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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

悔し涙

2025年08月20日 10時41分21秒 | 徒然なるままに

愛三岐の人には馴染のある番組がCBCの「天才クイズ」
小学生がCBCのスタジオに集まって
イエス、ノーの二択の帽子を被って全問正解の天才目指して
大きな被り物の博士のクイズに答えていく番組だ

しばらくなかったこの番組が復活している
夏休み期間だけの限定かもしれない
クイズ好きの同居人が楽しみながら見ている
タレントさんの答えるより子どもたちの表情を見るほうが楽しいらしい

先週の土曜日の番組で3問目か4問目で答えを外してしまった女の子がいた
進行係のタレントさんが声をかけたが、彼女は涙を浮かべていた
それこそ感情はそれでいっぱいいっぱいの感じだ
「悔しい」と声を発したが、そのことでますます感情はコントロール
できなくなったようだ

それを見て「かわいいなあ」と笑えてしまった
単純にちょっとしたことに夢中になって、負けることに悔しいと思う姿が
とても子供らしくて、昔子どもだった大人はどこか心洗われる気持ちになる

少年サッカーのコーチをしていた頃、スタッフの仲間の共通の思いは
「負けた時に涙を流す子どもたちの姿を見たい」だった
公式戦で負けても淡々としていて、しばらくすると負けたことすら忘れているように
無邪気に遊んでいる姿は、コーチ陣には物足りなかったのだ

でも一度だけ、負けて涙を流すシーンを見たことがある
豊橋まで出かけていった試合でのこと
展開とか流れは覚えていないが、今は小学校の先生をしているサッカー大好きの彼は
(高校はサッカーが強いとされた高校を選んだ)
試合が終わったあと、涙を流した
いつものように淡々としているものと思っていたので、この光景は驚いたし
その涙につい心動かされて、自分も涙が出そうになった

彼は一生懸命プレーしただけに悔しかったのだろう
全力を尽くしたからこそ、それが報われないことの理不尽さに感情がついていけなかったと思う

でも負けることは生きていくうちに経験する大事なことだと思う
全力を尽くしても負けることがあるという理不尽さ
それでも自身の前に進まなければならないこと
コーチの立場からすると、試合に負けたのはどの部分のせいと分析し
次に活かす練習の発見になる

負けに慣れてしまうこと(精神に対しても常態化すること)は怖いが
勝ち続けっぱなしというのも、天狗になりそうで怖い!
と思ってしまうのは小心者だからだろうか

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いつか思い出してくれたら

2025年08月07日 09時01分59秒 | 徒然なるままに

時の流れは不思議だ
相対性理論ではないが自分の時間の流れはとてもゆっくりしているが
子どもたちの時間の流れはものすごく速く、そして変化している

自分にはとても大切にしている楽しい写真がある
月曜日と木曜日のあいさつ推進運動で、近所の子たちと
小学区の校門まで歩いていくことになった年のこと
4年と1年の姉弟が家のチャイムを鳴らして
「遊ぶ時間ある?」と聞いてきた

退屈を持て余していたのでそれに応えたのだが
そんなことが数回あった
かくれんぼをした時だったか別の時だったのかは忘れたが
二人は地面に水で絵を描いたことがあった
そこには「おじさん」の文字があった

 

まるでミロの絵のようだ
子どもたちにはこう見えているのか、具体的に描けないだけのことか
いずれにしても、とても心惹かれる絵だ

この絵を思い出したのは、お姉ちゃんが今年、新城市の名物
「若者会議」のメンバーになったのを知ったためだ
あんな無邪気な女の子が、社会的な問題に関心を持って活動するようになるとは、、
彼女は中学校の卒業の寄せ書きには「自分に意見を言える人間になりたい」
と書いてあったことも思い出した

女の子の変化は激しいので、街で会ったらそれがきっと誰なのかわからないと思う
だから今5年生の子に(小学校まで歩く間に)「大きくなっても道であったら挨拶してね」
と頼んだりしているが、彼女は「わからないなあ」とあっさり答える
大きくなったら恥ずかしさとか面倒くさいとか、、そうした気持ちになるかもしれない
と想像しているらしい

もしかしたら子どもたちには忘却の中に消え失せてしまうかもしれない出来事
でも、覚えている方にとってはとても楽しく大切な出来事
昔こんなことがあった
と、子どもたちがいつか思い出すことがあったら
それもまた嬉しい出来事だ


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本の片付けは苦手(こまめにやっておけば良いのだが)

2025年08月03日 08時59分05秒 | 徒然なるままに

毎年、年末の大掃除に思うことは、常にこまめにやっておけば良かったということ
それは本に関することなのだが、読み終えた本が積んだままほったらかしになっていて
自分でも見苦しいなとは思う
大掃除のときは本を右から左に移すだけで仕事をした気になっている
(それでも少しはスッキリした気もする)

積んだ本が多くなっているのは、本棚に収まらなくなっているからで
同居人から「また本、、」とアマゾンから届くたびに不平の声が聞こえるか

本の整理整頓は面倒くさがりの自分は苦手だ
最近は、増えすぎて手放して良い本は図書館に届けている
図書館は全て収容してくれるとは限らないので
どう処分しても良い!との条件で受け取ってもらっている

手放していい本、手元においておきたい本
この選別はなかなか興味深い
手元に残しておきたい本は、読んで良かったと本はもちろんだが
読もうとしたが手に負えず諦めた本も手元に置きたいと思う
それは敗戦の記録として、そしてどんなことを自身は求めて読もうと(探そうと)
したのかがわかるためだ
その敗戦の記録は実は恥ずかしいというよりどこか誇らしい気もする
読んでいないけど、読もうとしたその気持が、自分で自分を褒めたい気もしている

今月の「100分de名著」はフッサールの「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」だった
フッサールの本は一冊所有していてそれは「イデーン」
正直何がなんだかわからなかったが、なんか面白いぞ!と感じたのは覚えている
最後まで読めたかは記憶にないが、NHKの番組を見て、その説明を聞いていると
「確かにそのようなことは述べられていた」と思えた
とすると、思いのほか自分の読み方理解の仕方は正しかったのかもしれない
と少しばかりの自信をもった

読めずにいた本はたくさんあって
ライプニッツ全集10冊、西脇重三郎全集10冊、メルロ=ポンティの本 数冊
サルトルの分厚い「実存主義とは何か」、キエルケゴールの初期の本2冊
シュペングラーの「西洋の没落」、トーマス・マンの「ファウスト博士」
ヘーゲル「精神現象学」これらが敗戦の記録だが、まだまだ他にも多くある

それにしても本棚から出したら出しっぱなしが一番いけないのだろう
何かをちょっと確認するために引っ張り出した本は、用が済めばあった場所に戻せば良いのだが
これがなかなかできない
そのうちにまた見るかもしれない、、と思い、元の場所に戻せないのだ

それでもこの夏、放ったらかしの本たちは流石に暑苦しく見えてきた
そろそろ何とかしないと、ゴミ屋敷っぽくなってしまうかも

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シッダールタ

2025年07月31日 09時11分46秒 | 徒然なるままに

多分、一番好きな小説家はヘルマン・ヘッセだ
彼の作品のなかでも「シッダールタ」(特に最後の河のシーン)は

涙なしには読み終えられない

内面へ道と題された同時期に作られた「デミアン」と「シッダールタ」は
自分自身に至る道を「デミアン」は西欧的な視点から「シッダールタ」は
東洋的な視点から真正面から取り組んでいる

横道にそれたり、人から見れば馬鹿げたことをしたり
つまりはしなくてもいい経験を重ねても
自分自身に真摯に取り組むことは、聖人の近くで教えを学ぶよりも
真の覚醒へ至ることをこの作品で示している

この「シッダールタ」を舞台化されたものが草彅剛、杉野遥亮、瀧内公美などの出演で
東京 世田谷パブリックセンターで11月15日から12月27日まで行われる
これはXの情報で知っての、ものすごく行ってみたい衝動に駆られたが
今は家を空けるわけにはいけない環境下にあるので、諦めるしかない
(せめて名古屋なら終了後すぐに戻れば、良いかもしれないが)

「シッダールタ」を演劇化した人は自分と似たメンタリティの人ではないか!とつい想像する
この作品から何かを感じて、それが意味あるものとしてそれを形にする
それが使命感のように感じる人には、確かに「もう一人の自分がいる」と思えてならない

そういえば小説を演劇化したものは豊橋で見たことがある
「カラマーゾフの兄弟」がそれで、浜畑賢吉がアリョーシャ役だった
覚えているのはそれだけで、ちょっと情けないが「カラマーゾフの兄弟」はその後映画でも見た

東京の人はいいな!
とコンサートや演劇の情報を見るたびに思う
非日常の空間が当たり前のように存在するところ
それらが社会的にどう役立って、意味あるものかはわからないが
それでもある分野に真摯に向かって取り組んで、より完成形に近づく努力をすることは
きっと、意味あるものだと思う(思いたい)
そしてその過程を、観客として追体験することは同じように意味あるものと思う

演劇の「シッダールタ」運が良ければ地方公演があるかもしれない
それを期待して待ちたいと思うが、さて、、、

舞台「シッダールタ」

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アメブロとはてなブログ

2025年07月26日 08時39分06秒 | 徒然なるままに

GOOブログのサービス終了に備えて、5月にアメブロとはてなブログに
データの引っ越しを行った
いきなり、ここからおさらばするのは寂しいので、
今はこことアメブロとはてなブログに同じものをコピペで投稿している

アクセスとか反応を見て、自分にあっているのはどれかな?
と気になるところだが、アメブロはどうも軽い話題とか商売に使おう
とするひとがどうも多くて、自分のような面倒なものは
人に役に立たないという評価か、レスポンスは寂しい限りだ
(どうも女性向けのような気がする)

はてなブログは真面目なものも多くて合いそうな気がするが
現時点では目も当てられないアクセス数

でも、ボケ防止のアウトプットとしてボチボチと自分のために
もうしばらく継続しようと思う
ここでの投稿は、そろそろおしまいにするかも

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セミの思い出

2025年07月25日 08時20分38秒 | 徒然なるままに

何かをするなら朝のうち
昇る太陽の眩しさを感じながら、近くのお寺さんへのお墓参りは
防虫剤を腕にかけてさっさと済ますことにしている

お寺さんには大きなクスノキとイチョウの木がある
今日は昨日より蝉の声が大きかった
(時刻が昨日より少し遅かったせいかもしれない)
蝉の声も一種類ではなく、少なくとも2種類は聴こえた
なんか競っているかのように聴こえる

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」
大きな音が岩に音がしみ込んでいき、それはまるで静寂
やかましいと思うより、静寂を感じた芭蕉はすごいなと不意に思う

蝉の声を覚えている光景が2つある
一つは子供の頃、急に親戚が集まって佐久間ダムに行くことになった
ダムを見終わって坂道をみんなで歩いていた時、聴こえたのは圧倒的な蝉の声だった
佐久間ダムの記憶は、この蝉の声の記憶だけと言えるほどだ

もう一つは夏といえば山に行っていた頃
白馬の登山口の猿倉に向かうバスの中で、猛烈な蝉の大合唱が聞こえた
これは静寂どころではなかった
まさに蝉時雨、、アメリカでは素数蝉の大量発生で生活に支障が出てくることがある
そんなニュースを思い出した

蝉は何を考えて、感じて生きているのだろう
とフト頭に浮かんだ(彼らが地上にでて生きている時間は一週間だとか)

十年程前、まだ今よりは柔らかい感性があったころ
セミをモデルとした短いメルヘンのようなものを作った
自分が創作したその類は「春の夢」「目の見えたモグラ」「セミと風鈴」「イルカのエリア」で
はじめの2つは20代の頃 後半の2つはそれなりの年齢での作品だ
(このブログの創作したものにのカテゴリーに含まれている)
知人に「セミと風鈴」を見せたら、彼はそれに触発されて水彩画を描いたことがあった
(地域の文化祭にその水彩画は出品された)

ということで今日は、「セミと風鈴」をここで紹介することに

メルヘン セミと風鈴(2014年)

 

セミは少し悔しかった
今も小さな女の子のつぶきが耳に残っている「涼しそうな風鈴の音。とても気持ちがいいわ。
でもセミたちはなんて賑やかでうるさいこと、どうしてあんなに必死に泣き続けているのかしら?」

その林道の中腹には小さな古びた休憩所があった。
旅人は疲れた体を休め、眠りについたり、時には食事をしたが、その軒先に風鈴が吊るしてあった。
風鈴は日が傾き始めた頃、チリンチリンとなった。

「ほう、いい音だ。」
年老いた旅人がつぶやく。
セミはそのつぶやきを耳にした。

セミは「羨ましいなあ。自分の鳴き声があのように褒められるようになりたいものだ」
最初は何気なく思っただけだった。が、そのうちに褒めてもらえる鳴き方をすることがとても大事な、
もしかしたら生きているうちで一番大切なことではないかとも思うようになった。
そして、そのためにはどんな努力もいとわないと考えるようになった。

それからは前にもまして、体全体を震わして大きなで声で鳴くのだった。

朝から晩までセミは鳴き続けた。
近くの木に止まったセミが助言した。「そんなずっと鳴いてばかりじゃ命がもたないよ!」
セミは頷いたが、全力で鳴くことをやめることはしなかった。
美しく鳴く、ただひたすらそれを求めて。

来る日も来る日もセミは鳴き続けた。
そんなある日、太陽は見えなかったがひどく蒸し暑い一日があった。
休憩所に入り込むと旅人はみんな首元、額の汗をせわしく拭きとった。

セミはいつもよりは疲れるような気がしたが、それでも力を振り絞って鳴いた。
そのうちセミはいつもと違うことに気がついた。風鈴の音が聞こえない。先程からずっと静かなままだ。

そのうちある旅人が「こんなところに風鈴が吊るしてある。それっ」と言って、
風鈴に向かって団扇を扇いだ。すると風鈴はいつもの様にチリン、チリンとなった。
「音だけで涼しくなれるようだ。本当にいい音だ。」

旅人は今度は少し強めに風鈴に向かって風を送った。
風鈴はチリリン、チリリン。
そんなことを数回繰り返すとやがて飽きてしまって、また額の汗を拭い取るのだった。

ゴソッ。

セミの直ぐ下で急に大きな音がした。
下で一緒に鳴いていたセミの声が一瞬悲鳴に様に聞こえたと思うと静かになった。
樹の下では少年の声が聞こえる。
「やった。上手くやらないとおしっこかけられるけど、今のは大成功」
そういって捕虫網を得意げに引き下げた。別の少年が捕虫網の中を覗きこんでいる。
「でも、まだあそこに一匹いる、いそがないと逃げちゃう。」

少年が背伸びしてセミの止まっているところまで捕虫網を伸ばそうとするよりほんの少しだけ前に
セミは逃げることができた。風鈴が見えて旅人の話し声が聞こえる場所を離れたくなかったが。

そのうち少年たちは他の場所のセミを探しに足早に走り去った。

次の日、いつもの場所で鳴いていたセミは、今日も少年たちが捕虫網を持ってやって来たのに気づいたが
この場所は離れたくなかった。

「あれっ、あそこにセミがいる。昨日と同じ場所だよね。同じセミかな。」
「そんなことないだろ、違うセミだよきっと。それよりさっさと捕まえよう」
少年たちが自分に捕虫網を伸ばそうとしたのを確認するとセミは素早く木から飛び去った。
「ちえっ!まあいいや。別のところへ行こう」
少年たちは昨日と同じように場所を移してセミを探しに行った。

子どもたちは翌日も捕虫網を持ってやって来た。
今度は一人増えている。前日までの手柄話を新しく加わった仲間に自慢している。
「不思議なんだよな。またあそこにセミがいる。昨日も一昨日もいたけど、やっぱり同じやつかな」
前の日と違ったのは今度は少年たちはそのセミを捕らえようとはせずに前日収穫の多かった場所に直ぐに移動した。

しばらくして満足そうな子どもたちの声が耳に入った。
「だから言ったろう。あそこはいい場所だって。」虫かごには数匹のセミが閉じ込められている。
「それにしても、あー暑い!」少年たちは旅人が涼んでいる軒下まで急ぎ足で向かった。
そこで軒に吊るされた風鈴に気がつくと手で軽く風鈴を押した。チリリーン。
もう一度別の少年が押した。チリリーン。「自分ちのやつよりいい音だな。」
もう一度今度は強めに押すと少年たちは勢い良くその場所を離れていった。

それからもう少年たちは来なくなった。
そしていつもと同じように時が過ぎていく。セミはいつもの場所でいつものように鳴き続けた。

どのくらい時間が経ったのだろう。セミの一生と言う時間をはるかに超えてそのセミは鳴き続けた。
親切に助言したセミは少し前に木からポトリと音を立てて落ちて今はその亡骸を蟻たちが運ぼうとしている。

しかし、そのセミは相変わらず朝から晩まで泣き続けるのだった。
ところが林道の休憩所から聞こえる声はやはり風鈴の涼やかな音を褒める言葉ばかり、
蝉の声については何の言葉を発せられなかった。

鳴き方がまずいのか?音が大きすぎるのか?音の高さを工夫することはできるのだろうか?
セミは考えついた全てのことを試みた。
しかし、やはり旅人にはただ騒がしいセミの鳴き声にしか聞こえなかった。
いやそんなことすら感じてもらえなかったのかもしれない。

ある日の午後、遠くに見えた雲が急に黒っぽく変わり、あたり一面が暗くなった。
冷たい風も吹き始めた。突然、激しい雨が降り始めた。
雷もなり始めて、はじめは遠く聞こえたのが徐々に近づいて来ている。
旅人は先を争って家に飛び込んだ。ピカっと光った瞬間、ガシャーン!と大きな音。
近くに雷が落ちたようだ。「クワバラ、クワバラ!」旅人は口々に呪文を唱える。

軒先に吊るされた風鈴は強い風にさらされて右に左に大きく揺れている。
間髪おかず金属音を鳴らし続ける。チリ、チリ、チリリーン。チリ、チリ、チリリーン。
「うるさいな!」旅人の中の一人がつぶやいた。とその瞬間、風鈴を吊るしていた紐が切れた。
風鈴が落ちたところは少しばかり坂になっていた。おまけに風に押されて風鈴はころころと転がっていった。
豪雨と雷の中、誰も風鈴を取りに行こうとはしない。
コロコロ、コロコロ、風鈴はしばらくすると見えないところまで転がっていき、ようやく草むらに入って止まった。

風鈴はそこで人々の記憶の中から消えてしまった。かつて休憩所にあったことも、その涼やかな音も。

雨が上がった。
ホッとしたような雰囲気が漂い、旅人たちは各々それぞれの方向に歩き始めた。

しばらくして雨を避けていたセミは休憩所が見えて人々の会話が聞こえるいつものところまで
戻っていつもと同じように鳴き始めた。

以前と同じように来る日も来る日も。

しかし何かが前とは違っていた。風鈴を褒める声が聞こえない。セミの目にも風鈴は見えなかった。
セミは少し寂しかった。

やがて多くのセミが生まれ死んでいく季節も終わりを告げようとしていた。

ずっと鳴き続けてきたセミもとうとう声が小さくなってきた。
チチチ、チチ、懸命に鳴こうとしてももう体がいうことをきかなくなっている。
「あと少し、、、」意識が遠くなりそうな瞬間、
「あっ、セミの声。すごい今まで鳴いていたんだ。頑張ったね」小さな女の子の声が耳に入った。
その声をセミは木から落ちながら聞いたような気がした。













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とうとう夏本番

2025年07月19日 08時33分37秒 | 徒然なるままに

子供の頃は土用の丑を「土曜の丑」と思い込んでいて
土曜日にうなぎを食べるのが良いなんて、変な日だな思っていた

今日19日は土曜日、そして土用の丑の日
平賀源内の作戦にのせられて日本国中でうなぎが食べられるようになっている
我が家でも例外にもれず、そうするつもりだが、それはこの流れに乗っている
というよりは、一回分の料理を考えなく済むからだ
毎日毎日、料理の献立を考えるのは傍から見ていても面倒くさいと感じられる

昨日のテレビニュースで、ある小学校では終業式にも関わらず給食の提供が
あったと報じられていた
共働きの多い現代の世相を考慮して、食事の心配をさせないための試みだそうだ
なるほど、これは現実的で良い試みと思えた

だが、今日から約一月半、子どもたちは良いが親御さんは大変だ
食べ物のこと、勉強のこと、どこかに連れて行かなくてなならないこと
ダラダラしがちなのを口酸っぱく注意すること
それらの面倒なことは、それなりの体力が無いとできないと思う
(多分お母さん依存が圧倒的に多いだろうが)

先日、校門まで子どもたちと校門まで歩いていった時
最近、身長が伸びてきたAちゃんに
「夏休み前の身長を測っておいて、終わる時にどれだけ大きくなったか
  わかるようにするといいよ そうしたら、また教えてね」
と伝えると、首を縦に振った

ということで、関東の梅雨明けし夏本番となったた今朝は
涼しくて良かったが、空の色は真夏のそれだった
これから先のことを想像すると、ゾッとするが仕方ない

ところで、鰻はどこにも予約していない
チラシが多く入っていたから行けばどこかで手に入れられるだろう
 こんなことを思っていたら、洗濯機が仕事を終えた
さ、洗濯物を干すのと、浴槽の掃除をしなければ、、




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朝の出来事

2025年07月14日 08時56分20秒 | 徒然なるままに

朝方は窓を少し締めて、タオルケットをかけるようにした
昨日のうちから比較的涼しいのはありがたかった
同居人は涼しいうちにウォーキングに出かけている
家に戻る頃に起床して、気温と湿度をチェックするのが日課になっている

仏壇の花の水を替えて、布団を畳んで押入れにいれて
白湯を飲んで内臓に刺激を与える
体も目覚めてきたので近所のお墓参りに出かける
見守ってくれていることへの感謝を伝えに行く

東に向かう車の真正面に太陽が見える
眩しくてしかたない
駐車所に付くとお隣さんと顔を合わす
お互いに涼しいうちにできることをすることにしている

お寺さんには大きなクスノキとイチョウの木がある
その木陰を歩くとひんやりして気持ちがいい
蝉の声が聴こえる
蝉の声は多分、3回目くらい

そういえば、今年は蝶々をよく見かける
蝶の名前はわからないが大きいものから小さなもの
まだら模様のものから白とか黄色のもの
ひらひらと舞うその姿はなにか不思議なものを見るような気がした

「今年、蝶々をよく見るよね!」
と同居人に話かかけると頷く

こんなことがほとんど毎日繰り返される
そしてその一つ一つは記憶に残らない
でも、最近はこうしたことがとても大事なことと実感する

早起きしたからエアコンの効いた部屋で昼からは眠くなるのかも
それも普通の毎日
夏は嫌いだ!というのもいつものこと
今はまだ7月14日  それを思うとゾッとする

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お金の使い方

2025年07月02日 09時57分01秒 | 徒然なるままに

「なんでも鑑定団」では他人から見れば大して価値のないと思われるものも
マニア仲間ではとんでもなく価値があるとされていて
それらの多くは(仮に自分がお金があっても)それを求めはしないことがよくある

お金の使い方は個性というか癖というか思わぬ人間性が出てくるようだ
女性の多くはファッション関係に費やすし、男どもは機械・電気ものに
お金をかける
飲むことにお金をかける人もいれば、推し活に浪費するひともいる

家計簿をつけているが、自身はそんなに贅沢はしないタイプとを捉えている
お酒はせいぜい今なら缶ビール(350ml)をひとつくらいだし
食べる方も懐を心配して豪華なものを食べることはなくなっている

服は今あるものを使いまわして多少古く見られても気にしないでいる
(ただし、最近は少しは新しい服を購入したほうが気分的にも
    見た目にも良いかもしれないと思うこともある)

今までにお金をかけたのは、本とレコードとオーディオくらいだ
本は全集で変なものがあるし(ライプニッツ全集、西脇順三郎全集)
全集以外でも、普通は書店の片隅に隠れているようなものを
宝物をみつけた高揚感で購入したものも少なくない

レコードは多分数千枚、CDは似たようなもの
オーディオは機械マニアというよりは、いい音楽を体感したいから
それなりの装置を備えているだけだ
でも最近はレコードもCDも購入は本当に少なくなっている
(今は手持ちのものを繰り返し聞いて十分と思っている)

そんな中、大してお金に余裕があるわけではないが
社会的な活動に取り組む団体に寄付という行為をしている
一つは子どもの食に関する団体に
もう一つは独立系の報道メディア(D4P)に
両者とも社会に必要不可欠な存在だと信じている

世の中には困った人に、まずは行動して助けようとする人がいる
そういう人には頭が下がる
でも反対にお金に支配されるように人間性を失う人もいる

ここで困るのは、経済的な成功者が政治的な成功者とか
権力者に成りがちだということ
人を測るメジャーが経済的な成功(収入の多さ)のみに
なっていそうなことだ

確かに経済的な成功をするということは、多くの人の生活に関わるので
社会的な意味があると想像することができる
でも、どこか必然的に生まれてしまう弱者を助ける人たちがいないと
この世の中はつまらないものになってしまうと思えてならない

ということで、自身は少しは社会に役立つものに使うことで
少し満足感を覚えるようにしている

 

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山の風景を堪能するなら

2025年06月22日 09時02分08秒 | 徒然なるままに

山は良いなあ!とYoutubeを見てはそう思う
昨日は自分が最後に登った爺ヶ岳の若い夫婦のYoutubeを見て
登山道がとても整備されていた事を思い出した
だたし、自分が登った時は途中から雨が降って
種池山荘まで行って濡れたものを乾かしただけの記憶しかない

今となっては腰が痛いので登山はできないのが残念だ
彼らも言っていたが、山から降りる一歩がなかなか踏み出せないのは
経験者ならきっと分かると思う
まさに後ろ髪を引かれるそのものだ

今は夏の旅行の広告が目に入る
その中にスイスアルプスを巡るものがある
アイガー北壁がどーんと見えて、ユングフラウの頂上付近まで登山電車が
走っているグリンデルワルドの写真は、昔の記憶を呼び起こす

いつものことながら覚えている変なことは
あの登山列車は日本語の放送があったことで
なんでも安曇野市と姉妹提携をしていたかららしい
それからクライネシャイデックできれいな風景を写真に撮ろうとしたが
帰りでいいや!と先延ばしにしたのが失敗で、帰りは曇り空で何も見えなかったこと
山は撮れるときに写真に撮っておかないとアカンな、、とその時、実感した

実は旅行ガイド等にはあまり紹介されていないようだが
自分が一番いい思い出として残っているのが、有名な登山列車に絡むものではなく
アイガーとかヴェッターホルンを対面にどーんと見られるフィルストでのこと
フィルストはリフトで登ることができて帰りは遊歩道みたいな道を降りることができる
それは日本では槍ヶ岳、穂高連峰を目前にドカンと見える蝶ヶ岳からの展望に似ている
蝶ヶ岳からの風景はそれをぼーっと見ていても時を忘れる
フィルストからの光景もそんな感じで、でかい山をハイキングコースで歩いて降りるのは
とてもいい経験になった

登る方ではなく見る方を堪能するなら、グリンデルワルドではフィルストからの
展望をおすすめする
放牧された牛のカラカラとなるベルも記憶に残っている

このグリンデルワルトのことでいつも不思議に思うのは
軽井沢で浅間山を思い浮かべて詩を書いた立原道造のソネットが
思い浮かぶ風景が日本のそれでなく
このグリンデルワルトの風景がしっくりくるということだ
尤も、これは個人的な幻想に過ぎないが

記憶に残る風景があるとか、もう一度行ってみたい場所があるとか、
読み返したい本があるとかいうことは、きっと良いことなんだろう


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