パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

民主圧勝というよりは

2009年08月31日 06時13分10秒 | Weblog
自民党の大敗
いやその前に自民党は自殺していたのでは

今期の選挙、政権選択のうんぬんと言われていたが
正直な町の気分は「嫌自民」ではなかったか
とにかくフォットワークが重い
庶民感覚からずれている
既得権益から抜け出せない発想
それらは既に見抜かれ嫌われていたのに
それに気づかないとは

そもそも逆風の事実よりも
そうであるかもしれない可能性を読み切れない
人々の集団
残念ながらなるべくしてなった結果と言える

だがこの状況、実はもう一つ似たものが他にもある

それはテレビ局
妙にセンセーショナルな事件を煽ってみたり
横並びの番組で勝手に安心してみたり
番組表をみても見る気になれないものを送り続けたり
また一種の国権的な立場にいるような錯覚を
起こしている人物がいたり
その姿はある意味、自民党の姿とオーバーラップしないか?

物事が黎明期、成長期、成熟期、衰退期に分類されるなら
自民党は明らかに最後の時期に入っていた
そして、もしかしたら
テレビもその時期に入りつつあるのでは?
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選挙、行ってきました

2009年08月30日 07時46分51秒 | Weblog
先ほど7時20分頃
場所は近くの小学校
人口5万人強の小さな町の小さな投票所
先客(?)は、気のせいかいつもより多め

受付の机は3カ所に分かれていて
自分のところが一番人口が多い地区
通し番号におされたスタンプでの受付番号は58番
やっぱり出足は良さそう

この地区は昔は有線電話
今は防災無線で市内各地区の投票率が放送で発表される
さて今回はどこまで上昇するか?

しかし、投票率
いつも田舎の地区は高い数字を保っているけれど
町中と言われる地区は今ひとつ
いったい何故なんだろう?
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明日はマスコミの予想通りか?(感情はどちらを選ぶ?)

2009年08月29日 20時14分22秒 | Weblog
いよいよ明日は衆議院選挙
何年後には歴史の教科書に載るような一日になるか
それともまだ時は至らず!となるか
一般国民としても興味深いところだ

いずれにしても、この一日
自分はどのように判断したか後々問われそう
真面目に取り組まなければ!
(もっとも自分の腹は決まっているけれど!)

さて人は物事を判断する時には一般的には
理性によるものが冷静で好ましいとされる傾向にあるけれど
果たして本当にそうなのかな?

実生活の上では理性と感情が喧嘩をすれば
いつも勝ちをおさめるのは感情の方
これは多くの人も納得するところだろう

一見理性が勝って選択したように見えるものでも
実は最初に直感的なものがあって
それから理屈をつけるみたいなところが本当のところで
感情とか勘みたいなものは、時に大きな間違いも起こすが
割合正しい結論を下すのではないだろうか

どちらにしても本当に困難な判断を要求される時
多分理性では判断しきれないだろう
そんな時は運を天に任すとか
勘に委ねるというのは
ありそうな事で、大事なのはできる限り
その際の判断を間違えないようにする事

本当はこの判断ミスを起こさない為に
教養と言う人間性のベースになるものが必要で
ヨーロッパでは古典を学習をする事によって
判断力に磨きをかけていると言われるが(?)
さて我が国は何が損で何が得
何が効率が良いか等はしっかり問われるが
役に立つか立たないか分からないような
教養みたいなものはないがしろにされている

最後の判断を誤らない為に
それなりの地位にある人は
それなりの教養を持っていてほしいものだ

さて、そのそれなりの地位の人を選ぶ選挙
時代の雰囲気、勢い、潮目
それらは偶然に発生したものでもないだろうから
振り回されているようでも、実は自分たちが
知らないうちに引き起こしているムーブメントかもしれない

無意識の力、感情の力、勘
それらはこの閉塞感のある時代には
ある種の突破口になるかもしれない

さてこの無意識の力は
明日はどちらに傾くか?

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トップが代われば組織は変わるか?

2009年08月28日 21時09分53秒 | Weblog
サッカーの場合、
選手が同じでも監督、コーチが代われば
そのチームのカラーは明らかに変わる

自分が監督をしているチームは、どの世代、どの時代も
それ行けどんどん!的なチームになるが
現在のメインのコーチのチームは(この3年くらい)
一人一人の役割がハッキリした
かっちりしたチームになっている

選手自体は同じでも、ポジションの抜擢の仕方が違うだけでなく
普段の練習やかける言葉が違っているから
当然変わってくるというわけだ

話は変わって、ある流通業の話
既に店のカラー、社風が出来上がっているような店舗でも
その店長が人事異動等で代わると
しばらくすると売り上げ数字だけでなく
雰囲気、活気が変わるのも明らかな事実だ

「誰がやっても同じ!」
と選挙に参加しない人たちは、したり顔でつぶやくが
そんな事はないのが以上の例からも分かる

選挙、今回は政権選択の選挙
という位置づけだからどのように選ぶにせよ
まずは皆で投票しよう

残念ながらどこを選んでも我慢を強いられる事には
変わりなさそうだけれど
自分が選んだのだから仕方ないと思えば
少しは耐えられるかもしれないが
知らないうちに我慢を強制されるのは
腹の立つ事になるだろう

とにかく何もしないで愚痴を言う前に
自分たちのできる事をまずやり抜く
これが大事なのでは!


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人に心は、、、

2009年08月27日 20時41分37秒 | Weblog
期日前投票を利用する人が、前回に比べ大幅に増加したそうだ
このシステムに慣れてきた所為か
それとも今回の選挙に関心が旺盛な為か

たまたま今日自分とは異なる選挙区の友人と話した時に
この期日前投票の話になった
彼は明日から休みを取って家族でハワイ旅行に出かけるので
この権利を既に使ったとの事

そこで「誰に?」
と尋ねてみると
「人に頼まれたから~氏」
「比例区は?」
「やっぱり別の人に頼まれたから~党
 もっともそれだけが理由ではないけどね」

こんな風に頼まれる人は
彼に限らず日本国中に多くいる事だろう
しかし、頼まれたからといって
そのように返事をしたとしても
どれだけの人が守るのだろう

以前どこかの市長選では
選挙前には支援者とおぼしき人たちが
周りに接戦を予想させるくらいいたのだが
開けてびっくり玉手箱
結果は大差の負けで、あの応援の人出はなんだったのか?
と人間不信に陥るような事があったそうだ

そこまではいかなくても
支持者名簿への署名は、相対する候補者から知り合いを通じて
要請されたりするので、案外気楽にどちらの候補者にも
いい顔をして名前を書いたりする事が多いようで
支持者名簿の数を双方合計したら選挙人の数よりも多かったとか
(どこにでもありそうな話だ)

この支持者名簿の人数なんて、
ほんの気休めにしかならないのでは?
また会社や組織が~~を支持しているからといって
果たして要請された人たちはどれだけ守る事だろう

特に、自分で決めているタイプの人は、人間関係を壊さない為に
表面的には従っても実は、、、
てな事が多いのでは
(日本人にはこのタイプが多いのでは?
 これは人が正直であるとかないとかとは別問題だ)

一方いわゆる無党派層、何も決めていないタイプに人は、
選択に迷わなくていいくらいな気持ちで
割合口約束でも、してしまったらきっちり守る
みたいな人が多いかもしれない

いずれにしても、要は人の心の中は分からないという事
最後の最後、名前を書く段になってどちらに振れるか
神のみぞ知る?






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またまた最高裁判所裁判官国民審査について

2009年08月25日 20時11分56秒 | Weblog
昨日、選管から最高裁判所裁判官
国民審査の判断の元となる書類が届いた

さっそく自分の中で問題ありと
記憶しておいた人物の資料を見ようとした

ところが、彼の名は載っていない
もう一度丁寧にと眺めたがやはり載っていない

そこで今回審査を受ける人々の略歴を
とくに任命時期を眺めると
みんな前回の衆議院選挙後に選任された人ばかり

これが当たり前の事と知ったのはつい先ほどの事で
最高裁の裁判官は、任命後初の衆議院選挙で国民審査を受ける事になっており
既に前回の選挙の際に信任を受けたものは
10年間は再審査を受けなくてもいいということらしい

自分はみんな、その都度その都度国民審査を受けると思っていたが
大きな間違いで今回×をつけようとした裁判官は
既に前回了承を受けているから、
しばらくはそのままの地位にいる事になる

任期はないらしくて70歳が退任の時期らしい

自分が知らなかったと言ってしまえばそれまでだが
国民審査の判断材料として覚えておいたことは
実はあまり参考にならなかったのだ

ところでこの最高裁判所裁判官は
内閣が任命することになっている

ここのところが3権分立と言いながら
少し怪しそうな気がしてならない

政権与党が立法し
政権与党が内閣を組織し行政を行い
内閣が裁判官を任命する

それらは国民が分からない専門的な事だから
自分たちの代わりにやってもらう仕事なのだが
どうも国民が詳しく分からない事をいい事に
素直にキチンと、しっかりやっている
と思えないところが情けない


それにしても、どう考えても最高裁判所の裁判官
国民審査は単なる儀式に終始して
それにかかる費用がもったいないと思うのだけれど
何か他に良い方法はないのだろうか?
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判断材料として、最高裁裁判官のテレビ放映はいかが?

2009年08月23日 19時18分58秒 | Weblog
少なくとも現時点では我が家に
最高裁裁判官国民審判の判断材料となる
印刷物は届いていない

このような日程の不備からも容易に想像される様に
この最高裁裁判官国民審判というシステム自体が
単に形式だけに陥っている
と考えても何ら不思議ではない

以前にも苦情を述べたけれど
このいつか来るであろうたった1枚の
裁判官の代表的な仕事の経歴は
素人が読んでも何がなんだか分かりにくい

その判断の基準が、
理屈としての裁判の論理性が正しいかどうかなどは
一般の国民には多分分からない
国民が分かるとしたら直感的な人間性だけ
それもテレビ等のメディア等に登場していればの話で
現在のように裁判官の顔も何も分からないで
紙1枚でさあどうだ!
と言われても判断に困るのは当たり前

どうせ分からないから
儀式としてこなしてしまえ!
と考えるのは少しばかり危険なようだ

ジャーナリストの大谷昭宏氏が追求しているように
最高裁でも結構首を傾げる判決が下されるようだ
特に国を相手取った裁判は90パーセント以上が
負けになるとか

今までで痛い思いをした政治には
国民の代わりに難しい事を行ってくれる(?)
代議員制というものが、実はチェックがおろそかだと
とんでもない事になる
という反省点があるけれど
じつはこれと同じ事が裁判にもありはしないだろうか?

ただ問題点は、
政治の場合には総選挙で国民が審判を下せばいいが
裁判官の場合、システムとしては総選挙に似ていても
現実的にそのチェックを技術的に
誰ができるかが多いに疑問だ

技術論、整合性の問題
それらは国民には分からない分野が多い
ある面、全部が全部理解の上で運営される事自体が
無理なのだろう
しかし、少なとも国民は政治家の政見放送みたいなものを
最高裁判官にも適用してもらって
最低限その人となりを知るくらいの事は
あってもいいと思うのだけれど、、、

結局、政治も裁判も専門家に任せっぱなし!
というのは
現実的ではあるけれど、いろんな意味でリスキーということ?
それも仕方ないのかな?


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締めの言葉

2009年08月22日 06時17分40秒 | Weblog
前日のラジオ番組から
今度はビスマルク

「嘘をつくのは、狩の後、戦争の最中、選挙の前」

なるほどね

逃した魚は大きいとか
第2次世界大戦の大本営の発表とか

しかし、最後の部分だけは許さないようにしなくては
選んだ後もキチンとチェックしましょう
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自分との戦い

2009年08月21日 05時53分59秒 | Weblog
びっくりすると言うより、あきれて笑っちゃうくらい
桁外れのボルトの記録
(100メートル 9.58秒 200メートル 19.19秒)

インタヴューで
「苦しい練習に耐えたきた甲斐があった」
とあったが、
この言葉カール・ルイスが4冠とった大会の時も
同じようなことを述べていた

日本でも若干ニュアンスが違うかもしれないが
有森裕子が「自分をほめてあげたい」と
有名な言葉を発していた

その全てに共通するのは
「つらいことに自分は勝った」
という自分自身の満足感

自分との戦いとの勝利こそが
価値に値するもの!
と外野の我々にも分かるけれど
実際はこれがなかなか難しい

真に「自分はよくやった!」
と言えることが、果たして一生のうちに
何回あることか、、
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レコードカバー

2009年08月20日 06時07分37秒 | Weblog
本のカバーは使わないけれど
レコード、CDにはありがたく使っているのが
透明なビニールのカバー

店でも当たり前のように袋に枚数分だけ入れておいてくれるが
CDの場合はいいけれど、レコードの場合少しばかり使いにくいものがある
それは折り返しのある、袋状になって、糊のついたもの

この方がキチンときれいに保存できそうなのは分かるけれど
さて使ってみると案外面倒くさい

糊が入れようとするレコードに引っかかったり
(本体の方に糊がついているものもあるが
 それでも何かに引っかかりそう)
(素材の所為か?)カバーが折ってあるところから
切れてはがれてしまいそうになる

結局、こうしたものはシンプルな
丈夫そうな袋状になったものだけでいいのでは

これはいろんな事に言えそう
無理に機能を付けるよりはシンプルに
間違いや故障の少ないものにして
その分低価格に!
しかし、これではメーカーが儲からない?

だが、やっぱり、無駄なものはいらないな!
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