あまり利用していないFBから、何年前の今日はこんな投稿をしましたよ!
とメールで連絡が来る
その中に12年前(2013年)の6月13日の出来事があった
13年前のこの日はハイデルベルクのフルトヴェングラーのお墓参りをしていた
37年ぶりにドイツ・オーストリアに出かけたのは、同じことをして(同じ光景を見て)
あの時と今とどのような感じ方の違いがあるかを確かめるためだった
その1番最初の確認がフルトヴェングラーのお墓での出来事で
昔はお墓の前で急に頭の中で音がなり始めた
曲はベートーヴェンの第五交響曲で、オーケストラ奏者が何かに取り憑かれたような
熱狂ぶりが聴こえたのだった
そのことは何故か「そういうことはあるものだ」と無条件に受け入れていたが
同じ場所に行ってみると今なら何を感じるか?(聴こえるか?)
を試すために再訪したのだった
13年前のドイツ・オーストリアの旅はこれを始めとして追体験の旅だった
同じことをしたのは、ミュンヘンのノイエ・ピナコテークで
ゴッホの「ひまわり」見たら、今はどう感じるかを確かめた
(昔は気持ち悪いくらい絵に生命力が溢れていて
ニョキニョキと茎が伸びていくみたいだった)
そして、リンツではブルックナーがオルガン奏者を務めた聖フローリアン修道院で
昔感じたこととの比較をしようとした
(キリスト教の儀式の壮麗さの中で彼は育ったのだという実感)
更にウィーンではシェーンブルン宮殿で、昔感じた権力者のわがままとか欲望を
今も感じるのかを確かめたいと思ったのだった
そしてベートーヴェンのお墓では、昔は理由もなく涙が出て止まらなくなったのだった
(こんなに遠くまで来ることなったのはベートーヴェンのせいだと思っていたから)
でも、追体験をしてみてはっきり言えるのは、昔の感じやすい時期に感じたことは
今は何も感じられないということだった
それは悲しい現実だが、たった一度の経験でも確かにあの時は
そう感じた!ということは紛れもない事実で
それは忘れられない記憶として残っている
人は確かに現実社会の中で生きている
でもそれだけでなく記憶の中とか、自分との対話の中で生きている
そしてそれがなかなか軽視できないもので、実生活の判断への基準は
むしろそこから生まれるような気さえする
13年前のフルトヴェングラーのお墓のことは、こんなことを投稿していた
↓↓
ドイツにて
でも自分はもう少し実生活における細々としたことを
もう少しちゃんとできるようにならないと駄目だな!
と同居人の生活におけるたくましさを見て思う
ところで体調はだいぶ戻ってきた
昨日一昨日は一体何だったのだろう