パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

やり過ぎのテレビ放送(重要なのはそれじゃないだろう)

2017年06月30日 10時00分22秒 | あれこれ考えること

以前、兵庫県議会の野々村議員の恥ずかしい号泣したシーンが
しつこいくらいにテレビ画面で流されたことがあった
そのシーンが映ったテレビ画面に向かって、
幼い子どもがハンカチをもって涙を拭いてあげようとしている画像も
ツイッター上にアップされたことがあった
それを見た時なんとなく救われるような気がしたものだった

週刊新潮の記事からスタートした最近の豊田真由子議員の暴言騒動
確かに、群を抜いて酷いものだ
それは法的な問題だけでなく、そもそも議員として以前の人間性を
疑わせる様な気分にもさせられ、それに反論の余地はない

しかし、それでも、あの暴言の音を何度もしつこく、面白おかしく
テレビ画面上で放送することは良いことなのだろうか
あの音声を流すことによって視聴率が上がるという理屈からすれば
意味のないことではないかもしれないが、はたして本当にそれで良いのだろうか

少し考えてしまったのは、豊田真由子議員には子供がいるとのこと
その子どもたちは、お母さんのあの姿を見せつけらて嫌な気分になったり
周りの子供も大人の見る画面を見て、つい彼女の子供に
悪気のない意地悪をしてしまわないか、、

暴言が酷いことは認める
でも、テレビのその扱いは限度を超していないか
メディアは人を批判する時にその凶暴性、暴力性を発揮する
果たしてその自覚がメディアにあるのだろうか

メディアは第4の権力と言われる
そのメディアは今まともに機能しているのだろうか
前川前文科省事務次官の記者会見の時、発言に上がったメディアに対する懸念
それは、自らの問題として検討されているのだろうか

記者クラブ、あるいは番記者と言われる人々によって行われる予定調和のような質問
自ら調査をすることなく、仲良くなったことで得られる情報を
価値ある情報と勝手に理解し、発表報道をする(報道の基本は調査報道であるべきなのに)
普通の市民感覚からすれば誰もが持つ疑問の声の質問すら出来ない
(幸い東京新聞の望月記者だけは真っ当な質問をしてくれたが) 

議員さんたちに倫理観とか「選良」という意識が必要とするなら
大きな力を持つメディアの人たちにも同様に必要なのではないのか
この程度の話題を流しておけば庶民は喜び、視聴率は上がる
と判断する、その感覚自体が、どこか身内の理屈に麻痺していないか

メディアが本来すべきことは、
メディア自身もしっかり勉強したうえでの施政者に対する鋭い質問、
曖昧に答えるであろうその答えに対するさらなる追求テクニック
そして、メディア自身も品格をもった姿勢の維持 
メディアの最前線にいる方々は、それなりの責任がある
どうか、そこのところをしっかり自覚して、取り組んでもらいたいものだ
(直近では稲田防衛省の事、下村博文氏のどうにも苦しい言い訳などにもっと突っ込むべき)

田舎のおっさんが愚痴ったところで、どうにもならないが
やっぱり、どこか変だと言わざるをえないのが残念だ

この程度のことを放送すれば庶民は喜ぶと勝手に思われているとしたら
馬鹿にされているのは、庶民であることに気づくべきと思うのだが、、
(一部の人は、もう見ないようにする!という手段を選んでいるかもしれない) 

 

 

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昔の選挙

2017年06月28日 19時16分55秒 | 徒然なるままに

東京都議会議員選挙の投票日が7月2日
新城市の市長・市議会議員選挙は10月29日
首都だけでなく、地元も既に何かと騒がしい

ところで、記憶のなかにある村の選挙(市の選挙)は
今と比べると、とんでもなくいい加減のものだった
と言えるかもしれない

自分の住んでいる地区は世帯数の多かった行政区ということもあり
複数の立候補者が存在し、そんなに遠くないところに
それぞれの選挙事務所が設けられた 

紅白の幕などが張られた事務所には、樽酒や一升瓶が飾られていた
もちろん飾るのが目的ではない、
まして結果が出てから祝杯をあげるというのでもない

そのお酒は、選挙事務所に来た人に飲んでもらうためのものだった
だから近くの「飲ん兵衛」と噂される人物は
あちらの事務所へ行ったあとはこちらの事務所でいい気持ちになって
少しばかりみっともないところを地域の人たちに見せた
(今でもどこどこの何々さんはお酒が好きな人として覚えている) 

その時代は、そんないい加減な事が許された時代だった
お酒好きにはたまらないものだっただけでなく
勝負ごとの好きな人達にも燃えるものだったらしい
それは応援するというよりも、あれこれ講釈を述べる楽しさで
半か丁か、はっきり答えは出るが、自分の生活には直接関係のない勝負で
無責任でいられるだけ面白いものだったのかもしれない
もちろん熱くなって応援した人も多かっただろう

そのうち、お酒を飲ませてはいけないという決まりができた時
酒屋さんは、大きな商いのチャンスを失って大変だろうな
などと子供心に思ったものだ 

良いとか悪いとかは別にして、随分のんびりした時代だった
(それがいつの時代だったか正確には覚えていない、多分小学生の頃かな)

そして今、相変わらず選挙の好きな人々がいる
でも今は、どこか余裕がない(気がしてならない)
あのいい加減な、おおらかな、勝負事としての選挙を楽しんでいた時代
その時代の悪いことを踏まえて今のシステムになったとは言え
なんとなく、あのいい加減さを懐かしく思ってしまう

世の中全体が、もう少しゆるい時代だった
でも今の人にはとても信じられない光景だろうな、、
おおらかというよりいい加減な世界、、


 

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新城市議会本会議最終日の話(動議)

2017年06月28日 10時52分12秒 | 市政、市議会に関することなど

少し前のあまりおもしろくない話

6月23日(金)新城市議会本会議最終日の傍聴に行ってきた
最終日は採決が行われる日で、各委員会に付託され、そこで得られた結論の是か非かを問う機会で
付託された内容は大半は常識的にも問題のなさそうなことばかりで
とりあえず形式上は本会議で討論することになっているが、実態は議場での討論はなく
直ぐに採決する運びとなった
その為、全部可決して、すんなり終わるはずだった
(10時スタートで、採決案件に要した時間は1時間弱)

この様にすんなり終了するのが当たり前(普通)の市議会が
夜の9時過ぎまで延々と伸びてしまったのが昨年の12月の市議会で
それは改めて異常事態だったと実感するのだが、その話はの顛末はこちら⇒またもやドタバタ

すんなり終わるはずだった
としたのは、すんなり終わらなかったからで、議会が採決すべき案件を
全て終えたからも、その後で話し合うべき「動議」が提出されたからだ

ここのところは議会のルールを知らないとよくわからないところだが
とにかく、議員さん数人(白井・加藤・浅尾市議)によって、
議会として期間中に討論すべきものが動議という形で提案されたということで
ある人達にとっては残念なことに、「そんなことは討論する必要なし!」
としたい数の支配は(議会事務局からの説明による)手続き上の段取りから出来ない事となって
本会議場で討論されることとなった

その動議(提出者、白井市議 賛同者 加藤市議・浅尾市議)とは
「議会としての対応を求める動議」
簡単に言えば、昨年行われた政治倫理審査会において山崎議員は、自ら積極的に疑いを晴らすために協力をしなければ
いけないはずなのに(新城市議会政治倫理条例2条3項)本人が協力しなかったために条例違反の事実認否がなされなかった
政治倫理審査会はそのままの状態で結論をいったん出して解散したが、本人の協力がなかったという事実は
議員としてあるべき姿ではないから 議会として何らかの措置なり判断をしてほしいというもの

そしてもう一つは、やはり政治倫理審査会で打桐議員に出された結論と、それを認めた議決
「本人自ら市民から抱かれた疑念を晴らすために、条例第3条4号の違反状況を早急に是正するとともに
公の場における説明責任を果たすための謝罪を行う」
この行われるべきことがらが、実行されているか確認し、仮にされていなかったら早急に果たすことを
議会として求めるというもの

市政に関心のない方は、細かな話とか大した問題ではないと感じられるかもしれないが
この2つの要望は実は、以前に市民の側(市政を考える会)からも公開質問状として求められている
ところがそれに対する答えは、現在の政府が行っているような、、要点を暈したようなもの
と判断されても仕方ないものだった

そこで今度は市民側からではなくて、現在の議会の姿に危機意識をもった議員さんが
自分たちの信頼回復のために行動を起こしたというわけだ

そんな経緯で、急遽本会議場で討論となり
この動議に賛成の立場、反対の立場で、意見を戦わすこととなった
動議を出した立場からすると、この様な状態を見過ごすことは、既に信頼を失っている議会が
更に信頼を失うことになるので、何らかの判断をすべし、、
一方反対の意見は、これらのことは個人の資質の問題で議会として何か行動を起こす類のものではない
また仮に可決して何らかの罰のようなものを強いることになれば、それはそれで罰則規定の存在しない
議会条例とか政治倫理条例に矛盾が生じるという、、という法的な意味での反対

しかし、その時現場で考えたことは、「何故条例に罰則がないのだろうか?」という点だ
確かに今までの経験からすると条例に罰則がないために、結果的にやりたい放題と
思えるようなことがいくつも存在した
(一時期は罰則項目を設けるべきだと怒りを持って願ったことがあった)
だが条例を作るのは当人(議員さん)たち、改めて自分たちの首を絞めるような罰則を作るのは考えにくいが
実はそのことよりも罰を設けていない理由は別のところにありはしないかと自分なりに考えてみた
それは大前提としてマックス・ウェーバーの言うように政治家のエートス(職業的な倫理観)、
政治家という得意な職業人の人格が、選挙で人民から選ばれているという時点で確保されていると解釈することだ
つまり性善説のような解釈で議員さんを捉え、法(条例)を犯すなどということは
そもそもその職業に値しない人格ということで、わざわざ罰則を設けていないのではないか
これは違うかもしれない、ただ自分がそう思ったというだけのことだが
ところが昨今、この倫理的な問題が「法に反していない」との解釈でないがしろにされている(国も市も)
倫理の問題が、法の問題として扱われる、、、実はそれがレベルの低いことで、
そんな話がまことしやかに出てくる事自体が普通(正常)ではないことを証明している

よく、どんな人であろうと選んだのは選挙民の責任
次の選択の機会に、その態度の表明をすれば良い、、と言われる
しかし、次の機会までに充分過ぎるほどの時間がある場合
人は果たして次の機会を待つだけでいいのだろうか、、
それまでにすることはないのだろうか
おそらく、無駄であっても、間違ったと感じた方々に対しても
期間中は真っ当に活動していただく、、そういうことを望み、声にすることが
より必要なことではないか
(そうしないとあまりにも悲しすぎる)

現在の状況に危機意識を感じている人が、市民であれ議員であれ声を上がる
次の機会まで待つのではなく、目前の業務を真っ当に行ってもらうように言い続ける
(その評価は市民目線で妥当なものと思われるように)
それが肝心なのではないか

ところでこの動議、賛成で起立したのは白井・加藤・浅尾・山口・菊池議員の5名
長田議員欠席で、最近見られる傾向のままだった

今年10月には、新城市では市長・市議会の選挙が行われる
これらのことも参考にすべき項目かもしれないのでおせっかいながら
ダラダラと書き連ねてみた

 

 

 

 

 

 

 

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まるでエラン・ヴィタール(生命の飛躍)みたい

2017年06月27日 09時13分14秒 | あれこれ考えること

将棋の藤井4段が連勝を続けている
昨日の対戦で、単独一位の29連勝となって
世間は大騒ぎしている

連勝の記録もすごいが彼の年齢が14歳であること
プロになったばかりであること、そうしたことに
驚きの目を持ってしまう

世の中は、不思議な事に同時期に似たような事(若い人の活躍)が起きる
卓球の世界では張本智和くん(6月27日誕生日で14歳)が
世界ランキング一桁の水谷を破って新時代の幕開けを感じさせる
女子では17歳の平野美宇が実質世界一のタイトルを一度手にした
陸上界では18歳のサニブラウンが 100M、200Mで何年ぶりかの2冠を実現した
そしてサッカーの世界では15歳の久保建英が飛び級でU19のなかに選ばれている

まるで一気に新時代の幕開けのような屈託のない勢いを感じる
エラン・ヴィタールが現れたかのようだ
(本質的な意味合いとは違っているかもしれないが) 

しかし、ちょっと変わり者の愛すべき加藤一二三さんは
藤井くんは20までに8段くらいにならないと、平凡な棋士として終わってしまう
可能性を示唆している
それだけ厳しい世界ということだろう
上にあげたアスリートたちも、そのまま伸びるか、どうか、、
本人たちの努力次第とはいうものの、、わけの分からない「運」と言うものの匙加減は
どんなものとなるのだろう
その運命は残酷か、、、それとも最終的には意味あるものか、、 
少しの努力を要せず、それをただ見届けるだけの素人の気楽さだが
それでも感情的に肩入れをすると失望感や挫折感も味わうことになる
そうして時代を感じることになる 

今、時代は漠然と「変化」を求めているように見えるが
日本の膠着化した社会(政治)は、変化するのだろうか、、
 

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祖母のこと

2017年06月25日 14時17分30秒 | 徒然なるままに

フリーアナウンサーの小林麻央さんが亡くなった
乳がんを患い、それとたたかう姿をブログという形で
多くの人に発信していたが、、残念ながら、別の世界に旅たってしまった

配偶者である市川海老蔵さんは、
「不思議なことに、最後に愛してる、と言って旅立った」
と記者会見で言葉を発した

本当にそのように話したかとか
話せる力が彼女にその時あったかどうかは大した問題ではない
彼が明らかにそのように感じとったということ
それは間違いなく自身の経験として刻まれたということだ

このようなことは、実は自分も経験している
大好きだった祖母、いつも自分のことを考えてくれて、働き者で
子供の頃はイチゴや、とうもろこし、じゃがいもをつくって食べさせてくれて
歳とって上手く動かない身体で毎日掃除をして、自分が勧める珍しい食べ物を
おいしいおいしいと言って食べてくれて
人に借りをつくるのが嫌いで、楽しい話が大好きで、何かことがあると
ドンと腹をくくったようにたくましくて、、、

でもそんな祖母も年齢には勝てず、最後の数ヶ月は寝たきりとなった
その何ヶ月は、妙な言い方になるが、とても充実したものだった
祖母は寝たきりでも夜中に目覚めてトイレに行きたがった
自分の脚では行けないので、必然家族の誰かが手伝うことになった(交互に役割分担をした)
また食事はほんのすこしでも自分がスプーンで食べさせてあげたりした
祖母は最後は誰が誰だかは認識していなかったようだった
でも、そんなことは問題ではなかった
祖母が自分たちがまだ記憶が無いような、ただ生きてるだけの生物だった時
無条件にしてくれたこと、そのお返しをできること、間に合ったことがむしろ嬉しかった

最後の数ヶ月、祖母と布団を並べて寝た
その時、どうしてもっと早く祖母と楽しい時間を、
旅行に連れて行ってあげるとかできなかったのか
と後悔の念が責めるように湧いてきた

祖母は天寿を全うした
祖母は今の自分の年齢より少し上の時、長男の死を目の前で見ることになった
その52歳で亡くなった父が、生きていたならば気になって仕方なかっただろう
祖母のことを、できるだけ大事に、もし彼岸があって父に会うようなことがあったら
「よくやった」と褒めてもらえるようなことをしたいと、心に決めていた
それが、傍目にも結果的にも出来たかは分からない

時々、祖母は「私は幸せだ!」と他所の人にも言っていたらしい
それを聞いて幸せだったのは、こちらの方だった

祖母が亡くなった時、最後の別れをする時
祖母が横たわった布団に自分の涙が落ちた
ポトリ
涙がそんなに大きな音がするものか、今でも不思議に思う
そしてその布団に向かって、庭から1羽の雀が入ってきた
その雀は何故かびっこで、歩くのが下手くそだった
その刹那、自分の頭に浮かんだことと言えば
「祖母が最後のあいさつに来てくれた、ありがとうと言いに来てくれた」
そしてそれは絶対に間違いのないことという確信をもった

祖母は骨折していて最後は歩けなかった
その祖母の姿を暗示するような雀
それがほんのちょっとだけ現れて、自分が確認するのを見届けて去っていった 

今でもそのシーンは覚えている
心理学的にどうのこうのいった一見客観的な解説があろうとも
今の自分は自分の解釈で充分だと思っている
そして、そのような解釈ができる幸せを、感じている

結局は妄想とか思い込み、他人にとっては錯覚に過ぎないことでも
人のなかに刻まれることは、、、
本人にとって、何よりも真実

祖母が亡くなってからずっと般若心経を唱えることにしている
仏教徒ではないが、そうすることによって祖母とのつながりを感じられるようで

本当に、大好きだったよ「おばあちゃん」 
今も祖母の写真を見ると、心が震えて冷静に見られない自分がいる 


 

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やってしまった

2017年06月24日 07時49分26秒 | 徒然なるままに
定期的にやって来るちっとも嬉しくないお客さん
少し前から心配してたが、昨晩お風呂からあがって
パジャマのズボンをはこうとしたとき
グビグビ!

やってしまったギックリ腰

認めたくない気持ちとなるべく被害が大きくならないように
との気持ちが入り混じって、とにかく安静にすることに
(直ぐに就寝態勢に)

仕方ない
前回は余震みたいに第2弾、第3弾がやってきて脂汗をかく羽目になってしまった
今は嵐がおさまるのを待つだけ

情けない
最近腹筋も背筋も運動してるが、あれじゃ足りないってことか

それにしても、ガックリ
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イメージと違う「葉隠」

2017年06月21日 08時59分38秒 | Weblog

ある書物に以下のような著述がある(現代語訳)

人に意見して、その欠点を改めさせるということは大切なことで、大慈悲心のあらわれであり、ご奉公の第一である。しかし意見の仕方はたいへんむつかしい。他人の善悪を見いだすことはやさしい。それを批判するのもたやすい。たいていの人は人の嫌がる言いにくいことをいうのが親切だと思い、それを受け入れなければ仕方がないという。それは何の益にもならないし、人に恥をかかせ悪口をいうのと同じであり、自分のうさばらしに言うにすぎない。

人に意見をするには、人が受け入れるか受け入れないか、その気質をよく見極めねばならない。親しくなって、こちらの言葉を信頼するようにするような状態にしてから、趣味などの話で心をひいて、言い方にもいろいろ工夫し、時期を選び、あるときは手紙で、あるときはしばしば別れるような折だとか、自分の欠点や失敗談を聞かせて、意見を言わないでそれとなく思い当たるようにするのがよい。また相手の長所をほめて、気分を引き立てるように工夫して、のどが渇いたとき水を飲むように受け入れさせて欠点をなおすのが意見というものだ。このように意見ははなはだむつかしく、しにくいものである。欠点は長い年月、しみついているのだからなかなか直せるものではない。自分にも覚えがある。

しかし、同輩同僚、たがいに親しくなって、欠点をただしあい、1つの心になって殿のお役に立つようになることこそ、家来としてのつとめであるし、大慈悲というものだ。いたずらに辱めて、どうして欠点をなおしてやることができようか。

ここまで、、
ご奉公とか、殿とか家来の言葉が出てくるからむかしの話のことは想像がつく
しかし、内容はまるで現実的な処世術のようで、ビジネス社会でも使えそうな内容だ

さてこの書物とは何か、、
答えは「葉隠」
この部分は有名な「武士道とは死ぬことと見つけたり」の 記述があるところの
少し後ろに書いてある(もっとも、自分はまだ初めの方しか見ていないが)

「葉隠」はイメージ的には勇ましい内容で、戦前のお国のためにとか、死を美化するような内容と
勝手に思っていたのだが、どうも違うようだ
もっと現実的な、あくびの止め方や、褒め方なども書いてある

むかし購入したこの「葉隠」
わざわざ今になって引っ張り出して読もうとしたのは、ずっと気になっている公務員の方々の
仕事ぶりというものが頭にあるからだ
武士の時代のように身分制度が確立していて、お上大事というときでも
現実的な対処の仕方があるのだから、いくら制度が変わっているとは言え
人としての共感できる部分は多いはずで、下の人たちはどう考えるべきかも
参考になりと思ったからだ
(現在何の命令系統にも属していない自分が知ったとことでどんな意味があるかは
 はなはだ疑問で、単なる知りたいという欲求だけかもしれない) 

ところで、「葉隠」と同時に思い出した本がある
これもむかし購入した本で、購入後一気に読んだ
そして、とても恐ろしい本だという印象をもった
その本とは「韓非子」


管理の仕方等が、恐ろしく現実的にリアリティをもって著述されている
西欧の支配の考え方が理屈、法によって組み立てられているとするなら
中国のそれは痛いほどの経験に基づくものといえる
ここには、現在の政権が行っている(と思われる)様々な手段が暗示されている
そしてそれらは西欧の思考の仕方からすればハンナ・アーレントが言う
「全体主義」の方向に進む傾向が見えるかもしれない

歴史を学ぶことは、歴史の経緯を知るだけでなく
人が過去にどんなことを考えてきたか、ということも含めて
学ばなければならないのではないか

「葉隠」は、その内容とは異なるイメージで広く紹介された
そしてその結果導かれたのもは、、、
「韓非子」は恐ろしいまでの冷徹な支配の仕方を明らかにしているという事実
(その内容は下には秘密にしておきたい、、と皇帝は考えたらしい)

直接的に役立つかどうかは分からないが、正しい判断を
いや判断を間違えないためには、いろんなことを知っておいたほうが良い
(多分、それを広い意味で教養と言うのだろう)

上の立場の人間だけでなく、個々の人間が個々の考えと判断力を持つ
そして言葉にする そのような癖をつけること 
それが試行錯誤を繰り返す人間の知恵と思うが
果たして現在それが実現されているか、、、
考えることは無駄、思考停止で、ただ命令に従うだけを求められているような、、
それが垣間見られる現在の(政治的)状況

イメージではない現場の知恵としての「葉隠」
人を支配するために上はどう考えるかという「韓非子」
それから、ちょっと頭に入れておくと、きっと役に立つと思う
(ある種の人には、個人個人があまり賢くなってほしくない、、と思っているかも)

しかし、イメージ操作というのには、気をつけなければ、、

またもや話があちこち飛んでまとまらなかった
まるでブルックナーのまとまりのない交響曲のようだ
それだから、自分はブルックナーに共感を覚えるのだろうか、、 





 

 

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質問は事前にわかっていた?(記者会見における違和感)

2017年06月20日 08時38分50秒 | あれこれ考えること

昨日の夕方、安倍首相の記者会見を見た
リアルタイムで見ていた時何かしら違和感を感じた
首相の発言は相変わらずの自分勝手なものだったが
言いたいことを言い終わったあとの記者の質問に答えるとき
その違和感は急に襲ってきた

質問は当然記者さんも関心のあると思われる加計学園の事と予想されたが
何故かそれはあまり表立って出てこなかった(記者さんは世間の空気を読んでいない?)
それは、良いとしても「公文書の管理について見直す考えが有るか」
と質問が発せられた時、(このような質問が出てくるのは分かるが)
安倍さんの答えは「公文書は歴史的、、、」などと官僚の様な言葉づかいをした
森友学園や加計学園で公文書のあり方が問題になっただけに
率直な現時点での思いが自分の言葉で出てくると思ったのだが、、、

安倍さんの視線はチラチラと何度か下にいっている、、
何か読んでいる、、間違いなく準備されたものを読んでいる、、そう感じられた、、
でも何故?
現場ではどんな質問が来るかわからないはずなのに、、
これでは最初から質問がわかっていたのではないか、、
挙手した記者を無作為に選んで質問しているような印象を与えようとしているが
実は最初から質問する人も質問内容もわかっていたのではないか
そんな疑いが自然と浮かんだ

すると、不自然に広範囲の質問があったことも理解できる
この違和感は、自分だけでなく多くの人が感じたようで
自分と同じように書いたものを読んでいるとネット上で指摘した人が少なくない 

安倍さんの進め方もひどいが、これを許してると思われても仕方のないメディアも酷い
メディアについての不信感は内閣支持率の数字にも現れる
今回、どのメディアも大きな数字のダウンを報道している
しかし、前回の調査の数字をよく見てみると、
その数字は各媒体の方向性を示す数字が、笑えるほどはっきりと報道されている
つまり、読売新聞・日経新聞等は高い数字で、朝日新聞・毎日新聞はそれよりずっと低い数字だ
それは誤差というより、メディアの望む数字を表現しているように見える
となると、メディアは自分たちの好む数字を出すコツ・手段を持っているのではないか
とさえ思えてしまう

統計とか世論調査は、額面遠り気楽に信じてはいけない
ということかもしれない

ところで、ネット上では昨日のNHKテレビの「クローズアップ現代」で
萩生田官房副長官の発言文書(新資料)が明らかにされて、
そこには今まで公表されていたものよりもっと具体的な表現で関与を示唆するものとなっている
これはNHKが各メディアを出し抜いた報道と言えるかもしれない
それで、今朝の各社の報道を見ようとすると、出し抜かれたのが悔しいのか?
この新資料についての報道はない(今のところ)
その静かさは気持ち悪い、、 

メディアは調査報道という原点を疎かにして、
安易な発表報道を繰り返しているのではないか
安倍さんの進める方向性も恐ろしいが、
メディアのこの姿勢・現状も安心していられるものではないようだ


 

 

 

 

 

 

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ブルックナー交響曲第3番(名古屋ブルックナー管弦楽団コンサート)

2017年06月19日 08時32分37秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

何年ぶりだろう
おそらく10年は超えている
むかしはオーケストラのコンサートと言えばここばかりだった
ショルティのウィーンフィルも、シノーポリのニューフィルも
確かここで聴いた

先日の名古屋での演奏会形式によるワルキューレの際に
とても魅力的な印刷物を手渡された

まず目を引くのがプログラムでブルックナーの交響曲3番(第3稿)となっている
詳しく見るとオーケストラの名前が、名古屋ブルックナー管弦楽団
ブルックナー好きの自分とすれば、これだけでチケットお買上げというところ
そして会場が、懐かしい以前の名で言えば金山市民会館 (現在は日本特殊等業市民会館フォレストホール)

会場は自由席、料金は1000円
リーズナブルな価格なので、今まで経験したことのないような良い席を確保した

メインのプログラムが女性には好かれないと思われるブルックナーだったし
マニアしか受けない3番だったが意外や意外、女性の数は多かった
(このオーケストラの関係する方々が来てたのか、、、) 

この日のプログラムは

今まで聞いたことのないベートーヴェンの劇音楽「シュテファン王」Op.117 序曲
次にブラームスのドッペルコンチェルト
そしてメインのブルックナー交響曲3番

ベートーヴェンは作品番号が後ろの方だからどんな曲かな?
と思いながら耳を傾ける
冒頭は「彼の音楽らしい」スタート、だが直ぐに木管の親しみやすいメロディーが続き
全体的に作曲技術が確保されて職人さんの作品といったところ
前座の曲としてアイスブレイクは上手くいった

ブラームス、、、
この曲はCDで聴いたことがあるはずなのだが、記憶にない
(聴いたことがあるようなフレーズがあったので)
第一楽章のちょっと大げさな主題
だがモゴモゴ・ウジウジと進められていくような音楽の印象
テーマが勇ましい割には何故かそんな風に感じてしまう曲だ
結局、最後まで楽しめず  少しつらい時間
ブラームスは4番の交響曲やクラリネット5重奏曲はいいけど
あとはどうも相性が良くない
(バイオリン協奏曲もなかなか通して聴けないでいる)

でもこの日のお楽しみは生で聴いたことのない3番
眠気を振り切って気合を入れて音楽に向かう
弦が細く刻みブルックナーらしいスタート
冒頭のトランペットは緊張するだろうな、、
でも、やりがいがあるというか目立って嬉しい、、、
そんなことを思いながら聴く

音楽は自然に流れるというよりはブツブツと途切れて
話があちこちに飛んでしまっているような装い
大音量のあとの静かな応答のフレーズ
なるほどオルガン的発想とはこういうことをいうのかもしれない
だが、この大音量の心地よいこと
難しい感情を込めたり流れの必然性というのではなく
単に大きな音を出すという生理的な心地よさ
ブルックナーの音楽を聴く時は、特に生で聴く時は、そのように感じることが多い

この初めて聴くだけでは何処にいくかわからない音楽
このスコア献呈されることになったリヒャルト・ヴァーグナーは
(2番と3番のどちらが良いか聞かれた)
すぐさまブルックナーの才能を感じ取ったのだろうか
そうだとしたら、仲間内の擁護はあるかもしれないが、やはり素人との捉え方は違う

アダージョの作曲家と言われるブルックナー
第二楽章は初稿ではかなりいろんなことをやっているが
この日の3稿では初稿の無鉄砲さはなくまとまっている
曲のはじめの大きな旋律を聴いた刹那、4年前リンツから聖フローリアン修道院に
向かったバスの車窓から見た穏やかな風景・自然を思い浮かべた
そこはブルックナーがいつも見たであろう風景だ
このオーケストラの人々もあの風景を見たら、一度経験したら
きっと違う音楽を演奏したに違いない
そういう機会があればいいのに、、などと思い浮かべた

自分は大いに楽しんでいたが、やはり何処に向かうかわけの分からない音楽
途中で逃げ出した方々もチラホラ見かけた(仕方ない、慣れないとキツイだろうから)
実際のところ、この曲は生でないと通して聴けない
CDやレコードでは楽章ごとに聴くしか出来ていない

オーケストラはプロではないので音色に潤いとか、細かなニュアンスなどは
望むことは出来ないが、それにも勝る熱気とか音楽に対する愛情みたいなものは感じた
だから最後の最後に、あの第一楽章のトランペットの主題が回帰された時は
わかっていても感動した
それはブルックナーがこうしたかったということと、
奏者も目一杯やったという充実感・幸福感をこちらも 感じさせてもらったということだ

会場では近場・近日に行われるコンサートのチラシが手渡されるが
次は何にしようか、、
7月7日に芸術劇場コンサートホールで行われる冷泉家絡みのけったいな行事も面白そうだが、、

 


 

 

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「おのぼりさん」が思い浮かべたこと

2017年06月17日 11時19分47秒 | 徒然なるままに

旅に出るといろんな事を思いつく
先日、新国立劇場で「ジークフリート」を見るために「おのぼりさん」になった 
ホテルに一泊して、友人との待ち合わせのため地下鉄の駅までブラブラと歩いた
そこで思わず写真を撮ったのが

東京人にはなんてことのない風景の写真だ
ところがいなかもんがこの風景をみて頭に浮かんだことと言えば
「必要以上にでかい」という思い
(いや本当は必要以上ではなく経済的には適切なサイズかもしれないが)
とにかく、ヒューマンサイズではない、、という思い

そこから連想したことは
この巨大な建物とか巨大な都市の中では、自分という個人がとても無力な孤独な存在
そして一歩間違えると投げやりになってしまいそうと感じられたこと

これは大自然を(山や海)を目の前にした時と異なる感じ方だ
大自然を目の前にする時は、自分の悩みなんぞは大したことはない
でも、何か大きなものに包まれているような安心感を伴う肯定的な思いに落ち着く
しかし、人工の大きな建造物を目の前にすると、、、

人間の可能性は無限大とか知恵はすごいもの
との理屈は分からないではないが、フト思ってしまうこうした不安は、、、、
いなかものゆえのことだろうか

ところで、数年前ウィーンの町を歩いた時、
一般的にヨーロッパ人は自然と人間を対立軸で考えることが多いみたいだが
どうしてどうして人間中心のホッとする空間づくりが出来ているのではないか
と、突然頭に浮かんだ

東京の車を優先とした道(名古屋はもっとそうだが)
それはヒューマンサイズではなく、それ故人間中心でない町は
やっぱりいなかもんには合わないな、、、

ヒューマンサイズ  それが良い
ブリューゲルの「バベルの塔」の絵画展のポスターを東京で見かけたのは
偶然とは言え、何かを示唆しているような気がした、、、(共時性?)
 


 

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