久しぶりに豊橋で中古レコードを購入した
2枚で1000円
購入したのはバレンボイム指揮のサン=サーンスのヴァイオリン協奏曲と
カラヤン指揮のバルトークの弦チェレが収録されたもの
珍しい曲どころか一度も聴いたことがないのが、サン=サーンスヴァイオリン協奏曲
それに名前だけは聞いたことがある「画家マチス」
「画家マチス」はフルトヴェングラーにナチスが演奏禁止を命じたが
(ヒンデミットがユダヤ人なので)それに逆らった曲として記憶に残っている
音楽自体に禁止されるようなものを含んだものだったのか気になるところだ
おそらく曲の出来不出来とか訴える力のほうが気になると思う
つまりは人種的な属性などは関係ないと思う
(音楽的にユダヤ的というのがよくわからないし)
サン=サーンスの楽曲もコンサートのプログラムで見たこともない
レコード・CDでも見かけたことはなかった
1000円なら、これらがハズレということになっても、まあ良いか!
といった気楽な気分で、悩まずに手にした
中古レコードはクラシックだけでなく
Jpop ジャズ、ロックなどの中から選べるようになっていた
その中で一番安いのがクラシック分野だ
需要と供給の関係でそうなっているのだろうが
ジャズの分野は2000円の数字がついたものが結構あった
聴く人の少ないおかげでクラシック分野が安く手にすることができるのは
個人的には有り難い
でも、そうした作品の聴く人に与える感動の大きさと値段の乖離は
少し考えてしまう
本でも「全体主義の起源」とか「ディスタンクシオン」
「ガラス玉演戯」とか「大衆の反逆」とか「嘔吐」などは
個人的には人は読むべき作品として重要視するが(読後感の重さがすごい)
これらを買い取りに出したら市場価値としてはあまりない!
と判断されそうだ
社会には需要と供給だけでない価値判断が必要だと思うが
そのところが最近の社会における不満だ
自分は他人の本棚とかレコード在庫を見て
この人はこういう人なんだ!と想像できる気がするが(間違っていたとしても)
果たして人は今自分の部屋に散らばっているそれらを見て
どういう人物かを想像することができるだろうか?