号では、遠く離れた蒲郡で土砂崩れの被害がでてしまった
牛倉や出沢はテレビで見るあのような場所よりも、もっと山に接近していて
危険に満ちているような気がしてならない
だが、ずっと何事もなく過ぎているので、心配するよりしっかりしているのかもしれない

我が家は2018年10月に台風被害にあった
多分、突風(竜巻)によるもので、夜中に屋根の方からバタン、バタンと言う音が
継続してなり続けた
朝起きて屋根を見ると、屋根の一番高い部分が壊されていた


もっと悲惨だったのがカーポート
樹脂製の屋根はバリバリに割れていた

確かにその日の夜は今までに感じたことのない風の強さだった
初めて風で怖いと思ったものだった
台風被害は自分の家から北の方面の家で屋根の瓦が飛んだり
一部が壊れていたりしていた
それは以前見た竜巻被害のそれによく似ていた

起きてしまったことは仕方ない
思わぬ出費に落ち込みそうになるが、直すなら早いほうが良い
知り合いの工務店に修理を依頼すると、そこは朝から修理依頼の電話が
なりっぱなしだったそうだ

運が良かったのは、これらの修理費用が保険(共済)でカバーできたことだ
被害の写真を撮って、業者から見積もりを取って、依頼して
そして人よりも早く作業をしてもらって、元通りになった

共済の担当者は昔サッカーのコーチをしていた時に面倒を見た人物だった
彼はそのこともあって、いろいろ良くしてくれた
全ての手続きが終わってからアンケートを求められたが
そのアンケートのせいか、二月後くらいに高価な柑橘類の入った箱が
送られてきた(どうやら抽選に当たったらしい)

お金がかからずに現状回復ができたこと
自分では絶対購入しない高価なミカンを手に入れられたこと
それを思うと、台風被害の記憶は良い記憶として刻まれることになった

その翌年も台風被害があった
今度は庭の木が犠牲になった



強風に耐えられず途中から折れてしまった
葉っぱを付けていると風を受けやすく、それでこんなふうになってしまった

生き物が傷を受けたりダメージを受けているのを見るのは辛い
何も言わないだけに余計にそう思う

ノロノロ台風はまだ九州付近
気圧も随分低いままだ
新城市も場所によって被害が早くも出ているらしい
暑すぎる天候も嫌だが、程度を知らない台風も困ったものだ

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運休から連想したこと(思い出したこと)

2024年08月28日 09時19分01秒 | ダイアリー

飯田線は長山、中部天竜間が雨のため運休になった
豊橋の高校へ通う学生さんはどうするのだろう?
と思ったが、今は夏休みの最中で心配することはなかった
だが通勤している人はどうしているのだろうと気になった

昔、飯田線を利用していた時期、ストライキで電車が動かないことがあった
その時はバスで豊橋まで行ったが、バスは大回りというか
色んな所まで走ったので電車よりも時間がかかった
(珍しい道を走ったので、それはそれで面白かった)

もっと以前の頃、約2キロ先の中学へは自転車で通学した
最初のうちは雨が降ると近くの停留場から大宮口までバスに乗った
濡れるのを避けるためだったが、大宮口から中学までは少し距離があったので
結局は濡れる羽目になった
それに帰りの時間にバスがなくて、歩いて帰らなければならなかった
だからそのうち開き直って多少濡れてもカッパを来て通学することになった
(今の中学生もカッパで通学がほとんどだ)

豊橋の高校に通っていた時、飯田線が動かないだけではなく
渥美線がストライキで運休のときもあった
その時は豊橋駅から高校まで歩いていった
同じような学生が多かったので、豊橋駅から彼らの後を歩いていったが
歩く道は電車のコースと違っていた
変な道を歩くものだと思ったが、実は道のほうが線路より自然に高校まで
つながっていたのかもしれない
今はどの道沿いに高校があるのか全体像が浮かぶ

昔はストライキによる運休はさほど珍しくなかったかも知れない
少なくとも運休を迎えた何も知らない自分等はそんなものか、、
と受け入れるだけだった
といっても、ストライキの記憶はその後無いから
あれが労働運動の最後の輝きだったのだろうか

二日ほど前は11%台だった宇連ダムの貯水率は、今は33%台に回復している
台風は依然として九州の南にあるのだが、その影響力の大きさは
日本全国に広がっている

ここ数年の天候のパターンは、晴れれば晴ればっかり
降れば雨ばっかりという感じが多い
天気予報を見れば、ここ一週間ほどは雨のようだ
暑すぎるのがなくなるのは良いが、雨は直ぐに飽きる

大河ドラマではユースケ・サンタマリアの扮する安倍晴明は雨乞いをして
運良く効果があったようだが、聞くところによると雨乞いでハズレがなかったのは
安倍晴明と空海さんだったらしい

ということで、フト昔のことを思い出してしまった
これば「失われたときを求めて」のマドレーヌと同じ心の動きなのだろうか





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誰かの夢を見た

2024年08月27日 08時57分08秒 | ダイアリー

あれは誰だったのだろう?
目醒た時、妙に心が満たされていた気分だった
夢は見た本人にしかわからないのが、良かったと思う
(何故か内緒にすべきものだと感じていた)

女性の誰かと話していた
時間がない中で焦って何とかきっかけを作ろうとしていた
コンサートのチケットが自分の分だけあったのだが
もう一枚手に入れるから一緒に行かないかと誘っていた

無視されると思ったが、答えは希望を抱かせるものだった
それで何か救われたような気がしたのだが
目覚めてみると、それが誰だったのか一向にわからない

その上、何故そんな夢を見たのかもわからない
(夢を見た理由がわかるときもある)
ただ、いい夢だったという感覚だけは残っていた

昨夜は深く眠れずにいた
激しい雨音と雷で目が覚めて、少し開いている窓を閉めて
寝ようとしたが、いつまでもウトウトしただけで、頭は半分起きている感じだった
それで、このようなおかしな夢を見たのだろう

夢は心の奥に巣食っているものを、不意に全く想像のつかない形で目の前に現す
不安、憧れ、怒りが多く、理性というよりコントロールできない感情的なものが多い

こんなふうにコントロールできない思いをまだ心のなかに隠し持っている
ということは、まだまだ傷つく感覚を持っているということだろうか

いつも、自分の歳を思う時、〇〇歳って、こんなものか!
と情けなく思うが、急に立派な人格になれるわけではない
ありのままを受け入れるしかない

それにしても、あれは誰だったのだろう?


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困った天候の日々が続く

2024年08月25日 09時10分07秒 | ダイアリー

昨晩は床につく頃、雷がなった
夕方、空を見れば厚い黒い雲がでていて
庭の木の水やりを迷ってしまうほどだった
お隣さんとは、水やりは無駄になるかも知れないね
と話したものだった

雷は光ってから音がするまでの時間を測った
10秒以上あったので遠くのように思われたが
大きな音は迫力がありすぎて、ありがたくないものだ

そのうち市の防災無線で、洪水警報がでたと大きな声で伝えられた
(防災無線は何故か大きな声の場合と小さな声の場合とある)
この地方の水瓶、宇連ダムの貯水量は11%台になっていたから
これで少しは補給できることになった
今朝、貯水量をチェックすると13%台になっていた

雷と蒸し暑さで眠れないかと心配したが、なんのことはない
知らないうちに眠っていた
朝方は窓から涼しい風が忍び込んで、ついタオルケットを探してしまった
温度計はいつもより1℃低い数字を示していた
こうして少しづつ秋になっていくようだ

テレビでは台風10号の予報を繰り返している
どうやら日本を横断というより縦断する可能性が大きいようだ

自分が子供の頃、祖母は台風のことを大風(おおかぜ)といった
今思うと台風よりどこか風情のある感じだ
大風が過ぎて大したことがない時、もう少し大きいほうが良かったのに!
となんだか拍子抜けしたような気もした
こうした心理的な反応は、人には比較的ある傾向だそうだ
病気の検査をして何もなかった時、ホッとすると同時に
がっかりするというのがよく見られるらしい
(これは自分もなんなく解る)

大風が来る前には父が玄関に何枚も板を打ち付けた
強風で何かが飛んできても被害を受けないようにするためだった
大風の思い出は、自分はこのくらいしかないが
妹たちは伊勢湾台風の時、畳が床からの風で舞い上がってしまいそうで
あっちこっち畳を踏むようにしていたと自慢げに話すのだった

ということで、災害の多い昨今
できれば拍子抜けするような軽いものであって欲しい
天地異変は政治が上手く行っていないからと信じた平安時代は
人は今よりも謙虚だったのかも知れない






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発注者と受注者の関係

2024年08月24日 09時42分14秒 | あれこれ考えること

一般論として、受注者は発注者からどのくらいの影響を受けるのだろう
パワハラという言葉があるように、実社会では発注者から理不尽な要求を
うけることは少なくないようだ

下請け業者は、製造業では仕入れ価格、納期について半ば強引に
従わざるをえないことが珍しくないために
下請けいじめができないような法律が存在する

小売業でもやはり仕入れ価格とか過度の人的なサービスを
要求されることが多く、それをしないと取引停止の恐怖で
従わざるを得ないことになっている

つまりはお金を支払う方はお金を受け取りるものよりは
強気に出られるということだ
机上の理屈では、発注者も受注者も契約上は公平で
嫌なら契約しないという選択肢があるというものの
実態は弱い立場はどこか無理をせざるを得ない

この発注者が行政の場合、同じようなことが起きていないとは言い切れない
発注者である行政が委託業者に、本来ならすべきでないことを要求した例は
残念ながら相当数あるようだ

豊橋市では新アリーナの活用方法についての調査を、ある専門業者に委託したが
依頼したのは2つの方法だった
ところが成果物として出てきたのはそのうちの一つだけで、
新アリーナの運営については有利と思われたもう一つの方法は何故か報告書から
削除されていた
そのことを知った市民が行動を起こして、それが新聞記事に載っていたが
このときの行政の言い分は驚くべきことだった
「委託業者に行政が内容について変更とか削除を求めることは一般的にある」

これは驚くべき発言だったが、やっぱりな、と感じたのだった

これに似た事件(案件)は新城市でも行われていた
数年前の市庁舎建設予定外の移転補償費の騒動では
問題となる物件が庁舎予定地と離れていたために
地権者の「離れた場所もまとめて移転補償費をもらいたい」
という要求は、コンサルタント会社に調査を依頼したところ
最終報告書は「まとめて考えることも可能」(まとめて保証費は支払うべき)
としていたが3ヶ月前の報告書ではそれとは全く反対の
「生活が一体化していない」(まとめて支払う必要はない)として報告されていた
3ヶ月の間に、何故か答えが変わっており、それは豊橋のように
「行政は一般的に変更、削除を依頼することはありうる」
が行われたと考えることができる

また最近の例では、ある業者に依頼した業務が決められた時間内に
終了していないにも関わらず、その業務は終わったことにして完了日を記入し
請求書まで発行して行政は委託料の支払いを行った
これは公文書偽造事件として関わった職員が刑事告訴されている
だが、これは表に出ただけで、発注者としての行政はこの手の要求を
結構しているのではないだろうか

前に、名古屋新城間の高速バスの運行についての調査を依頼された分析会社は
その調査の元となるアンケートは、バス利用者だけの数字とか希望を採用していた
つまり、バス利用していない人の意志とか要望はその調査には反映されなかった
つまりは受注業者は、発注業者の意向を察して物事を行うということで
実はこれ自体は珍しいこととは言えず、円滑な作業のためにはよくある話と思われる

民間同士の取引では、勘の良い営業さんが先方の意図を忖度して作業を進める
ということになるだろう

こうした例は、数年前の不動産鑑定でもおこなれていないか?
との疑念は消し去ることはできない
不動産鑑定の答えとなるような数字は、あらかじめ鑑定業者に伝えてあるし
例外的に速報値なる数字をあっという間に出して、先方との交渉の材料にしている
そして、不動産鑑定の比較する場所が、市内ではなく豊川市が3箇所となっている
(本当にその当時、比較する場所は豊川市にしかなかったのだろうか?)

手続きは一見ちゃんと踏んでいるように見える
でもその実態はかなり怪しい、、ということが、世の中には溢れていないだろうか
(行政との打ち合わせは、実は細かいところまで事前に行うのが普通らしい)
しかし難しいのは、それ怪しいと思われても実際に怪しいと証明することは
かなり難しいということだ
でも、これらを判断する人(裁判官)が、世の中で行われている人の行いの実態を
知っていれば、そこから導き出される答えは髄分違ったものになりそうな気がする

まとまらない話

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お米も水も品不足、そこから思うこと

2024年08月23日 09時19分18秒 | あれこれ考えること

昨日は処暑 暦の上では暑さも峠を超えるとされる
確かに空の色は変わってきている
太陽が少しずつ南に傾いて、真上から照りつけないので
光の色が違って見えるのだろうか

それにしても今朝は蒸し暑い
先ほど雨が少しだけ降った
どうせ降るならもっと降ればいいのに

一昨日の出来事
ポイントが3倍になるからと食品の買い物は水曜日まで待った
Aコープでの買い物のメインはお米だった
テレビのニュースでは店頭からお米は消えていると報道されていた
田舎だからそんなことはないだろう!と考えていたが、甘かった
Aコープもお米のコーナーはガラガラだった
本当に何にもない
あるのは在庫のないことを詫びる張り紙だけ

おいおい、困ったぞ
そこで地元資本の近所のスーパーに行くことになった
でも結果は同じだった
棚はすっからかん
来週に入荷予定の張り紙が見えるだけ
僅かに2キロのお米があったので、それを購入した

新城は田舎だから、お米くらいはあるだろうと想像したが
世の中の不安を煽る空気はそんなのんびりした事態を許さなかった
そう言えば、「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」が発表された時は
水がスーパーから無くなっていたと地元の人が話していた

不安を覚えるといつもより余分に購入する
この全体的な同時期、同一の行動が物不足を招いてしまう
いつもより余分に買わなくて、普段通り購入すれば
ここまではならないかも知れない
と思ったりするのだが、フト、不安を煽るこの手の情報の多さは
政治的に行われたならば、とても怖いものだと気になった

異様なオリンピック報道、自民党総裁選の異様なテレビ露出量
気づかないうちに人々はプロパガンダの洗礼を受けているのかも知れない

テレビ広告の考え方にGRP(総視聴率)というものがある
GRP=R(リーチ)✕F(フリークエンシー)
上の式は、世の中の人の全体の何%(到達度)が
何回見たかは、総視聴率で決まるとする考え方だ
(何回見れば行動に移るとのデータもあるとか)

つまりは露出量が多ければ、人は広告された商品を購入するように
政治的な考え方も露出量によってコントロールされうるということだ
そのことを知って物事にあたるのと、無防備に受け入れるのとはだいぶ違う
人は異様に多いと思える何かには注意が必要ということだ

ボケ防止の為のルーティンワーク(ブログ)だが
その一つ一つに爪痕を残したいという気持ちが捨てきれず
ちょいと話が逸れるに任せてみた




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夏は頭が働かない

2024年08月22日 08時15分38秒 | 徒然なるままに

暑い時期は頭が働かないと実感する
ルーティンのこの作業(ブログ)も面倒くさいことを考えることをパスしがちだ
余裕のある人たちが避暑に行く気持ちはよく分かる

昔、エイトマンという漫画があったが、エイトマンは時々タバコみたいなものを吸った
それは頭を冷やす昨日を持った薬品だった記憶している
子供の漫画にタバコは褒められたものではないが、電子機器は温度に弱いということは
その時から頭に入っている
(その割には2階の暑い部屋にPCが設置してあるが)
人間だけじゃなく、いろんなものが暑さに弱いのだ

今朝は、とんでもなく蒸し暑かった
夜中に雨がモタモタと降って、それがいつまでも後を引いて
中途半端な天気となって湿気だけがいつまでも残っている感じ

日本の夏は、かなわんなあ
金鳥の夏は昔の話になって、蚊取り線香は今年は一向に出番がない
この分だと夏バテをしてしまうかも知れない
何とか踏ん張っていたが、涼しくなると一気に疲れが出る
なんてことは充分ありそうだ


頭にはもう少し面倒くさいことが巣食っているが
それを纏める馬力と気力は今は浮かばない
涼しくなったら、それらはいつかでてくると思うが、さて


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「トリスタンとイゾルデ」と「魔笛」

2024年08月21日 09時39分44秒 | 音楽

最近はエアコンのない2階で音楽を聴く機会は全くない
音楽はもっぱら車で聞き流すだけになっている

少し前ipodに入っているフルトヴェングラー指揮の「トリスタンとイゾルデ」
全曲を選んだ
長い曲を運転するたびに少しだけ聴く
その繰り返しで音楽を体験している感じではないが
それでもあの演奏の濃厚な感じは伝わる

フルトヴェングラーの演奏は他の人と何かが違う
彼の演奏は緩急の激しさを指摘されるが、自分はむしろ音色が違うように思えてならない
二幕の愛の二重唱とブランゲーネの警告の部分の管弦楽の音色は心にまとわりつくようだし
二幕の最後、トリスタンが剣で致命傷を負ってしまう際の音は
取り返しのつかないことが起きてしまったと思わせる痛切な響きがする

三幕の前奏曲も暗くて絶望的で、すでにトリスタンは死の間際にいることを暗示する
つまりは後期ロマン派の濃厚な世界が展開されている

この濃厚な音楽を聞き終えた後、そう言えば、、
と思い出して次に選んだのがモーツァルトの「魔笛」だった

車で聞き流ししているだけなのに、この2つの音楽にはすごく大きな違いが感じられた
古典派と後期ロマン派の違いの向かっているものが違うからだが
それでも際立つのがモーツァルト音楽がスッキリしていること
シンプルで難しいことをしていなくて、それでいて必要充分のことをしていて
そして心から楽しい(一幕後半部分はとても楽しい)
それに見通しがいい

やはり「魔笛」は最高だな、、と思う
自分が選ぶモーツァルトの音楽は「魔笛」は絶対外せない

「トリスタンとイゾルデ」と「魔笛」
そのどちらに心動かされるかは、、その時の気分次第だが
暑くて集中が続かない今は、モーツァルトの方が好ましいかな

ちなみに「トリスタンとイゾルデ」と「魔笛」はこんな音楽

Wilhelm Furtwängler - Prelude: Tristan und Isolde, Act 3



新国立劇場オペラ「魔笛」ダイジェスト映像 Die Zauberflöte - NNTT

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