パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

時代から取り残されつつある?

2024年02月29日 09時54分34秒 | 徒然なるままに

歳をとるってことは、こういうことなんだな!
と実感するのはこんなことからだ

ビートルズの音楽はつまらないのに、何故騒がれているのですか?
この問をしたのは若い人、ビートルズを知らない人だ
この問には答える人がいて、音楽の評価は時代によって変わる
ビートルズの音楽の歌詞(?)が今の時代ではフィットしないかも
しれないが、彼らの全盛期は時代にあっていた

つまりは時代によって感性に訴えるものが違っているということだ
若い人がつまらないとするビートルズだが(この人は炎上商法かもしれない)
自分はその反対で、今の音楽はつまらないがビートルズはすごいと思っている

そういえば今の音楽には全く疎い
たまにテレビで流れてくる大勢で歌う楽曲は、幼稚だな!
と否定的な思いしかない
大勢いて音楽的にあんなことしかできないのか、、と思ったりする
(ただし、音楽はつまらなくても彼らの見せ方は高度かもしれない)

不意にバッハの音楽が彼の死後しばらく忘れられていた
という事実を思い出した
メンデルスゾーンがバッハ再発見のきっかけを作ったらしいが
バッハがしばらく消えかかっていたのは、少し分かる気もする
バッハの音楽は理屈っぱくて面倒くさいし、ワンパターンのように聞こえる
そう思う人がいても不思議ではないと思う
忘れられていた時期はもっと感情に直接訴えるものが要求されていたのだろう

自分が違和感を覚える違和感(年寄りの苦情)は
今の歌があまりにもポジティブ的でありすぎることのような気もする
それは若い人特有のエネルギーから生まれる必然的なものかもしれない
でも、、、

今の若い人が何十年経った時、懐メロとして今流行の歌を歌うことに
なるのだろうが、今の歌は時の淘汰に負けないでいられるのだろうか?

ということで、年配者は何かと今の時代に文句を言いたいってこと
そしてそれが歳をとるってことか!と実感したということ


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平和な世界

2024年02月28日 08時46分35秒 | 妹のこと

妹の棺に収められた「平和な世界」と書かれた習字
孫たちが書いたものだが、今思えば「平和な世界」は
妹が住むことになる世界がそうあって欲しい!
との願いを込めて収めたと想像できる

だがあの時、その言葉は妹のための言葉というより
妹が望んだ現世の世界の姿と自分は思い込んでしまった

妹は自分のことより他の人のことを思うような
優しい人だった
自分の思いは勘違いだったのかもしれない
とも思えるが、あの時の実感は間違いなく「世界平和」だった

最近、死にゆく人は話すことはできなくても、言葉は聞こえている
といったような話を目にした
これが本当かどうかはわからないが、そうあって欲しいと思う

妹にかけた最後の言葉は「ありがとう」だった
母も同じ言葉を伝えていた
それが妹に聞こえていたとすれば、、、

時間の魔法が寂しさを癒やしてくれることになるが
フト思い出すと熱いものが滲んできてしまう

今は平和な世界で暮らしていて欲しいと思う

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「指揮者の使命」を読んで

2024年02月26日 09時28分32秒 | 

自分が羨ましいと思う能力は2つある
一つは抽象的な数学の式から宇宙の成り立ちを想像することのできる能力
もう一つはフルスコアから音響のみならず、作曲家の意図を読み取る能力

前者の能力を持っている人は、いつまでも正解が見つからず
本当は苦しくて仕方ないかもしれないが
後者はいつも音楽と接していられるのでとても幸せになれる能力と思える

ピケティの本の前に読んだのが「指揮者の使命」ラルフ・ヴァイケルト


指揮者と言われる人々は何を感じ、何を考えているかを文章で説明している
自分はスコアから音響を想像することはできないが、時々スコアを見ながら
音楽を聴くことはある

その時に感じるのは、スコアを見ている時の音楽と見ずに聴いている時の
音楽の印象が少し違うように思える
大好きなブルックナーの8番をスコア無しで聴いていると
作曲技術的なことには関心が払われず、それでも時々フトこのフレーズは
あの主題の変形か、、、などと思うことがあるが
スコアを見ながら聴いていると、そこに記された膨大な記録、もしくは構造物の
(それらは時間がかかって作られたものだろうと想像できる)
緻密さに驚いてしまう

指揮者は音がなっていなくても、自分の頭に音を想像することができる訳だが
それだけでなくテンポ、強弱、休符の意味等を自分の頭で作曲家の意図を探そうとする

指揮者は世間的には支配者のような存在と思われそうだが
現実は、いつもテストされている存在のようだ
それはオーケストラのメンバーはもう何度も演奏していて曲の隅々まで知っている
そこに例えば客演指揮者として登場するならば、オーケストラメンバーは
指揮者としての能力を疑いながら接するにことなっても不思議ではなく
実際に練習時に言葉による音楽の解釈とか指示をして、それで初めて認められるようだ

この本は現場での準備や、起きていることを一般人にも伝えてくれてるのだが
指揮者というのは傍目から見るよりはしんどそうな職業に思える

それでもやはり羨ましい能力の持ち主たちと思えてしまう
素人は、その特別な能力の持ち主たちの心情を
少しでも分かることで我慢するしかないかもしれない



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実感として分かるようになっているピケティの本

2024年02月25日 16時47分48秒 | 

今年アマゾンから仕入れ、読み終えた三冊目がこの本
「自然、文化、そして不平等」トマ・ピケティ著

この本は講演会をまとめたもので、比較的わかりやすい内容だった
所得格差、資産格差、ジェンダー格差などを
世界の国のデータを拾ってグラフ化したもので紹介されている

ピケティの基本的な立ち位置はシンプルで「格差があることは良くない」
の一言で表せるかもしれない
「21世紀の資本」でもその主張はあったが
年々その傾向は強くなっている気がする

世界に存在する不平等は少しづつ訂正されつつあるものの
全般的にはまだまだという感じだが、少しづつでも良くなっていくことから
悲観的な見方をするものではなく、なんとかするべきものと考えているようだ

この本を読んでいると少し前に読んだ「資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか」
を思い出した

ピケティが心配する不平等は(特にジェンダー的なもの)資本主義から
生み出されるものかもしれない、、と想像が働いた
そこには(例えば植民地における)搾取どころではない収奪
という残酷な事実が存在したかのようだ

こういう本を読むといつも思うのは、なぜ日本にはこういった視点で
書かれる本がないのだろうか?という点
全人格的に「良い悪い」の判断に従ってあるべき姿を求めるような本が
ないのが残念だ

国家として大事な教育について、いろんな国は小中学校だけでなく
大学等までも補助金等を支給している
しかし、実態としてその補助金はお金のある家庭に回されることになって
親ガチャで外れてしまった人には行き渡らない
その実態から現実的な対応策を考えるのが国という組織だが
この点で日本はどうなんだろう?と思ったりする

本を読むということは、自分の様々な経験が感じ方に反映される
あのことか!と感じる部分が多ければ多いほど、
その本を理解できるようになる

その意味では、自分もこの手の本を読んでも理解できる
ようになってきたようだ
尤も、その理解は深いものとは言えないかもしれないが


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無条件では信じられないこと

2024年02月25日 09時56分52秒 | 養鶏所騒動

ある年の2月15日、ある企業が市に土地の売却を申し出て
同じ年の7月15日には売却価格、約4億8000万円の
半額が支払われた

これだけ大きな金額、行政は手続きを踏んだと言われるが異様に速い
と思えるのは偏見のせいではないと思う

急いだと思われるまず第一の理由は、市にとっては購入の予算取りが
通常の定例会ではなく急遽臨時議会を開いて行われているからで
行政は臨時議会はこの案件のためではなくコロナ対策費用の使い方
についての案件のついでに提出したとしているが
なぜ6月議会まで待てなかったのだろうかの疑問が残る

不動産鑑定をする条件付きで可決された臨時議会の予算案は
6月には不動産鑑定が出ており、その価格で購入して良いか否かが
議会に諮られた

議員さんに配布された資料の中には不動産鑑定の書類もあったようで
(全議員がそれを持っているのではないかもしれない)
そこには、不動産鑑定の評価値を出すための比較対象とした土地が
新城市が1箇所、豊川市が3箇所となっていたことがわかった

そこに違和感を感じたことや、土地の面積等の間違いがあったために
もう少し良く検討してから議決したほうが良い!とする意見があったが
よくあるパターンでこの購入は市議会で可決された

そして土地購入は仮契約から本契約となり、本契約には
半額が直ぐに支払われることになっており、支払われた

5億円近くのお金が5ヶ月で一気に判断されたのは
もしかしたら、その価格以上に変なことかもしれない
と最近思うようになった

不動産鑑定は一社の随意契約で行われた
高額な委託料になると予想されたので、普通なら入札というシステムを
用いると思われたが、委託料は「公共事業に関わる不動産鑑定報酬基準」
に基づいて決められるので、どの企業が受注しても金額は同じなので
価格の競争入札にはなじまない、、との理由で信頼がおけるところに
依頼したことになっている
(これは表になっていて、不動産鑑定をした結果〇〇万円なら委託料は△△万円とわかるもの)

不動産鑑定はこうしたことから、どこでも随意契約なのかな?
と疑問を持ったので不動産鑑定の契約状況をネットで調べてみると、
そんなことはなく、カウンターと言われる入札で決められることは少なくなかった

市がお金を使う場合は議会の承認が必要で、不動産鑑定の委託料も
議決されなければならない
ところが、先の「公共事業に関わる不動産鑑定報酬基準」を用いるとすると
委託料は不動産鑑定を行った後にしかわからない
やってもいない不動産鑑定、表を使用するとしても、やってから分かる数字を
やる前にどうやって委託料を算出したのかと疑問を覚えると
行政は先方からの希望売却価格を伝えた、、としている

ここで一般的な取引を想像してみる
契約書は甲乙互いに同じものを持つが
現実は、その契約書に書かれていないニュアンス等も伝えられている
(今回の場合、訴えた側にこの手の仕事を生業としている方がいて
その方は、担当者と細かな打ち合わせをするのが通常としている)
つまりは肝心なことは書類ではなくて、記録に残らない会話で伝えられる
可能性があるということだ
(そしてこの意図を汲み取る能力こそが営業能力と言えるかもしれない
 現実が存在する)

このときの不動産鑑定は通常では提出されない速報値というものが提出されて
それを元に先方の業者と協議している
(速報値ではなくちゃんとした結果が出てから協議すればいいのに
 これを急いでいないと言えるのだろうか)

今回の場合、無条件で信じられないことが2つある
一つは比較対照した土地が3箇所が豊川市だったことについて
鑑定時には比較できる場所はそれしかなかった、、ということ
そしてもう一つは、希望売却価格を聞いても
それは不動産鑑定に何ら影響を受けていないとすること
これらが額面通りには信じられない

それらを信じるべき理由が、これを行っているのは国家資格の持ち主で
公正に仕事を行うべき存在とされているというだけのことだ
(そんな理由が説得力を持つだろうか?)

だが難しいのは、この信じられないというのが
どうやれば妥当性のある疑問として他人に受け入れられるか?
という点

今回の場合は例外が多く、その一つ一つを注視していくと
段取りを踏んでいたとしても実態としての行為は限りなく異様
と思えることがあるので、それを指摘しても想像力の欠けた人には
伝わらないようだ

ということで、今回もまとまらない話
これは今までにも何回も繰り返している問題だが
なにか手はないか、、としつこく考え続けている



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ひねり出したが、、役立たないかも

2024年02月24日 08時51分19秒 | 養鶏所騒動

いろんな言葉を覚えていく
何か打開策はないか!(例の件)
と布団の中で考えていると、不意に知人が発した言葉を思い出した

それが「根抵当権」
事業をしている人や金融関係に携わる人には馴染のある言葉だが
一般人は聞いたことのない言葉だ
これが今関わっていることの参考になるかもしれないと思い
ネットで調べてみると、思いのほかいろんなのが出てくる

どうやら金融機関からお金を借りる際に使われる言葉のようで
事業者はある金額の範囲内で継続的にお金を借りられる制度のようだ
この金額の範囲内というのが極度額というもので
これは金融業が決める数字のようで、全てに当てはまる訳では無いが
不動産を担保に決めることが多いらしい
(事業の可能性なども加味することもあるとか)

ここで実際にあった例をあげる
ある企業の根抵当権は3億5000万円だった
書類には土地の地番等が書かれていたので、土地を担保に計算されている
とも想像できた
一般的に根抵当権の極度額は金融業が評価した担保額に1.2〜1.3をかけた数字らしい
つまり、根抵当権の極度額かける0.8くらいが評価額と想像されるらしい

3億5000万円✕0.8 は2億8000万円
金融業はこの土地の価値を2億8000万円と見ているということか
でも、この土地は不動産鑑定の結果4億8000万円で取引された
金融業は2億8000万円の価値としているものを4億8000万円で
取引しているのは変だな、、と思うし、地元の人の土地の相場感覚は
あの土地はそんなに高額であるはずがない!との声が出ている
(ということは不動産鑑定額がおかしいのでは?と想像できる)

しかし、この理屈は一方的であるのかもしれない
金融業の評価額は不動産鑑定の評価額とはそもそも違う目的で算出されているので
そんなに簡単に断言できるものではないらしい

ということで、思い浮かべた理屈はあえなく使えないかのようだ
使えない理屈をこうして取り上げたのは、
自分は兎に角いろんなことを考えようとしていると
自分自身の記録として残しておきたかったからだ

今でも何かいい方法はないものか!と考えてしまう
あれだけ例外が多くて、異様にスピード感を持って行われた土地の購入
どうもスッキリしない、、



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怒りは問答無用!の理屈のせい

2024年02月23日 09時47分21秒 | あれこれ考えること

ずっと怒りを覚えている
それが何故かは自分では知っている
自分にとっては理不尽に思えて仕方ないからだ

この怒りは思い違いとか、思い込みとかに起因して
世間では通用しない自分だけの理屈かもしれないと思いつつも
どうしてもスッキリしない

話は変わって、真実相当性という言葉(概念)がある
自分はあまり関心のない世間を賑わかせている松本人志氏の
裁判では、文春はこの真実相当性を根拠に記事化したとしたら
名誉毀損には当たらないかもしれないという考え方だ

ネットで調べると
「真実相当性がある」とは、真実であると信じるべき正当な理由や根拠があることをいいます。
つまり、公共性があり、公益を図る目的であって、その内容が真実、または真実だと信じるべき
正当な理由や根拠があれば「名誉毀損罪」として処罰することが出来ないということです。

真実だと信じるべき正当な理由や根拠とは物的な証拠に該当するのだろうが
それ以外でも、文春がそう思うのも仕方ないな、、と思えることがあれば
(勘違いだとしても)それを記事化してもやむを得ない、、と自分は
勝手に解釈したが、おそらくそんなに的外れではないと思う

真実相当性は名誉毀損に出てくる概念のようだが、
似たような言葉の「真実性」という言葉をネットで調べてみた
日本語大辞典では
真実のこととして認められる性質。また、真実であるかどうかの程度。
とある
わかったようなわからないような説明だが、もう少し検索欄を眺めていると
どうやら会計の際の際に使われる概念のようだ

真実性の原則という言葉があって、そこには以下のような説明があった

真実性の原則とは「企業会計は企業の財務状態や経営成績について真実を報告するものでなければならない」とする原則です。この原則は、損益計算書や貸借対照表などの財務諸表において事実と異なる表示、いわゆる粉飾決算をしてはならないことを示しています。

企業会計一般原則 
1.企業会計は、企業の財務状況や経営状況に関して真実を報告しなければならない。


なんだか、どこかで見たような言葉だな
直ぐに連想したのは不動産鑑定のことだ
不動産鑑定の報告書のページにはこのような言葉がある

自己または関係人の利害の有無その他いかなるいかなる理由に関わらず
公正妥当な態度を保持し、専門職業家としての良心に従い、誠実に
不動産鑑定の鑑定評価を行った

きっとこの態度は不動産鑑定の基本原則なのだろうと想像する
それ故に、以下のような理屈が成り立つとされている

新城市は〇〇不動産に対し、〇〇養鶏場の売却希望価格を伝えているが
不動産鑑定士は、不動産鑑定評価等を業とする専門家として公認された
資格者であり、良心に従い誠実に不動産鑑定評価を業務等を行うとともに
不動産鑑定士の信用を傷つけるような行為をしてはならないとされているから
売却希望価格が本件鑑定に影響を与えたことはない

つまり、自分が違和感を覚える不動産鑑定の結果は
このような態度で臨んでいるから信頼できるものだと言い切っている

でも、それは本当だろうか?

ここで出てくるのが一般論と個別の扱い方で
行政は一般論として幾つかのステップを法に従って行う
しかし、その行為とか過程がそうであっても、よくよくチェックすると
異様に例外が多くて、その行為の実態は額面通りには受け取れないことがある

つまり、話を一般論で話すのではなく個別の事案として考えることが必要だと
自分は考える
粉飾決算は原則が上記のものであっても、社会には呆れるほど存在する
ならば、不動産鑑定評価にしても同じことが言えるのではないか
そう疑われて仕方のないようなことが、、起きていたのではないのか!
というのが自分の思い

原則的に真面目に取り組むとされているから信用できるとか
段取りをちゃんと踏んでいるから信用できるとか
(段取りを個別にチェックしていくと妙に例外が多かったりする)
そんなことで、問答無用とされるのは、自分は我慢できない
それは腹が立ってしかたない原因だ

ここでの思いは、何を言ってるかわからない人が多いと思われる
でも、自分の記録として残しておくのは、自分にとっても
他の誰かにも有益なことだと思いたい








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今年はこういう年か!

2024年02月22日 16時12分26秒 | ダイアリー

オーディオの不調に続いてお金がかかることが発生した
9年目の車の車検で、いろいろ悪いところが見つかった
そろそろバッテリーはヤバいし、エンジンオイルも替え時だし
冷却水も最近は妙に減ってるし、、
先ほど車屋さんからは他に2.3箇所悪いところがあるらしい
と連絡があった

どうしますか?
と問われても、新しい車は購入する気はないし
乗り潰すつもりでいるから修理するしかない

今年はどうやらこういう出費の重なる年のようだ
よく言われる「泣きっ面に蜂」状態なのだが
二度あることは三度あるというから、
もう一回何かあるかもしれない

仕方ない
こういう時はあるものだと割り切るしかない
スマホのアプリで家計簿をつけているが
今月は全くの赤字
年間を通せばトントンまでも持っていけるかどうか?

車は田舎では必需品だ
修理費用が嵩んでも、いつもは本以外には贅沢していないから
ま、良いか!と思うしかない

それにしても、、、今年は、なんて年だ!

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フォノイコは入院中

2024年02月22日 09時35分07秒 | オーディオ

今年になってレコードの音が右側のスピーカーからは聴こえるが
左側からは聴こえないない状態が続いていた
CDだとちゃんと聴こえるからレコード再生に関してのトラブルと想像できる

これは電源を入れてしばらくすると調子が良くなっていたが
とうとうそれではカバーしきれなくなった
多分、フォノイコライザーのせいだな、、と想像して
先日オーディオショップにフォノイコを持ち込んで修理の依頼をした

この見立て(フォノイコの不調)は多分当たっていると思う
レコードを聴くことが圧倒的に多い生活だが、
しばらくの間はCDを聴かざるをいないのはは仕方ない

レコードの音、CDの音、、どちらがいい音か?
というのはいろんなところで議論されているが
はっきりしているのは自分はレコードの音のほうが好きだということ

分厚くて、空気感があって、熱気までも感じられるレコードの音
所有数はレコードよりはCDのほうが多いかもしれない
この機会に、あまり聴かなくなったCDを聴こうとも思う

だがレコードの音に慣れた耳は、どうしてもCDの音に不満を覚えてしまう
でも、無理にでも聴かないともったいない、、と思い込もうとしている

入院中のフォノイコライザーはちょいと贅沢なEARの834P
医療費はどのくらいになるのだろう、、
はやく退院してほしいものだ

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こんな和歌送られたら、男は困りうそう?

2024年02月21日 09時09分13秒 | 徒然なるままに

男の日記は記録、女の日記は物語
何かでこんな言葉を目にした
なるほど、物語を作るのは女性がうまいのかもしれない
と勝手に納得した

源氏物語の作者、紫式部を主人公にした大河ドラマ「光る君へ」は
戦争シーンがないので安心して見られるが
困るのは登場人物の名前とか人物の関係性がさっぱり覚えられないこと

タレントさんが演じている人はどういう人だったのか
それがわからないと深く理解はできないが、横着者だから
そのうち分かる、、と放ったらかし状態が続いている

平安時代は和歌が重要な役割を果たすが、和歌も女性の歌のほうが
感情にストレートに響いてくることが多い
こんな歌を贈られたら困るなとか、つい惹かれてしまいそうになりそう
と思えるものがいくつかある

「あらざらむ この世の外の 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
和泉式部のこの歌、こんなの送られたら平静を保つことなどできそうもない気もする
「長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ」
待賢門院堀川のこんなのも、ちょいと答えに困りそう

平安時代より古い女性の歌で感情が動きそうなのが
「夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものそ」
大伴坂上郎女の歌、これもなんかストレートに響く

ところで今年の年女、紫式部の百人一首に収められた歌は
「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半(よは)の月かな」
少しばかり技巧的?で、自分は感情が動かわれるということはない

ライバルの清少納言は
「夜をこめて 鳥の空音(そらね)は 謀(はか)るとも
 よに逢坂(あふさか)の 関は許(ゆる)さじ」
これも感情に直接響くようなことはない(自分は)

それにしても、ただドラマとか物語を追っかけるよりは
こうした感性を持った人々の物語と認識するほうが
理解は深くなっていきそうな気がする

幸い現代はYoutubeで「光る君へ」の詳細な解説が多く出回っているので
それを見ていくとより楽しめる事になっている
自分も参考にさせてもらっている

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