パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「不当」と「不正」

2016年09月29日 19時46分16秒 | 庁舎用地外移転補償騒動

昨日の新城市民団体の「住民監査請求」の新聞記事に関連して思いついたこと
東愛知新聞は「対象外の物件に不当支出」
読売新聞は「新城新市庁舎建設移転補償で『不正』」

扱っている内容は同じでも、「不当」と「不正」の言葉の違いがある
同じ話を聞いて記者さんの捉え方・感覚・感性・語彙の中からタイトルを決める
それを比べてみるのもそれなりに面白い
言葉自体は似たようなもので気になって調べてみると
「不当」は、正当・適当でないこと。道理に合わないこと。当を得ないこと。
「不正」は、正しくないこと、またその行為やそのさま。
わかったような、わからないような、イマイチわかった!とまでは行かない

そこでこの言葉と合わせて使われる単語を調べると、
不当は「不当解雇」「不当景品」「不当逮捕」「不当表示」、、、
不正は「不正アクセス」「不正アプリ」「不正コピー」「不正プログラム」、、
なんとなくイメージ的にわかったような気がしないでもない
不正のほうが悪意に満ちているような印象を持つ(自分は)

さて昨日の新聞記事、不当支出だったのか
不正があったのか?
言葉遊びじゃなくて、このところは注目し続けなければ、、

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今朝の新聞各紙(住民監査請求の記事)

2016年09月28日 08時21分49秒 | 庁舎用地外移転補償騒動

地元新城市の話題
今朝の朝刊各紙のこんな記事が掲載された
地元の中日新聞

地方紙、東愛知新聞

読売新聞は

扱いの量はいろいろ違うが内容は「住民監査請求」が行われたということ

ところで、住民監査請求をネットで調べると(ウィキペディアより)

住民監査請求(じゅうみんかんさせいきゅう)とは、住民が、自らの居住する地方公共団体違法若しくは不当な財務会計上の行為があると認められる場合、その地方公共団体の監査委員に対し監査を求め、その行為に対し必要な措置を講ずべきことを請求することができる制度である。直接請求(参政権の1つ)である事務監査請求とは異なる制度である。 

今度の場合、新庁舎建設に伴う物件移転補償費の一部に問題があるとして
(庁舎建設用地以外の建物にも補償費を支払ったのが)問題があり
詳しく監査委員に詳しく調べて欲しい
そして不当に支払われた金額を市に返却して欲しい ということだ

実は、何度かここでも取り上げているがこの移転補償費の問題については情報開示請求によって、
市に用地外であっても支払う必然性のある理由が記された書類を見せてもらえるようにした
ところが、市から提出されたものは肝心なところが黒く塗りつぶされたもの(コンサルタント会社が作成)
世間一般の判断では、用地外の物件とみなされ支払う必要がない とされる方が普通で
支払う必要性があるとした理由がわからない から調べようとしたのだが

ここで、問題なのは市は払う必然性があり、片方は支払う必然性はない
と言った法律解釈の問題ではないということ
読売新聞のタイトルにある「不正」 が行われた可能性がある事
不正は、不正に支払ったということではなく、書類作成上の過程に不正があった
可能性があったということだ

書類に書かれた理由や実態が、真実かどうか?
実態を正直に書かれているか?
その解釈は正しいか?
その様な法的な問題以外に、何か疑わしい事が起きていた可能性がある
(これは想像上のことではなく根拠のあること)

まだいろいろあるが、現時点で伝えたいことは
法律解釈の問題だけではないということだ

ところで、地元の東日新聞にはこの記事は掲載されていなかった
明日掲載される?
それともこの手の話題は、この新聞社では扱わない?
 

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水戸黄門も遠山の金さんもいない

2016年09月27日 08時25分11秒 | あれこれ考えること

カラマーゾフの兄弟、フョードルを殺害したのはスメルジャコフだが
スメルジャコフは次男イワンがそそのかした(暗示した)と解釈をして
犯罪を行った

一体誰が悪いのか?
自分勝手に解釈して行動した人物が悪いのか
それとも、態度で行動を促す態度を示した人が悪いのか

これを法律で裁こうとすると、かなり面倒なことになりそうだ
(もしかしたら法的には簡単かも知れないが)
「行動を促す雰囲気」はかなり抽象的なので、それが本当なのか
第三者が判断するのは至難の技だ

そこで、この曖昧さを悪用する人達がいる
行動したのはある人物、
だが指示したのは(忖度するように匂わせたのは)別の人

時代劇では勧善懲悪、予定調和で見ている方も気持ちがスッキリする結末を迎えるが
現実の社会は、水戸黄門も遠山の金さんもいない
だからいつまでもモヤモヤした気分が残り
そのうちに「世の中なんてこんなもの、要領がいいやつの勝ち」などという風潮が
はびこることになる 

今朝のこの話は敢えて曖昧にした表現にしている
さて、何のことか、、、
 


 

 

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被害を受けているのは、、、

2016年09月26日 10時51分25秒 | 産廃

時々、単純に変だなと思うことがある
新城市は南部企業団地に産廃業者が進出、操業を始めている
(本来ならば団地は製造業と物流業に限られていたのにもかかわらず)
この業者の他の地区の悪臭被害を耳にしている地元住民は
新城の地元でも同じようなことにならないかと心配した

残念ながら心配は的中
先日は「被害者の会」が設立され対策を求める請願書を市長に提出したことが
ニュースとなり新聞紙上を賑わした

臭いは難しい 個人差、時間差、場所によって判断は異なる
その産廃工場付近を通るときは車の窓を全開にして
確認するようにしている
先日は自分だけでなく同乗した人物も臭いを確認した
ものすごいとまでは言えないかもしれないが、これがずっと続くとなると
地域の人が気が重くなることは容易に想像がついた

悪臭がする、しない、個人差があるというが
その前に、そこで働いている人たちは「大丈夫なのだろうか?」
以前、田原市の和地に赴いてその業者の製造する堆肥と称するものの臭いを感じたときに
吐き気を催したものだから、つい心配してしまう

従業員の方々の健康は大丈夫か?
それが単純に思いついたこと

それから、ここで製造した堆肥は「肥料登録」を
しなければならないことになっている(現在申請中)
そこで不思議なのは、普通の科学的な肥料の製造なら組成成分は材料として
安定的に仕入れができ製造されたものも製品にムラはないと思われる
ところが、新城市のこの企業の原料となるものは下水汚泥と食物残渣
これは安定した成分の供給ということにならないのではないか
ばらつきのある原料で製造したらばらつきのある製品ができるのではないか
素人はそう考える
なのに肥料登録はできるのか?

素人にも安心できる説明ができるのなら、それに越したことはないが
この肥料登録が「書類上の儀式」になっていないか少し心配

段取り、手続きを踏む
そのステップを踏むだけで現実に考慮されるべきことが蔑ろにされていないか
最近、この過程への不信感を招く事柄が多すぎて、つい何か言いたくなってしまう

 

 

 


 



 

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予習(ワルキューレ)

2016年09月22日 19時56分46秒 | 音楽

10月に東京の新国立劇場で行われる「ワルキューレ」
昨年の「ラインの黄金」に続いて、行くことにしているが
その予習となるべき動画がアップされた
(メールでお知らせがあった)

これがなかなか面白い
オーケストラではなくピアノでライトモチーフを演奏しているが
これがとても魅力的だ
オーケストラよりも雄弁とさえ思う (オーケストラを想像力で補うから?)

1976年のバイロイト、午前中市内のあるところで
「トリスタンとイゾルデ」を解説する講演会があったが
この時もピアノでライトモチーフを演奏したが、
そのときもオーケストラよりも
わかりやすいというか魅力的な音のような気がしたのを今思い出した 

ピアノでヴァーグナーを弾いたものは晩年のホロヴィッツの
トリスタンとイゾルデの「愛の死」がやたらロマン的な雰囲気に満ちて
忘れがたい
ゲレン・グールドの「マイスタージンガー」も面白い

ところでワルキューレ1幕と3幕は時々聴くが2幕は放ったらかし
本番前に一度聴いとかねば!

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読書の沈殿物

2016年09月22日 08時17分07秒 | あれこれ考えること

本を読んでも情けないくらい覚えていないが
昨日、すこしホッとすると言うか安心できる文章を見つけた
それは「近代の超克」の中から林房雄の論文 「勤皇の心」の一箇所 
相変わらず本質と関係がないところに関心がいって、これもまた情けないが
少し抜き出してみると

勢い私たち中学生の読書欲は、春陽堂と新潮社、「中央公論」と「文章世界」が
指導し広告する方向に盲の馬のやうに駆けて行った。読んでは忘れ、読んでは忘れる。
全く忘れてしまうのなら、影響は少ないはずだが、文学という色の濃い水は読者の心に
流れこみ、たちまち流れ去るとはいえ、必ず何かの沈殿物を残す。一冊二冊なら、
沈殿の量は少ないのであるが、月に十冊、年に百冊、五年に五百冊と重なるに連れ、
感受力と吸収力の強い少年の心は、この沈殿物に厚く蓋われ、時には精神の構造が
変化されてしまう。

確かに 何かが自分の中に残っていると感じることは多いし、またそう思っていたい
多分、いろんな判断をする上でこの何かが大きなウエイトを占めているに違いない
(と思う)

「近代の超克」に話が飛んだので、いまだ読書中のこの本について少し
ほんの何十年前の文章なのに読みにくい。
漢字が今とは違うし、前提となる歴史の知識も違う。
(そう言えば戦前、戦中の新聞記事もとても読みにくかった)

それらはさておき、「近代」とは参加した知識人の間では
欧米のこととして認識して、それをどのように超克するかが各人が
それぞれの専門分野の立場からあれこれ述べるのだが
ざっと読んだところ共通しているのは、日本が西洋やアメリカの文化
知識を取り入れる時、日本人はその器用な取り入れからをして
柔軟に日本流に加工している、それはそれで分かりやすく実践的なのだが
西欧やアメリカが試行錯誤してその知恵にたどり着いた本質を理解していないために
行き詰まっている、とした点は誰もが同じような発言をする

それは今でも感じる
結局はわかりやすい方面からの捉え方をしがちで、根本からじっくり考えていく
というのは、いつになっても得意じゃないのがこの国のようだ
しかし、これがずっとむかしからのこの国の他の文化の捉え方だったのか
現実的な役立つことのみ、おいしいとこのつまみ食いのような取り入れ方をしていたのか
これは、また別の歴史家の話を聞かないとわからないかもしれない

でも、歴史の転換点にいるような現在
「そもそも」の原点に立ち戻って考えることは、現実的な対応に応じるのと
同様に大事なことではないか

と言っても、結局、あの時代「知識人」は結局のところ何もできなかった
何もできなかった歴史を踏まえて、ならば人は今何をするかを考えて
行動しなければならない
いろんなことは始まってしまうと立ち止まったり、中止することは難しい
(豊洲市場の移転問題も、新城市庁舎の問題も、新東名バスの運行も
 スタートしてしまったら、今まで使った金額がもったいないということで
 そもそもの段階に戻しにくい) 
事が起きる前、そのときこそじっくりとそもそも論から話し合わねばならない(きっと)
しかし、それを誰が(みんなで?)行うか!ということになると
これまた別の難しい問題となりそうだ

話は元に戻って、
本は消化不良でもきっと何か何処かに残っているはず、、
でも人に説明できるくらいの理解したいのも本音
人に話すことによって自分の理解も深くなっていく
だから聞いてくれる人を探そうとするが、、、
(でも自分の話は面白くない、、きっと)

 

 

 

 

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モノの値段

2016年09月21日 19時10分31秒 | あれこれ考えること

名古屋での演奏会形式の「ラインの黄金」が3000円
宗次ホールの「弦楽四重奏コンクール」が2000円
コストパフォーマンスの良いものが続いたから
モノの値段についてあれこれ思いが及んだ

新城市から名古屋までJRで割引きっぷが1640円(土日祝用)
地下と鉄名古屋から栄が往復で400円 
合わせて約2000円だから、宗次ホールで使った金額とほぼ同じ
同じ金額ならどっちが得か?
と考えると、なかなか難しい

最近2000円程度で求めたものと言えば
知り合いから薦められてついネットで求めた「宮城の酒蔵 利き酒ショコラ」1944円
しっかり読みでがあった「生物は何故誕生したか」2376円
これらは宗次ホールで費やした時間と比較して損か得か分からない

で、急に思い出したのが「超訳資本論」
何にでも比較・交換可能なお金というもののことが書かれていたような、、、
(その時は面白いと思っても情けないことにほとんで忘れてる)

思い出したということは、自分にとって何やら必然性があるかもしれない(?)
読み返してみよう (読書の秋だし)

 

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宗次ホール「第3回 弦楽四重奏コンクール」雑感

2016年09月19日 08時34分10秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

今年は、最初から最後まで頑張って聴いた宗次ホール
「弦楽四重奏コンクール」 

昨年はスタミナ・集中力切れで途中で退席した

しかし、低価格で真剣勝負がしっかり聴けるのと
聴いたことのない曲をまとめて聴けるのに誘われて
電車賃を払って出かけた(今年は聴く方も最初から気合が違った)

大正解!
先日の3000円で聴けた(見れた)「ラインの黄金」に引き続き
チケット代2000円でほぼ一日中の音楽三昧は
コストパフォーマンスがめちゃくちゃ良くてありがたい

でも、本当は途中で退屈して集中力が切れたり、お昼のご飯を食べた後は
眠たくならないか心配だった
ところがその心配は杞憂に終わった
(それでも最後は少し疲れたが)

一団体、持ち時間は45分、ハイドンの作品から一曲
その他自由に選択した一曲が演奏されて、そのトータルの評価で順位を決定
審査員はホールの2階席に陣取っていた

最後まで聴いたが、これらの曲を録音したものを同じように集中して聴けるか
といえば 、それは絶対無理で、やはり生演奏だからこそ聴き続けられたと言える

この日演奏された曲の大半は知らない曲
知っている方を数えるほうが速い
必ず演奏されるハイドンの作品でも知っていたのは「ひばり」「5度」
自由曲はベートヴェンの「ハープ」と4番のハ短調、ドボルザークの「アメリカ」
それからバルトークの3番(CDで聴いてるはず)くらいなもの
こうなると演奏の解釈がどうのとか上手い下手などはほとんど分からない
そこで素人の強みで楽しんだほうが勝ちということで
聴いてるときに頭に浮かぶ事を勝手に楽しんだ

ところで、審査員というのは大変な仕事だ
同じ曲ならまだしも全部違う曲で実質6時間聴き比べる作業をしなければならない
難しい作業だなと思ったりする

この日の順番は

1.ブロッサム・クヮルテット
2.カルテット・ダモーレ

ここで昼の休憩45分

3.ルボワ・カルテット
4.タレイア・カルテット

5.山田弦楽四重奏団
6.ソフィア・カルテット

7.エイム弦楽四重奏団
8.ロリエ弦楽四重奏団

コンクールと言うが、この順番は評価に影響するのだろうか
最初のグループはその後の比較の対象になる(?)
それは不利なのか、それとも得なのか
それに最後の方は疲れて飽きてきて新鮮に聴いていられない(?)
これも不利なのか、、、
でも、こんなことを幾度も経験してきた人たちが審査員
審査員って大変だ

さて頭に浮かんだ勝手な連想
最初のブロッサム・クヮルテット
冒頭の音を聴いた刹那「ウィーンの香りだ」と思った
奏者の音色のせいか、ハイドンの曲のせいか、どちらか分からないが
とにかく「ウィーンの香り」という言葉が頭に浮かんだ
「ウィーンの音」ではなく「ウィーンの香り」というのが少し不思議
この最初の印象が良かったせいで、この日一日はそのままの気分で終えられたのかもしれない

ハイドンはハマってしまう作曲家ではなく、どちらかと言えば
少し気の利かない真面目な音楽家の印象があったが
この分野(弦楽四重奏)については過不足なく、バランス・収まりの良い感じだ
感情過多ということもなく、品良く、それなりにかっちりしててウィーンぽくて

ハイドンでも作品番号が若い時と後半とはすこし印象が異なる
自分は真面目なかっちりした後期よりも自由な発想力に任せた(?)初期のほうが
聴いてて楽しい(かな)

ブロッサム・クヮルテットの自由曲はフォーレの後期の弦楽四重奏曲 ホ短調 作品121
フォーレは好きな作曲家
特にピアノが入った室内楽曲はなんとも言えず美しい瞬間がある
この弦楽四重奏曲はハイドンの時代のおおらかな気分から、
近代の難しい感情の世界に入ってしまったようで、はやり後期のピアノ三重奏を
連想させる瞬間があった

このフォーレの後に聴いたカルテット・ダモーレの「ひばり」は
緊張感から開放されてホッとした

ハイドンには申し訳ないが、やはり自由曲のほうが興味深い
ベートーヴェンの「ハープ」は曲中に例の運命の動機がでてきて
吉田秀和が「ベートーヴェンを求めて」で書いていたように
彼は一生あるテーマを追い続け(使い続け)ていたのだと感じる
ベートーヴェンの曲のほうが感情的な流れの必然性が感じられる

昼ごはんの後は(結局関心があったのは自由曲ばかりだった)
ルポワ・カルテットの「アメリカ」
タレイア・カルテットのメンデルスゾーンの2番 イ短調

アメリカはよく聴く曲で、リズミックなところとメロディアスのところ
特に2楽章が心地よく、この日も堪能できた
メンデルスゾーンは初めて聞く曲
彼らしく感情表現を強く表に出すことはなく節度の中に収まっている
(4楽章では不気味というか効果的な音形もあったが)
そのなかで気に止まったのは、あのヴァイオリン協奏曲を思わせるフレーズが
時々聴こえたこと
やっぱりメンデルスゾーンも癖とか好みとか個性とか
そういう音形があるのもだと思ったりした

この作曲家独自の癖とか個性とか好みは
あとで聴いたチャイコフスキーやバルトークにもあった
チャイコフスキーは、「またやってる、いつのもあれ」という瞬間があったし
バルトークは「弦チェレ」を彷彿とさせる瞬間があった

あと少し頭に浮かんだこと
ベートーヴェンの作曲能力の凄さ
感情に伴う流れの必然性、そしてそのまとまり、更に聴衆の気持ちを捉えて
離さない魔力  これは本当にすごい(弦楽四重奏4番 ハ短調を聴いて)

興味深いものに日本人作曲家の作品があった
矢代秋雄の弦楽四重奏だ
武満みたいな音楽かな?と予想したが
武満と言うよりはシェーンベルクを連想した
畳み掛けるリズムは西洋というよりは日本を感じたが
この曲を聴く事によって武満の凄さ・独自性を再確認した

あとは、、、、
やっぱり疲れてしまった 
でも勝手にあれこれ想像することは楽しい

そうだもう一つ現場で感じたことがあった
それは男性の奏者が少ないということ
最後の最後、ロリエ弦楽四重奏団だけ男4人だったが
あとは男がいても一人で、中心となる第一ヴァイオリンは女性

男の感性による演奏は女性とは違うはず
と思い、バルトークを選んだのは男ならではと思ったりしたが
実際に出てきた音も筋肉質のたくましい音だった
スピード感もどこか女性中心のグループとは違う
ただ、これがドイツの男性による演奏だったらもう少し違う音色
なのではないかな?と勝手に想像した

ところで、コンクールと言うだけあって最後には順位がつけられた
曲が全部違う、しかも知らない曲ということで、
聴衆者のアンケートとしては自分は「もう一度聴いてみたいグループ」
という判断で2つのグループを選択した

素人だから、演奏能力よりは選曲の良し悪しが左右してしまった感はある

ところで、プロと聴衆が選んだ結果は

◆第1位 Quartet ame(エイム弦楽四重奏団)
◆第2位 Thaleia Quartet(タレイア カルテット)
◆第3位  Quartet d’amore(カルテット ダモーレ)

◆聴衆賞 ロリエ弦楽四重奏団

◆ハイドン賞 Quartet ame(エイム弦楽四重奏団)
◆宗次賞 Sophia Quartet(ソフィア カルテット)

弦楽四重奏コンクール 次は再来年だそうだ
次も行こう! 

 

 



 

 

 

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体験したからこそ評価・理解できることがある

2016年09月16日 09時31分18秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

あるきっかけから新城市の市政について文句ばかり言う境遇に
なってしまったが(本当はそんなことしたくない)
この文句ばかり言わざるをえない状況というのは
新城市に限ったことではなくて、どこでも見られることなのだろうか
知らない傍から見ると他所の自治体はよく見えたりするが
同じようなものだろうか、、、

仮にそうだとしても、自分の市にはちゃんとして欲しいのが現実
そんなことで、自分の別のブログで新城市政について(そんな大げさなものではないが)
しつこく書いているものがある

ダラダラと長くなるもので、先程アップしたが手抜きでこちらにコピペした
今日の投稿に

ここからコピペ部分

先日傍聴した新城市の予算決算委員会の中で気になることがあった
それはある議員からの質問
「住民投票は多額の費用を要した。直前に行われた
県会議員選挙と同時にでできなかったのか?
そうすれば、余計な費用はかからなかった」

市は先回実施された住民投票は、議会提案で実施されたもので
その中にある「市民まちづくり集会」の実施や
18歳以上の住民参加としたためにその資料作りに時間がかかるから
無理だったと答えた

お金がかかるからもったいない
と考えるのは誰も同じで、「住民投票を求める会」は最初から
県議選で同時の住民投票の実施を求めていた
しかし、それはできなかった  何故か?

新城市には議会の議決がなくても住民投票ができるはずの
住民投票条例がある
しかし、そこにははクリアすべき項目がある
書式に則った書き方で住民投票の実施を請求するのはいいとして
それ以外に、住民投票条例実施規則のなかには
市長は「市民自治会議に諮問し、及び議会に意見を聴くものとする」
の項目がある

後ろの議会の意見を聴くものとするとは一体何か?
議決はなくても良い決まりだが、意見を聴くとは、、、
問題は市長に諮問された「市民自治会議」
ここで「請求された住民投票請求が実施するにふさわしいかどうか
検討して欲しい」というものだ

ここで行われた会議は非公開だが、市長に対する結果報告は公開されているので
今の時点から、この報告書を読むと、意地悪な見方かも知れないが
この会議に出席された方々の真剣なところはあるとしても、現実感、切実感
市民の声の把握が十分でないようなことが分かる

報告書はここをクリック ⇒市民自治会議報告

結果は両論併記 そしてよくわからない市議会の意見を聞くという項目
この結論がでたのは、請求の書類を提出してから一ヶ月以上の後のこと
「住民投票をすべきかすべきでないか?」この答えが諮問機関では時間をかけて行われたわけだ

実はここが県議選と同時にできなかった理由のひとつ
請求後に諮問機関で会議されて、直ぐ様結論が出れば直ちに署名活動に移って
県議選に間に合うというのが「求める会」の予定したスケジュールだった
その計画が多少甘いところはあったとしても、お金をかけずに実施したいという思いは実現したかもしれない

「住民投票を求める会」が結局この手続により方法を取り下げたのは
いつまでも結論が出ない諮問会議を待っていると、既成事実がつくられていくし
間に合わないことが多いと判断したからだ

一年前のことを今あれこれ引っ張り出して文句を言っているように見えるかも知れないが
時間が経ったからこそ振り返ることができることがある

この市民自治会議の内容も今だから、どうかと思うところがいくつかある
そしてこの市民自治会議は、市長からの諮問ということになっているが
例えば学校にクーラーを付けるかつけないか、みたいな案件に対しては
この過程を踏んでも問題はないと思うが、庁舎見直しについて市長の諮問機関として
きちんと機能できるか少し不安が残る
(市長は見直しなどせずに進めたい意向を持っていたから)
人は依頼者の空気を読むことが多い
(舛添さんの第三者機関の調査はまさにそのとおりだった 本当に第三者?)
つまりはきちんとステップを踏んでいるようでも、問題の内容や人選で第三者機関としての
機能が果たせるか疑問だ
それに、漏れ聞こえてくる話では、
この市民自治会議も当初は喧々諤々のまずまずの討論がなされたが
何回目からかすっかり雰囲気が変わってしまったらしい
(そしてある人はこの会着の参加を辞退したとか、、、)

このあたりは噂の域かも知れないが、まずは事実としても報告書を
読まれた方はどんな印象を持たれるだろう

新城市は他の自治体よりも進んでいるという点に
議会の議決を得ないでできる住民投票条例があることを挙げている
しかし、現実にその運用を図ろうとすると、上に挙げたようなステップを踏まなければならない
テーマがデリケートな問題となったとき、果たしてこれは本当に機能するか
これは先程あげた
そして住民投票の実施は有権者の1/3の署名が必要
これはかなりの数だ
確かにそんなに頻繁に住民投票はすべきでないと思うが、この1/3のハードルは
各地に存在する住民投票条例と比べると高いものになっている

だから、住民投票に詳しいある人は、
「新城市の住民投票条例は、それを行うための条例ではなく
行わないための条例となっている」と評した
(だからこそ、昨年この住民投票条例を改正しようという議会提案がなされたが、、、)

社会のいろんなことは法に則って行われる
無駄なく、効率的に専門家におまかせして大半は行われる
しかし、その中に人が知らないうちに決まっていくことに
どうも一般社会人と違う感覚で行われいることは多くないか

そうだ、ここまで来て思い出したことがひとつある
住民投票の署名簿もリコールの場合と同じように縦覧された
その時も、署名が有効かどうかを確認する目的以外には使用しない事になっているのだが
ある人物はその署名をチェックして、あとで署名者にきつく文句を言ったそうだ
(こんなことはやってはいけないことなのに)

先程も挙げたが、いつまでも過去をぐだぐだ言うのではない
みんなが同じ体験をした住民投票をした後だからこそ
あの流れや市民自治会議の報告書を評価できると思う
その意味で、時間や興味のある方は
一度詳しくあの市民自治会着の報告書を読むことをおすすめする

いつまでも、しつこいな!
そんな声が聞こえそうだが、思い出すと今でも腹が立つのは
あのややこしい選択肢
ホント、何故あんな選択肢で住民投票を行ったんだろう、、

                       ここまで

今日は新城市議会最終日、あと少しで始まる
セレモニーのような議決が行われる
結果はわかってるし、さて行くべきか? 

 

 

 

 

 

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きれい好きのひとは、、、

2016年09月15日 09時25分21秒 | 徒然なるままに

掃除機をかける簡単な作業が自分の役目となっている
日課となっているので、それに対して苦痛はなく
かけないようなことがあると何か変な気分になりそうだ

ところが、時々怒られる
掃除機をかけるのに移動した座布団や座椅子が
元の場所にきれいに収められていない
斜めになったままで、、、
そもそもあんたは、やったらやりっぱなし、、
服は脱いだらそのままだし、ソファの座布団も寝転んでいたあとがグチャグチャ、、

すみません、そのとおりです
ちゃんとやればいいのに、、面倒で
そういえば二階の自分の部屋もぐちゃぐちゃ、、

きれい好きな我が家の人は身内だがえらいと思う
自分の敷地とは関係のない防火用水の雑草も
みんなの迷惑になるからというより、きれいじゃないから
といって涼しいうちにとりにでかける 

その他、自分の症に合わないと言って
なにかきれいになるような 作業をあちこち出かける

きれい好きな人は、それだけで社会のためになっている
ならば、公共道徳云々を育てるよりは、
きれい好きを育てるほうが生産的、、、かな

 

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