農家にとって、あるいは消費者にとってお米の適正価格はいくらなのだろう?
と言った本質的な問は一旦横において、生活者として実感すること
買い物は面倒くさい作業だが、自分は食品のそれは大して苦にならない
男に任せると変なものまで買ってくると評判の悪いこともあるが
あまり価格を気にしないで買ってくるから時にはヒット作もある
(最近は新城の特産らしい苺は同行者は購入しないが自分は見た目に負けて
購入してしまうが、それが案外満足感を覚えるものだった)
でも一緒に買い物をするようになると、自ずと商品の価格を覚える
そして価格がいつもより高かったり他店より高いと購入を控えるということはある
価格は頭に入っているから、購入するときはその価格が判断の元になる
お米は以前はセールの時は5キロで2000円以下のものもあった
高くても2500円位で買えた
それがいつの間にか高くなって平気で3000円オーバーとなった
それが今はどうだ
そろそろお米が終わりそうということで、3倍のポイントの付く昨日
水曜日に購入しようとすると、棚にはわずかしかない
しかもその価格は5000円台
いくらこれしか無いと言っても5000円では、、と購入の気持ちが萎える
だがそのお米はその店ではめったに見ることのない魚沼産の米だった
ブランド米だから仕方ない、、と思いつつも
こういうときだけ妙にブランド米の存在感が大きいような気がしてしまった
結局、昨日は地元スーパー、チェーン店、ドラッグストアを回って
気持ちよく変える米を探すことになった
ところが、行動は全く効果がなかった
つまりどこへ言っても価格は5000円台だった
こうなると思い出したのは、お米とうどんとパンのコストパフォーマンスのこと
一食のエネルギー換算をしたときのコストを比べると圧倒的にパンが安いらしい
これじゃ、少なくとも朝はパンにする人は多くなるだろうな
味噌汁を作る手間も省けるし、、
つまりはこうした環境変化でお米の消費量は縮小していきそうな気がしてしまった
お米の価格は複合的な理由から高止まりしているようだ
でも端的には政府はこの状態は結果責任があると思える
いろんな試みをしているが、それらは消費者とか生活者の感覚を考慮しない
あるいは現場の状況を把握できていないからと思えてならない
なんだかな、、こうしたところにも現代のこの国の劣化が見える気がする
それを容認してきたのは確かに我々庶民だが、、
それにしてももう少しまともな人たちはいないのだろうか、、と思う毎日
本当か怪しいかは、じっくり検討しなければならないとしても
生成AIの実力は大したものだ
時々よくわからない言葉や概念について参考のために聞いてみる
少し前まではChatGPTに聞いていたが、今では生成AIも
グーグルのGeminiがあるし、X(旧ツイッター)にもGrokがあるので
お試しに同じような問をこの3つで聞いてみた
大枠は同じような答えが返ってくるが、少しばかり違いがある
個人的な印象ではChatterGPTが一番安定した答えで
上手いことまとめるめるなあ!といつも思う
Grokはまだ情報の収集先が多くないのか、それともX上の
ネタが多いのかわからないが、ちょっと偏った感じがしないでもない
でもその情報源は何々と出てくるのは良い(いつもそうではないが)
GeminiはほぼChatGPTと同じような答えのような印象
文章はこんな感じだが少し前、上高地の河童橋のような絵を描いてくれ
と依頼したことがあった
数秒後、出来上がったものは、とてもヘンテコな絵だった
橋はあるが、それ以外の背景が全く日本的ではなかった
やたらと賑やかくて日本人としてはなんか落ち着かない気分になる
少し変更を依頼してもそのトーンはあまり変わらなかった
情報収集したものを反映するので、いわゆる日本的な光景のデータは
少なかったのかもしれない
今の学生はこうした現実を踏まえて、提出書類は上手くこれらを
利用しているそうだ(今年卒業した甥の話では)
ほんと、すごい時代になっているものだと実感すると同時に
自分の考えはこうと言い切れる何かが必要と思えてならない
昨日の夕刊に京都の葵祭の記事があった
「光る君へ」の去年より前の2019年5月15日に
御所に臨時に設けられた観覧席で約1時間を要する雅な葵祭の行列を見た
祭りの行事というものの行列が過ぎていくだけで、最初はつまらないものと思い込んでいた
だが、予想に反して思いのほか面白かった
いろんな服装・職業の人たちがいてそれがきれいなのと、歩きにくい履物を結構なスピードで
歩いているとか、奇妙な傘のようなものを持ったり、髪に葵の花を飾っていたりで
つまりは普段目にしないようなものを見ることは飽きることはなかった
この日の主役は斎王だが、ずっと座ったまま平気でいられる人で、衣装を用意する資金に
問題がない人が選ばれるらしいが、さすが京都、そのような条件に合う人は少なくないらしい
葵祭を見ようとしたのは「源氏物語」で葵上がこの行列を見るために牛車で出かけたが
見物する場所の取り合いで諍いがあって、屈辱的な思いをしたエピソードを覚えていたからだ
自分たちが座った座席の辺りで見やすい場所どりで行ったのだろうか?
と想像を膨らませた
実はこの年の3年前の5月1日、上加茂神社に出かけていた
そこでは5月5日に行われる競べ馬の予選のような行事が行われていた(足ぞろえ式)
乗馬しにくい鐙で、氏子の若い男が結構なスピードで走る馬に乗る
彼らは半年以上前からその訓練をしているらしいとのことだ
競べ馬は西行(佐藤義清)も経験したらしく
それを思うと何年も続いていることは簡単なようですごいな、、と思う
京都は本当に奥が深い
京都には老舗ばかりの組織があるらしいが、それに参加する企業は数百年続いている
ところが大半らしい
その中に笹屋伊織というお菓子屋がある
有名なのが「どら焼き」で、これは普通見かける丸い「どら焼き」とは違う
あん巻きみたいな形状で、販売されるのは毎月20、21、22日となっている
これは東寺の坊さんから副食合うものを作ってもらうように依頼されたのだが
つくるのに手間がかかるので弘法さんの月命日に合わせて21日だけ作ったのが始まりらしい
6年前の葵祭を見に行った時は、出張販売でこの「どら焼き」があったので
この機会を逃すはずもなく手に入れた
そして妹たちにもうんちくを語ったものだった
経済学はやや楽観的な前提で成り立っているとの指摘がある
「神の見えざる手」は、それに関わる人間が道徳的であるとか
他の分野では、人間は合理的な判断を行うという前提で理屈が進められる
だが自分たちが目にするのは、そうした前提はあまり当てにならない
という現実だ
人は必ずしも道徳的ばかりではないし、合理的な判断をするものでもない
(個人の損得が道徳より優先するとか)
宝くじの期待値は半分くらいで、実際のところ儲かるのは胴元で
大半の当たらない人のお陰でこの制度は成り立っている
自分はこの期待値ならば挑戦しないほうが合理的と思う
しかし、宝くじが当たらないかな、、と思うことはある
(今までに宝くじを購入したことは2.3回しか無いが)
それは自分の気持ちの変化を確認したいと思うからで
自分はもし一億円が当たったなら、その半分くらいは寄付しようと
漠然と思っていた
自分はそんなにお金に執着心がある方ではないし
今は特別に何かが欲しいものがあるわけではない
歳もそうだし、田舎なのでそんなにお金の必要性は感じていない
そんなことなら、少しは社会に役立つことに寄付しよう
と漠然と思うわけなのだが
でも、当たったら果たしてそれが実行できるかについては少し自信がない
いざ目の前に多額の金額があるとすれな、それを手放す(寄付する)ことは
本当にできるのか、、、と想像してしまう
これを実際に経験することになったならば
エイヤッと寄付できるか、それとも執着心を持つか、、
自分自身をチェックしてみたい気がする
何事もその立場に立ってみないとわからない
想像した世界と現実世界
それらが人の決断に及ぼす影響をちょいと確認してみたいと思う
最後になって、もったいないと執着心を起こすか
それとも気前よく寄付するか
どっちを選んでも自分は自分だと思うが
今は自分が自分を褒めるられる方に行きたい気分はある
ということで悩むまではいかないが
いろいろ馬鹿なことを想像するのは、結構面白い
久しぶりにお出かけしようかなという気分になった
候補は宗次ホール
今日はヴァイオリンのコンサートがある
プログラムはフランクのヴァイオリンソナタがメインで
他にモーツアルトとブラームスがある
チケットは手元にないが当日券が購入できたら
それで済まそうと思う
売り切れていたらあっさり諦めることにする
その時は、丸善に行って変てこな本を探して
アップルストアに行って気になることを聞いて
つまりは目的もはっきりしないお出かけというわけだ
たまにはこういうのも良い
自分は電車が好きだ
乗り鉄とまではいかないが、窓の外の風景を見て
ボーっとするのが気持ちいい
過去を振り返ったり景色から導かれる思いにふけったり
今覚えている電車の窓からの景色は
冬本番の時期に郡山から会津若松に向かう電車の中から
見えた弱々しい太陽の光に照らされた雪景色
それはシューベルトの冬の旅を想像させるものだった
(レコードとかCDのジャケットにあったような風景だった)
もう一つはドイツでヘッセの誕生の地カルフに向かう電車から
見えた霧に包まれた光景
不意に「霧の中」という詩を思い出した
ヘッセは頭の中で浮かべたのではなく、実在する風景からインスパイアされて
あの詩を作ったのかもしれないと思ったりした
あとは東北新幹線で仙台近くで見えたお墓の石が
こちらではあまりない黒い石が多かったことが印象に残っている
ところでヘッセの霧の中はこんな詩
霧の中
ヘルマン・ヘッセ詩 高橋健二訳
不思議だ、霧の中を歩くのは!
どの茂みも石も孤独だ、
どの木にも他の木は見えない。
みんなひとりぽっちだ。
私の生活がまだ明るかったころ、
私にとって世界は友だちにあふれていた。
いま、霧がおりると、
だれももう見えない。
ほんとうに、自分をすべてのものから
逆らいようもなく、そっとへだてる
暗さを知らないものは、
賢くはないのだ。
不思議だ、霧の中を歩くのは!
人生(いきる)とは孤独であることだ。
だれも他の人を知らない。
みんなひとりぽっちだ。
youtubeに全盛期の江川の投球がアップされている
見慣れたのものあるので、今はさほどに驚かないが
彼の投球を始めてテレビで見たときは衝撃的だった
春の大会で北陽高校だったかと戦った時
こんなの打てるわけがない!と素人がみてもそう感じた
観客も似た印象のようでバットにあたったとか
空振りせずに打球が前に飛んだだけで、よくやった!
といった驚きの声があがった
球速は今の機械と違うので数字的にはそんなに驚くほどではない
しかし、今でも頭に残っている印象は
打てっこない!と思わざるを得ない球筋だった
科学的に分析すれば、彼の投げるボールの回転数が圧倒的に多かったらしい
普通は引力でキャッチャー付近は減速して落ち気味になるのが
桁外れの回転のせいで落下せずにミットに収まったらしい
空振りのバットはほとんどがボールの下を振っていた
印象とか記憶は時間とともに美化されるものだから
今の速球を投げる人の動画を見ても江川と比較してそんに速く感じない
数字上は大谷とか佐々木朗希のほうが上でも、打てっこない!
という印象まではならない
よく記録に残るとか、記憶に残るとか分けて語られるが
江川は記憶に残るとんでもない速球を投げるひとだった
このブログをスタートしたのが2006年の4月6日
約19年、7000日が過ぎようとしている
Gooがサービス停止をするので、とりあえず引っ越しを考えることにした
引っ越し用のデータを作って、それを引っ越し先のブログサービスに
アップロードすれば良いようだ
当然のことながら引っ越し先のアカウントはつくらなければならない
これはアメブロにした
アカウントは簡単に出来たが、さて引っ越し用のデータの作成は
Gooからのアドバイスでは、4月、5月は混みそうなのでそれ以後に
したほうが良いらしい
ということで、もうしばらくはこちらでモソモソすることにした
途中まで出来ているブログの書籍化も時期を見つけて
最新のものまでしなくては
(去年の4月30日までは書籍化している)
面倒くさいな
当たり前にあったものがなくなるというのは
手続き画面だけでなく、何か寂寥感を感じてしまう
母方の祖父はメモ魔だった
メモの中身には母の(娘の)給与まで残されていた
ちゃんと残っていれば、当時(昭和20年代)の物価とか金銭感覚
の良い記録になっていただろうが残念ながら跡形もない
母は祖父の血を受け継いでメモ魔になっている
毎日家計簿をつけている(ついでもちょっとした出来事も)
ただし、一日の合計金額を計算していない
(わざわざ計算するのが面倒くさいとのこと)
祖父と違って祖母の方はのんびりした人で、せっかちな母は
家庭で行動的でない祖母を少し批判的に語ることがあった
でも、こちらのおばあちゃんも好きだった
本が好きで松本清張を読んでは「このきれいな女の人は犯人じゃない」
と独自の解釈を僕達に話しかけたこともあった
おばあちゃんと話しているとなんだか安心感があって
なんでも許してくれるみたいな気持ちになれた
不思議なことに母は祖母と同じことを繰り返すようになった
それは寝床でラジオを聞くこと
早朝になると祖母は毎日ラジオを聞いていた
嫁いだのでそのライフスタイルを知らない母だが
何故か祖母と全く同じことをしている
見て真似るのではなく、自然発生的に同じことをするのは
遺伝子のせいなのだろうか
父方の祖母は優しい人で大好きだった
自分は間違いなくおばあちゃん子だった
畑仕事が好きで、いちご、とうもろこし、里芋、じゃがいもを作って
季節ごとにそれらを食べさせてくれた
おばあちゃんが好きなのはキノコ採りだった
近所の仲間と早朝からワクワクしながら出かけて
夜はキノコ鍋を満喫した
今では滅多に見られないロウジを生姜と醤油をかけて食べるのが好きだった
おばあちゃんは好き嫌いのない人で、なんでも食べた
当時まだ珍しかったアボカドもカマンベールチーズも
「お前の美味しいというものは、本当に美味しい」
と言っていろんな食材にトライした
一見厳しかったみたいな父方の祖父も、子どもが大きくなって
会話ができるようになったころは、彼がスポンサーになってあみだクジをして
お菓子を買いに行くなんてことがあった(この話は兄弟が集まるといつもする)
ところで、自分はそうした遺伝子を少しは引き継いでいるのかもしれないと思う
今はスマホのアプリで家計簿をつけているし
本は結構好きだし、食べ物は好き嫌いがあまりない
子どもとお話するのも好きだし、、、
家計簿は今だけでなくずっと昔もつけていた
昔、ドイツをふらふら回った時の手帳が手元にあるが
1ページ毎にその日使った明細が書かれている
なんでこんなに毎日お菓子を食べていたのか?
と思うほどケーキとコーヒーの項目が目を引く
ということで、毒にも薬にもならないことを思い出した
昔はどの家も鍵なんかかけてなかった
子どもたちが勝手によその家に入ったりしていた
それが今では、、、
同居人が昔を思い出して口にする
確かにそうだった
自分も子どもの頃、よその家に上がった記憶がある
テレビ番組の「白馬童子」は近くの家でその家の家族と
こたつを囲んで見させてもらった
申し訳ないなあ、、という気はあまりしなかった気がする
お互いがそれが当たり前のことのようにしていた
今年は昭和100年の年
鍵をかけていなかった頃は、みんな裕福ではなかった
車も洗濯機もなかった
みんなそうだからよそと比較することもなく
未来は良くなるものと漠然と信じていた
そして、今振り返るとなんとなく心に余裕があった
それが今はどうだ
人を信用しすぎると時には被害を受ける!
が当たり前になって、自己防衛するしかなくなっている
こうして昔を懐かしがっていても生産的でなないが
それでもここまで人間の心が壊れてしまっている事態には
どこか危機感を覚える
選挙ポスターを現時点の法に抵触していないからといって好き勝手に扱う
人の善悪を勝手に断定し、人格否定したり貶したり
それが表現の自由の範囲内と正当化する
なんでかなあ、、
そんなことしなくていいのに
難しいことはさておき、単純にそう思う
もう、穏やかなのんびりした世界は求められないのだろうか
将棋の藤井聡太さんは22歳にして早くもタイトル獲得数が28期
一生かけて一つも獲得できない人が棋士の多い中
不公平なくらい、残酷なくらい偏っている
棋士のピークは通説では27歳前後らしい
これは同じ勝負事の囲碁でも似てるかもしれない
囲碁のタイトルを独占し国民栄誉賞を受賞した「魔王」
との渾名がある井山裕太さんは現在35歳だが
囲碁の最高峰のタイトル戦で27歳の一力遼さんに
3−4で逆転負けし棋聖復活はならなかった
将棋も囲碁も今はYoutubeで戦いの様子を見ることができる
棋士の解説があるものや、AI予想とか形勢判断を%で表しているものもある
井山さんは、昨日の最終戦も、その前の対局も終盤近くまで勝勢だった
しかし、それがあっという間にひっくり返った
囲碁も将棋も「敗着」と言われるものがある
勝着ではなく敗着 言い換えればミスで勝ちを失う
この敗着の可能性は多分歳を重ねると多くなっていくように思われる
そして7番勝負などではこの敗着は精神的にあとを引くと想像される
それは集中力の維持を含めた体力的な問題とアイデアの瞬発力の低下
のせいではないだろうか
囲碁大国の中国では成績上位の棋士はやはり若い人が中心となっていて
囲碁はスポーツのカテゴリーとして捉えられているそうだ
スプリント系のスポーツはどうしても年齢による低下は避けられない
サッカー選手としても寿命はそんなに長くない
35歳はもうベテランの域で、フルタイムで使われることは少なくなっている
年齢による総合的な力の低下は、経験でカバーしきれれば良いのだが
現実の勝負の世界ではどうもそういうことにはならないようだ
どうやら経験の分野はAIによってだいぶカバーされていると思われる
生きていれば誰でも年齢は増えていく現実は変えられない
かつて年上の棋士を次々と破っていった棋士も
今度は年下の棋士にかなわなくなっていく
それは大相撲力士が若手に勝てなくなっていく様子と似ている
井山さんも自覚しているように年齢との戦い大きな問題となっていくだろう
ところで若い時にピークを迎える能力は、スプリント系のスポーツの他に
数学的なひらめきもそうらしい
(ガロアは20歳頃には既に画期的なアイデアを思いついていた)
ノーベル賞を受賞した科学者も、調べてみると対象となった研究とかひらめきは
若い時のものが多かったようだ
若いということは、このようにとてもいいことのように思えるが
それでも年齢を重ねると良いものもある
それは経験によって深みを増す思索とか音楽表現
受け手も年齢を重ねないと感じられないような何か深いもの
そしてそれらは、若いひとのひらめきと同様に大きな価値を持つものと思われる
年寄りの小言は、いつかわかる!
最近は無理矢理にでもこう思うようにしている
それにしても勝負の世界というのは、厳しいものだなとつくづく思う
AIによる形勢判断では圧倒的に不利で、多分本人も自覚しているなかでも
最後まで勝利を諦めない精神力というのは、
一力さん、芝野虎丸さんを始めとするプロは本当にすごいものだと思う