昔のように爆睡はできない
一眠りして目が覚めて、仕方なくトイレにいく
それが自分に限らずこの年齢のパターンだと思うが、問題はその後のこと
すぐに眠れれば良いのだが、なかなか眠るわけにはいかない
ある時、ジムで知り合った屈託のないおばさん(年上)と睡眠の話になった
彼女は夜あまり眠れないので医者から処方された薬を飲んでいるそうだ
でも、それが効かない時があって、一眠りしたあと寝付けないという
ところが眠れない理由を聞いてちょっと笑ってしまった
「フランダンスの動作の順番を、どうだったかなと考えていたら、目が冴えてしまった」
彼女はフラダンスの教室に通っていて、年に一度位は発表会があるそうだ
間近に控えた発表会のダンスのことを考えていて、頭の中で復習していたら
気になって眠れなくなってしまったというのだ
そんなことで眠れないなんて、、考えなきゃ良いのに、、と思い
笑いながら同居人に伝えたら、やはり笑っていた
しかし、これは笑えることではないかもしれないと思い立った
自分は夜中に目が覚めた時、惰性のようにあることを考える
それは今直面しているボケ防止のこの作業(ブログ)のこと
どのネタにしようか?
冒頭の文はどうしようか?
ネタは自分よがりになっていないか?
流れに一貫性とか論理性はあるのか?
そんなことを考えていたら段々目が冴えてきてしまった
フト、これって、おばさんのフランダンスの順番を考えて
眠れないのと同じじゃないかと気がついたのだ
人様には全く関係のないことをあれこれ考えて眠れなくなる
人って、そんなものなんだな、、おもしろい生き物だな
生きているということは、いろいろ考えたり感じたりすることだな、、
そんなことを改めて思う
さて色々考えた末の今日の出来は、、、
(イマイチだな)
人は例えば10万円「得する」と「損する」では、精神的には後者の方が深く刻まれるそうだ
これは実感としてなんとなくわかる
父がよく行っていたパチンコをしないのは、見る見る間に玉が減っていくのは
ドキドキして落ち着かないし、宝くじを購入しないのは期待値が少なくて
無駄になることがわかっているからだ
少なくとも損をしたくない!と気持ちが勝っている
企業が溜まった内部留保をひたすら溜め続けるのは、もしかしたらこうした気持ちが
影響しているのではないかと思ってしまった
(もしかの時のために溜め込んでいるというよりは)
昔は法人税は高かったので、税金で取られるくらいなら社員に配ってしまうおう
とする太っ腹の経営者は珍しくなかったようだ
ところが最近は配る相手は社員から株主とか役員に変わっているとの報告もある
金融資産が一億以上の人の増加した内容を調査すると、それは確かなようだ
数年前大流行した「21世紀の資本」の中でピケティも同様なことを伝えている
ところで「理性」と「感情」が戦えば勝利者は「感情」と判断するのは
あながち間違いではないと思う
客観的な冷静な判断が求められるとしても、判断の前提として湧き上がる感情がある
一見、理性的であることが人間としての正しい選択と言われていても
そうは簡単になれないのが人の常
政治の世界ではイデオロギーよりはアイデンティティとナショナリティと言われる
アイデンティティとかナショナリティは多分感情の支配する分野だ
それに世の中で起きる犯罪は、魔が差したとか一時期の熱狂に、、
つまりは感情のなせる技であることが多い
現在、感情がどうも受け付けない考え方にMMT(現代貨幣理論)がある
以下はSMBC日興証券のホームページからの引用
MMTは「Modern Monetary Theory」の頭文字を取ったもので、現代貨幣理論のことです
通貨発行権を持つ国家は債務返済に充てる貨幣を自在に創出できることから、「財源確保のための徴税は必要ではない」、「財政赤字で国は破綻しない」、「インフレにならない限り国債はいくら発行しても問題はない」とするものです。
MMTはケインズ経済学の流れを汲むマクロ経済学理論のひとつで、「政府の財源は税と債券発行によって調達すべき」、「赤字拡大が続けば国は破綻する」という主流派経済学の見方に対抗しています。
頭の良い人は理屈の上からこう結論づけるのに違和感がないらしい
でも、経済学に疎い自分はどうしても違和感を拭い去ることができない
少し調べてみてもスッキリわかったというよりは、なにかごまかされいるような気がしてならない
もう少し時間が経てばそれらは認めることのできる理屈と気持ちが変わるかもしれないが
現時点ではよくわからない、、というのが本当のところ
経済学は科学ではないとする考え方がある
経済学は影響する要素が多すぎて、物理現象のような再現性がない(因果関係も不明確で)から
科学ではない、むしろ信仰に近いと言った人がいた
なるほどなあ、、とつい頷いてしまう
ということで、世の中はわからないことだらけ、量子論もMMTもABC予想もさっぱりわからない
助かるのはわからなくても生きていけることだが、それでもわからないということは
少しばかり悔しい気もする
頭に浮かぶことは、結論に結びつかない単なる思いつきが多い!
とつくづく実感するこの頃
今回の衆議院選挙、新城市の投票率は62.94%
国全体は53.85%
期間中、自分は宣伝カーの声を聞かなかったが
やはり田舎は少しは投票率が高い
ところで、あるところで選挙にいかない人の理由でこんなのを見聞きした
「投票した人が負けると、自分が負けたような気がして(否定されたような気がして)
気分が落ち込む、それなら初めから投票に出かけないほうが良い」
いい歳をした自分はつい一言を言いたくなる
負けることで学ぶところが多く、真に参考になるのはそうした悔しさを経験したり
次に何をするかが明確になってくるとか、継続的な努力の必要性を実感することができるから
無駄ではない、、と諭したくなってしまう
それにしても何をそんなに恐れているのだろう
生きているうち経験することは勝ち(良いこと)ばかりではなく
むしろ負け(悪いこと)のほうが圧倒的に多い
時々、プレゼントのように良いことが経験できるから喜びを感じることができる
これがいつも勝ちっぱなしだとしたら、人は些細な負けにも耐えられないかもしない
話は飛ぶが、東大の囲碁・将棋クラブの良いことは、「負けることを知る経験ができる」ことだそうだ
それまで勝ち組で挫折を知らない人が、負けの経験をすることは人生にとっても棋力の向上にも
役立つとされている
話は戻って、テレビの街頭インタビューでは30歳の人間が
「わからないから」「難しいから」「一人行かなくても変わらないから」
と答えているのを見ると、政治教育が悪かったという前に
人として成長しているのか、と不安を覚える(余計なお世話か)
とまあ、不平不満が出てきてしまうが、不意に「昔の選挙はすごかったな、、」と記憶が蘇る
選挙で盛り上がるのは市議会議員選挙で、子供の頃、近くの人が3人立候補した時があった
祖父母と両親はそれぞれ適度に割り振ってみんなに義理立てをし投票をした
これはそんなものだと思うが、すごかったのは選挙事務所でのこと
当時は選挙事務所には酒樽が置いてあって、そこで振る舞い酒をすることは禁止されていなかった
だから呑兵衛と評判の人は、選挙事務所を回り歩いて真っ赤な顔をしてただ酒を満喫していた
そのうち振る舞い酒は禁止になったが、その時幼い自分は
酒屋さんは売上が落ちてしまうが大丈夫なんだろうか?などと心配したのだった
立候補者が近所だから宣伝カーは回る場所が重なって、候補者同士がすれ違う時があった
その時は「相手側候補の健闘を祈ります」とお互いにエールを送っていた
本音ではないとしても、儀礼的にもこうしたことができた昔はおおらかな時代だったものだ
ところで、ちょいと真面目な話
投票率は老人が高い
老人たちは自分たちの世代の利益になる言い分をする人たちに投票し
若者はその犠牲になっているとする考え方がある
でもみんながみんなそうだろうか?
そんなに生存競争ばかりの世界だろうか?
じいじばあばは、息子、娘、孫のことが心配だ
食べる量も所有欲も少なくなってきたじいじばあばは、後の人のことが気になる人も少なくない
自分らのことはいいから、子ども孫のためになることを望むひともいる
でもそう言う人は、少しばかり(経済的に)恵まれた人たちかもしれない
つまりは、そこそこ安定した生活ができる人は、自分以外の人たちについても慮ることができる
ということは、人が人として優しさを実行するには
経済的な社会がそこそこ確保されていることが必要となる
現在の状況は個人の責任だけで済まされる社会でないと思う
親ガチャの言葉に代表される生まれた環境が、教育、体験の大きな影響があり
それが成年になって働く先にも繋がって、収入差が生まれてしまう
このように半ば必然的に生まれてしまう弱者にどう向かい合うか?
人間の能が異様に大きいのは共感を覚える(コミュニケーションを司る)部分が
発達しているからだそうだ
人が人としていられのはその能力ゆえとするなら、
それを発揮できる社会的な環境づくりは大事なことだと思う
まとまらない話
昨日の投票に行かない人の国際比較に関連する話
例えば、投票に行かなさそうな人にこんな質問をしたらどうだろう
「今、困っていることがありますか?
こうだったら良いのにと思うことはありますか?」
学生さんなら奨学金の返済が負担だからなんとかして欲しいとか
アルバイトの時給を上げてほしいとか
学生さん以外にもいろんなこうして欲しいことは見つかるとだろう
そこで次の質問が今日のテーマ
「それをするには、あなた自身は何をしたら良いですか?」
多分みんな世の中に不平や不満はある
それをクリアするには自分では何ができるか?
を聞いてみると面白いと思う
この質問をかつて能弁家に聞いたことがある
すると彼は持論を熱っぽく語った
それは長いものに巻かれろという日本人の特性
教育がなっていないから自ら考えることをしない、、とか
つまりは、ちょいと絶望的な結論だった
「でも、そうだったとしても、どうすれば良い?」
と聞いてみると、彼は少し困った表情を浮かべた
「諦めるしかない」
彼の話しぶりではそう結論づけられることになるが
それでも彼自身がそう認めるのには抵抗感がありそうだった
投票しても何も変わらないと思っている人とか、政治に無関心の人に
社会生活で感じる困りごとを(あるいは希望を)どうすれば解決できるか?
と問うことは、究極的には答えは
「このままで良いと諦めるか、良くないと思うか」に大別されると思う
良くないと思う人は、究極的には自らなにか行動を起こすしかない
給料を上げてほしいと思う人は、例えば会社に要求してみるとか
それが通じないなら一人では力がないから仲間を募るとか
あるいは、もっと別の人の力を借りるとか、、
つまりは、自分でできる何かを考え出して行動せざるを得ない
知ったかぶりで現状を黙認するだけでは何も変わらない
このように、政治的に大きなことでななくても個人の希望とか
こうあってほしいことを実現するには何かを行動するしかない
そしてその何かは多分政治的なことに繋がっている
投票に出かけるということは、こうしたことを考えるきっかけになる
自ら行動すると、行動する間に関連する知識や知恵が増えてくる
世の中に仕組みみたいなものがおぼろげに見えてくる
それが年齢を重ねるとか成熟するということだ
投票に行きなさい!
義務を果たすようにとか、あるいは正義感をもって諭しても個人には響かない可能性がある
でも自分の身の回りが少しでも良くなる社会を望むなら
まずは自らできることを行動してみるしかないと実感することは
実質的に投票に行きなさい!
と言っていることと同じ効果があるのではないだろうか
ちょっとわかりにくい理屈かな
これは寝ていて浮かんだこと
いつもより話題豊富で騒がしい衆議院選挙
しかし、投票率はどうなんだろう
今回は急に選挙となったので自治体の投票場入場券の郵送が遅れて
期日前投票が前回より少ないとの報道がある
でも、その用紙がなくても個人が確定できるものを持参して
期日前投票ができる場所に行けば、投票はできる
メディアは期日前投票が少ないと言っているだけでなくて
このことを伝えるべきだと思う
ところで不意に頭に浮かんだことがある
それは投票にいかない理由を、全世界のいかない人に聞いて
それを日本と比較したらどうだろうかということ
自分が不安視するのは、日本のいかない人の理由が世界の人々と比べて
幼稚なのではないかということ
何となくそう思うだけで根拠はないが、これは試してみる価値があると思う
どこかの大学とか組織がやってくれないかな
もし、予想通りだとしたら、日本はちょいとやばい
何となくそう思うことがもう一つある(独断だが)
誰もが経験する疾風怒濤の時代には理由もなく外国に憧れることはありそうなこと
と想像するが、これを実行に移すのは男と女とどちらが多いだろうか
わかりやすい言い方をすれば、海外旅行は女と男ではどちらのほうが多いだろうか
身の回りの人の話を聞くと、どうも女性の方がスパッと海外旅行に出かけているようだ
男はどうも何らかの理由をつけて二の足を踏む
ところが女は好奇心の赴くままに行動する
問題はその先で、海外は日本と違うことを実感として身にしみた女性は
世界標準の価値観を持ちやすくなる
ところが日本しか経験のない男は相変わらず日本のみで通用する価値観のままだ
その感覚のズレは「日本スゴイ」の奇妙な流れを作っているような気がする
これは仮説に過ぎないが、何となくそうなんじゃないか?と思っている(思い込んでいる)
それにしても、投票率、今回はどうなんだろう
本当に「試されているのは有権者」だといううことを感じて欲しいものだ
何にでも逆張りをするタイプではないが、それでも何故なんだろうと思うことがある
共産党は何故そんなに嫌われるのだろう?
ほどんど無条件に否定されることの多い共産党、社会主義
でもそんなに嫌われるべきものなのか、、と少し不思議な気がする
マルクスが共産主義の元を作りあげたとしても
その考えに至るにはある程度の必然性とか時代性があったはず
そんな風に考えて、ちょいとマルクス絡みの本を読んでみた
手にしたのは分厚い「資本論」ではなく新書の「超訳資本論」(的場昭弘著)で一種の啓蒙書だ
実はこの本は以前にちょっとだけ読んだ
でも途中で投げ出したか、読み終えても全然覚えていないかのどちらかで
わずかに覚えているのはどんな商品にも「労働」という過程が含まれているという考察
その考え方はなかなか興味深いと感じた
労働力の言葉があるから、そこから搾取の概念が説明されるわけだが
すぐに理解できるほどの知識も素養もない
言えるのは、こうした考え方とか持って行き方はなかなか面白いということ
そしてこれだけ読んでいると、そんなに嫌われる理由はわからないな、、が実感
実は社会主義関係の本では全く想像外の内容だった物がある
レーニンの「帝国主義論」がそれで、単なる決済機関である銀行が
お金を十分に蓄えるようになると、移動が容易なお金はその特性を活かして
世界中に回って、それが支配的な状況をつくる可能性があるという論旨
これも考え方としてはなかなかおもしろい捉え方だ
ということで、何故そんなに嫌われるのかは、、よくわからないが現時点での思い
逆に大手企業の内部留保の過剰な蓄積とか格差の拡大は
もしかしたら資本主義に内在する問題点ではないのかと思ったりする
「資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか」
「資本主義の宿命」
これらを読むとその思いを強くする
凄いなあ、、
自民党(石破さん)は政党交付金が非公認の議員の支部に振り込まれていても
非公認の人の選挙に使われることはない!
と説明すれば国民に納得してもらえる思うとは
普通の社会人ならば、特に悪意を持たなくてもそれらのお金が
実態として選挙用に使われると想像する
使わない!と言っているのは当事者だけでなんの説得力もない
民事裁判では証人尋問で一応正直に答えることを宣誓するが
嘘を言っても問われない場合があるそうだ
それは原告と被告、その両者は嘘を言ってもいいとは言わないまでも
どのみち極端な思い込みやら都合の良い答弁をするに違いないから
現実的な対応策として大目に見るらしい
(あるTV番組でそんな話をしていた)
内輪でしか通用しない言い切りが、そのまま信用されるという場面に
ここ数年の間に経験をした
それはある裁判でのこと
不動産鑑定が異様に高い結果が出ていたので、詳しく書類を見てみると
数字を出すために比較する場所は当該市内ではなく隣の市の豊川市だった
その理由は、その当時は比較する場所はこれしかなかったとのこと
これがまず1つ
そしてもう1つ、不動産鑑定業者はあらかじめ市から伝えられた希望売却価格に
影響されることなくその業務を行ったとの弁明
これら2つは、本当にそうだったのか?はわからない
単に答弁として答えているだけだ
だが、それは裁判では無条件に信用された
ここでもう少し詳しく説明すると、不動産鑑定は競争入札ではなく一社随意契約で行われた
随意契約としたのは、不動産鑑定委託料は以下の票に従っているので
どこの不動産鑑定業者に頼んでも同じ金額となるので競争入札になじまないというのだ
価格表がこれ
だが不思議なことに市は不動産鑑定会社に該当地区の希望売却価格(5億いくらか)を伝えている
そしてその価格から不動産鑑定料金を算出してもらって「参考見積もり」というものを出してもらっている
希望売却価格を伝えなければならない必然性はあったのだろうか
この表が委託料の金額算出のもとであるなら、市は不動産鑑定業者に希望売却価格を伝えなくても
自分たちで表を見ればおおよその金額を算出できるはずだ
だから伝える必然性はない
にも関わらず伝えている、それは何故なんだろう
考えられるのは市は手順として業者からの見積もり(参考見積もり)を取らなければならない
ということが想像されるが、このところは職員ではないのでわからない
でも、なんだか変だな、、との思いを捨てることができない
誰かの言い分を信じるということは、まずはそれが本当か嘘かを想像しなければならないと思う
そしてそれらの嘘・本当を判断するのは常識的な良心とか倫理観とか世間知を駆使することが必須と思う
だが、今の世の中は意見に対し反論がありさえすれば、それぞれの意見が何であろうと
公平に扱わなければならないし、そこから判断を下すべきとしているような気がする
世間知をか倫理観とか常識を除いた判断は
冒頭の石破さんの言い分をそのまま信じるということに繋がってしまう
話は飛ぶが、最高裁裁判官の国民審査が行われるが、その中には
「法曹界の外で培った経験を踏まえ予断を排して関係者の主張に謙虚に耳を傾けつつ
妥当と信じる解決を探っていきたい」と答えている人がいる
法曹界内の理屈だけでなく人々が経験する様々な環境とか違和感を
もう少し感じることができる裁判官だったら、自分らの訴えは
もう少し違った結果になった思う
これらのことは、全く個人的な備忘録とすべき内容
でも、どこかで吐き出さないと気分が悪いので毒づいてみた
選挙中も相変わらず静かな田舎
今朝、近所の子と小学校校門まで付き添いで歩く途中
一年生の女の子に聞いてみた
「今、通り過ぎたところに男の人と女の人の顔は並んでいたけど
あれ、なにかわかる?」
「わからん」
すぐさま返事が返ってきた
今度は同じ質問を2年生女の子に聞いてみた
「わからん」
7歳や8歳ではわからないのか、、
ということで、今度は5年生の男の子に聞いてみた
「選挙のポスター」
流石に5年生になるとわかるのか
だが、そこから先は子どもっぽい
「俺のポスターも貼って欲しい」
「あのね、こうやって貼るには選挙に出ますと申し出て
お金を300万円収めないと駄目なんだよ
投票数がたくさんあると後でお金は返ってくるけど
少ないとお金は取り上げられてしまうんだよ」
「なんで?」
「ふざけて選挙に出ないようにするためだよ」
彼は少しは頭に入っただろうか?
小学生はどのくらいから社会的なことに関心がいくか
あるいは、教育されるのかが少しわかった気がした
選挙はお金がかかる
家に何度も来るハガキ
政策を書いたパンフレットに電話、宣伝カー
一人300万円の供託金
少し前、素朴な疑問がSNS上に挙がった
ある党が100人近くの公認で立候補をした
計算をすると3億近くのお金が必要になるのだが、選挙前は一人の国会議員しかいなかった
党員が何人いるかわからないが、その党だけでそれだけのお金を捻出できるようには思えないので
どこからかお金が流れてきているのではないか?との声だ
確かに、そう言われてみると少し疑問が残る
同じように不思議に思うのは月刊「HANADA」とか「WILL」の広告費用だ
中日新聞では月一、全5段(全7段?)の大きさで広告が入る
おそらく朝日、読売、毎日も入っているだろう
首都圏では電車の吊り広告もあるらしい
だがこの月刊誌、書店に行くとベストセラーというほど売れているようには見えない
というより、そんなに置いていない
売るために広告を出すとしたら、広告費倒れになってしまいそうだ
(いったい広告費の原資は何なんだろう?)
だが、新聞広告は売るためではなくて、ある団体の刺激的な意見の発表の場として
利用しているのかもしれないと思われる
しかし社会にはいろんな意見や考え方があるというものの
どこか気持ち悪さを感じてしまう
自民党は最近の報道では、なりふり構わず公認しなかった人にお金を渡し
街頭の応援演説にも党員を派遣している
つまりは実態は公認と同じ扱いをしている
そして当選すれば、「禊が済んだ」の一言で
今までの問題はクリアされたと言い切ってしまう
こうしたことを踏まえて、選挙区の人はどう考えるのだろうか?
選挙時に限らず現在ではSNSで様々な情報を提供している議員さんがいる
SNSは賛意を示すスタンプもあれば、批判を伝えるコメント(チャット)欄がある
ある自民党の議員さん(総裁選に出馬した人)は
自分に批判的なコメントを入れる人をブロックすることで有名になっている
それは「ブロックされました」とスクリーンショットを挙げていて
それはそれなりに拡散している
反対にそう言うことに全然対応していない人(野党議員)もいる
その理由を問うと「それもまた社会」との認識があるからだ
彼は常々世の中には多様な意見があると口にしている
そして彼のキラーコンテンツ「青空集会」では
どんな厳しい意見も遠慮なく言って欲しいとして、それを実際受け入れている
凄いのはチャット欄で、悪意を感じるコメントが次々と流れる
その中には「消費税25%」を訴える人には任せられないというのがある
この話は「切り取り」の最たるもので、彼の考えを知っている人は問題にしないが
無党派層の人に何としてもこの人物は良くないと伝えようとしている
ちなみに彼の税金の話は、税金は高いが社会保証がしっかりしているスウェーデンがお手本で
国民と政府が深い信頼関係にあるなら、それでも良いのではないか、、ということで
それを一気に行うとは言っていない(むしろ現実的な手段として様々な方法を考えるとしている)
それにしても、「それもまた社会」として受け入れることは、精神的に容易ではない
政治活動は、忍耐、我慢、辛抱と実感している彼は、今党の立場上、日本中を走り回っている
最終日頃には声が枯れてしまうだろう
人だから彼も完璧ではない
ミスも失敗もある、でも、見捨てる気はない
彼のお父さんは、息子が倫理的な道から外れるようなことがあるなら
自分が先頭に立って引きずり下ろすと言っている
この親にしてあの息子、、という気がする彼は香川一区のパーマ屋の息子
衆議院選挙戦が始まったが、ここ愛知14区のエリアは豊川市、蒲郡市、新城市、
幸田町、東栄町、設楽町、豊根村で、なかなか広範囲で
人口密度がそれなりの所とパラパラのところがある
いつものことだが、新城市は選挙が始まっても静かなものだ
宣伝カーは回ってこないし、街頭演説会もない
公示日は出発式で多少のにぎわいがあったが
市議選と比べると全く静かなものだ
今はネットの影響が馬鹿にできないというものの、田舎は年寄りが多く
ネットの力がそれほど大きいとは思えないのが現実だ
それにしても、投票先の選択は人は何を根拠にしているのだろうか
知名度の点では現職と挑戦者には圧倒的に差がある
初めて聞く名前の人を選ぶのだろうか
政策云々よりも知名度で判断されることは多そうなのは
好きなタレントと嫌いなタレントが、同時に一位となることでわかる
そこには好き嫌いではなく、単に知っていることが判断の根拠になるのではないか
充分ありそうなことだが、かと言っても生活に関わることで、いい加減に選ぶわけには行かない
こう言うときは、知人、しかも信頼できる人が薦める人に投票することはあるかもしれない
(自分の判断に自信のない人は)
というより、それしかない!というのが現実だろう
すると信頼できる人が、あるいはインフルエンサーが身近に多くいれば良いのだが
こうした方面に付き合いのある人というのは、民間人の間には多くない
選挙に夢中になるのは自らの利益に直結する人々だ
彼らは漠然とした利益ではなく、具体的な利益をもたらす人を選ばなければならない
以前に民主党政権になった時、ある団体は自民党支持から民主党支持に変わったことがあった
それは政策の良し悪しではなく常に政権与党を支持するということだ
現実にお金を動かすのは政権与党
政権与党でない自民党は利用価値がないとうところだろう
それにしても静かなものだ
これだけ静かだと、この地区の人はテレビ報道とか新聞記事の内容に影響されるだろう
しかし、それらが物事を正確に伝えているかといえば、、、どうなんだろう
もっとも現実はネットはもっと怪しいとか偏った情報が多い
それらは指向性に合わせ、これでもか!と言うくらい同じような怪しい情報が
流れてくるから気をつけないと
困った時代になっているものだ