goo blog サービス終了のお知らせ 

パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

手始めに読み始めたのは「享保改革と社会変容」

2025年05月08日 09時24分07秒 | 

先日久しぶりに図書館から本を借りた
普段は借りている期間は2週間だがGWがあるので3週間だった
借りたのは3冊、歴史の本「享保改革と社会変容」と
ハン・ガンの「ギリシア語の時間」奥泉光の「雪の階」の二つの小説

いずれも厚みがしっかりある
3週間あっても読み終えることはできないかもしれない
でもその時は、継続して借りればいい

最初に手にしたのは「享保改革と社会変容」大石学編

小説は最初から最後まで読むのが通常だが、この手の本は関心のあるところだけ
拾い読みしても問題はない
でも最初から読むと、これはなかなか面白い
享保の改革は歴史で習ったが、8代将軍の徳川吉宗の行ったもので
記憶にあるのは「目安箱」の設置くらいだ
時代劇では彼は「暴れん坊将軍」として活躍しているが
これは「目安箱」という世間の声を聞いているところから
市中に出て情報収集していると想像力を働かせたのだろうか

話は変わるが、同じような例ではドラマになっている水戸黄門の助さん格さん
との旅は光圀が編纂を命じた「大日本史」から想像力を働かせて
諸国を回っていたとしたのかもしれない

ところで少し読んだだけだが、徳川吉宗は実務家として優秀だった
のかもしれないと考えを新たにした
大岡越前を抜擢しただけでなく、訴訟などを経験と個人的な判断に
任せるのではなく、過去の例を元に判断すべきとして膨大な判例を
アーカイブとしてまとめさせたとか、その他の面でも
微に入り細を穿ち実用的な制度にしている

この人、暴れん坊将軍のイメージよりずっと実務家で
頭のいい人なんだろうな、、と想像してしまった
情けないことに読んだものの細かなものは覚えていない
しかしこに予想外の実務家のイメージはちゃんと記憶されている

全部読まないと、気分的に読んだ気にならないが
後が控えているので、あと2、3拾い読みして小説に移るとしよう

でも、富士山の噴火とその被害に対して江戸幕府がそれなりに
援助しているところなどは、能登の地震被害において今の政府が
情けない状態であることをつい連想してしまった

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

裁判官の気持ちを理解しようとしたが

2025年05月02日 09時28分52秒 | 

彼らは何故あのような判断をしたのだろうか?
とずっと思っていた(養鶏所の裁判の時)
裁判官という人たちは、事実認定の正確さとか法的な解釈の違い以上に
普通の人が感じる感覚とは異なった考え方をするのではないか?
とさえ思ったことがある

だからこの本をアマゾンで紹介された時、すぐに購入を決めた

「絶望の裁判所」に続いて瀬木比呂志さんの本だ

勢い込んで買ったものの、読み始めると素人には少し難しい
法的な手続きとか法律用語が登場するので半分以上は頭をかすめて通過していった

だが裁判官という人びとの持ちやすい感覚とか雰囲気だけはわかった
なるほど彼らも特別な人間ではなく、普通の人間だということ
特別なのは知識量が多いということで、感じることはそれほと大差ないことは
なんとなくわかった
例えば原告の訴えるトーンがきつかったり、自分勝手と思われることには
心象が良くないとか、、そうした傾向は納得できた

ただし、自分たちの場合はどうだったのかは、どうしても不満が優先して
彼らはちゃんと捌いてくれたのかとの思いは拭い然ることはできない

なるほど言葉の上で勝負するには、裁判官に対する方法論とか手段は存在する
という当たり前の事実は確認できた
ある時、こちらが不満の表情とか態度を見せた時、彼らはそれを訴える側の
当然の権利と受け止めたのか、それとも人間として少しばかりカチンときたのかは
微妙なものだな、、と今にして思う

それにしても相変わらず不満を覚えるのは、裁判官という人々が
上手くいかないことの多い実社会の経験が少ない人が多いという点
瀬木さんも裁判官を育成するシステムと選ぶ方法について
民間の感覚を活かすべく提案しているが、ホントそうあってほしいと思う


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ファシズムの教室」を読んで

2025年04月28日 10時08分09秒 | 

ファシズムとかナチズム、全体主義などは何故それなりの支持を受けたのか
こうした疑問はずっと頭にあった
「全体主義の起源」「イスラエルのアイヒマン」「自由からの逃走」「普通の人々」
を読んでも、スッキリはしなかった
日本でも戦前の厭戦気分から急に空気が戦争へと向かったのは何故だったのか
それもイマイチ理解しがたい
そして今、兵庫県で起きている分断、第三者委員会の結果が出た後でも
頑なにそれを認めないとする、まるで意地のような対応は起こっているのは
何故なのだろう、、と少しばかり絶望感を覚えながらいる

おそらく人は集団になると個人はどこかタガが外れるような
行動をするのではないか?と漠然と思っていた
個人の集合体が大衆となるのではなく、大衆はその集団として
独自の動き方をする、そんな漠然とした考えが長いこと頭にあった

新聞の書評だったか広告で見たのか忘れたが、急いで購入し
急かされるように読んだのは「ファシズムの教室」田野大輔著

教室のタイトルにあるように、この本では大学の授業でファシズムの体系を意図的に作り出し
そこに参加した人々の個人的な心理的変化をレポートして書かせるということを行った
(あくまでもそれはシミュレーションとして行うから一応気をつけて行った)
集団がまとまるための方法として制服、ロゴ等の決定とか挨拶などの規律
みんなで敵と思われる人々への暴言などを実際に行ったわけだ
学生はそれを嘘の体験だと理解しているが、その中に入って経験するうちに
予想もしなかった気分になる
それは高揚感、満足感、使命感のようなものを感じるようになるのだ
(それに従わない人を知らず知らず正義ではないとさえ思うようになる)

この本の最初の部分にファシズムの鍵は、集団行動がもたらす独特の快楽
参加者がそこに見出す「魅力」としている
大勢の人が強力な指導者に従って行動する時、彼らは否応なく集団的熱狂の渦に
飲み込まれ、敵や異端者への攻撃に駆り立てられる
重要なのはその熱狂が思想やイデオロギーに関わりなく、集団的動物としての
人間の本能に直接訴える力を持っていることも挙げている

ファシズムの運動は複雑化した現代社会のなかで生きる人びとの精神的な
飢餓感に訴える本質的な特徴があって、強力な指導者のもと集団行動を
展開して人びとの抑圧された欲求を解放し、これらを外部の敵への攻撃に
誘導するという手法をとっているとも解説している

兵庫県でもオールドメディア云々とする人たちは
彼らなりの正義感に従っているということもある
(それが全体的な支持を得るかどうかは別として)

アイヒマンの残酷な行為は何故できたのか?と実験で調べたものがある
ミルグラムの電気ショック実験(別名アイヒマン実験)がそれで
質問の答えが間違った人物に、実験対象者は上司の命令に従って
電気ショックのボタンを押すというもので、声や姿が見えない時は
なんら罪悪感も覚えずにそうした行為を行ってしまうものだ
(行為者は単なる部分的な作業者として意識して)

この本で展開されたファシズムのシミュレーションでも罪悪感とか責任感は
集団のなかで希薄化されるとされており、その実態は丸山眞男も
似たようなことを報告している

道義的に問題有りとされたが、極めて深刻なテーマの実験があった(アメリカの小学校)
それは「青い目と茶色の目」とする実験で、青い目を優秀と仮定し
茶色の目の人に向かう意識・行動を調べたもので、ここでも集団となると
情けない行動を起こすようだ
次は立場を入れ替えて茶色の目を優秀として、その行動をチェックすると
今度は蔑まされた経験のある茶色の目の人物は、青い目の人が行ったほど
過激な行動はしなかったらしい

この「ファシズムの教室実験」当事者はできる限り安全策を昂じているが
大衆の行動はブレーキが効かず、変な方向に向かう危険性は否定できない
そのせいか継続的に行なわれることはなくなったようだ

集団になると責任感の希薄化、ルールとか規律に従わない人への嫌悪感
一方向からの正義感、そしてそれらを実行する高揚感と満足感
人はそうした感情に取り込まれてしまうので
一旦ハマった集団から抜け出るのは難しいかもしれない
兵庫県の分断を見るにつけ、困ったものだと思う

この本の評価は「優」としておいた

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「イワン・イリイチの死」を読んで

2025年04月20日 09時09分20秒 | 

この小説「イワン・イリイチの死」を読む気になったのは「絶望の裁判所」を読んでいる最中だった
そもそも「絶望の裁判所」を読んだのは、実体験を含めて裁判というものに対する不信感が
あったからで、その不信感の理由は読んで少し納得したのだった
(少し前にこの本ついては書いている)

この「絶望の裁判所」の中に「イワン・イリリチの死」の話が出てきたので
どんな小説なのかとアマゾンで手に入れたのだが、小説を読む進めていくと
「絶望の裁判所」の著者が「イワン・イリリチの死」を取り上げた理由が
わからなくなった(どんな流れで紹介されたのだったかな)

共通点は裁判に関する職についていることぐらいだ
物語はイワン・イリイチが病気になって、亡くなるまでの心の動き
せん妄といわれる意識障害的なものが克明に書かれているのだが
そのリアリティとか描写力に恐ろしさを覚えた

それは昨年なくなった妹の死の瞬間とか、いつか自分にもやってくる
その時をイメージしながら読むことになった
からだのどこかが痛い!
思い通りにならない人生!
自分は間違っていたのか!
そうした感覚とか後悔と否定的な絶望に繋がる意識を
作家は想像力で圧倒的なリアリティをもって表現していることに驚きを覚える

妹は最後の時、どんなことを考えていたのだろう
走馬灯のように駆け巡る記憶はどんなものだったのだろう
そして最終的に「時よ止まれ!汝は美しい」という気持ちになれたのか
そんなことを思い浮かべながら読み進めた

妹は苦しみから開放された時、とても穏やかな表情をしていた
だからきっと肯定的な結論を見出したに違いないと感じた(信じたい)

イワン・イリイチは最終的には、ヘッセの「シッダールタ」の川辺で体験した
穏やかな気持になれたようだ
それは一種の救いだ

トルストイの作品は一度何か読んで記憶があるが
圧倒的な濃密さのドストエフスキーと比べて物足りなくてハマるということはなかった
でも広い視野からの的確な描写力は、思いのほか面白いかもしれないとも思えた

最近はフィクションは読むことが少なくなっているが
感情を揺さぶる分、物事の理解は物語のほうが効率的に進みそうだ
でも、感情的な理解故に間違った捉え方をされる可能性もある
結局のところ、物事の理解は自分の好きな理解の仕方をする
ということなのだろうか



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

難解な本の最後までたどり着いたが、、

2025年04月13日 09時23分04秒 | 

なるほど、思いのほか面白いぞ
専門家同士の議論のようでよくわからんな
MMTのことを言ってるが、そういうことか(信用貨幣論)
そうだよな、結局はいろいろな要素が入り交じる世間では
人間の裁量に任せる部分があるよな、、、

先日新聞の書評欄で紹介されていて、気になって読み始めたのが
この本「政策の哲学」中村剛志著

書評でも難解だとされていたが、それでも最初の方はなんとなくわかった
(途中からはさっぱりだったが)
マクロ経済学はミクロ経済学をまとめたものでは無いとするのは
実感としてわかったし、最近はそう思っていた
経済学が科学かどうか?とか何らかの法則性があるかどうかは
科学のように数式に溢れているとしても
そこには随分無理筋の仮定とか前提条件があって実態を反映していないとの批判だった
(主流派経済学に対して)

そしてそれは思想としての概念の扱い方で、日本人はモノマネとか
取り入れるのは得意だが、本質的なところで思想となっていないので
表面的な借り物になっているという多くの人の指摘を思い出した

この本の内容を説明するのは難しい
というより、自分の力量では無理だ
だが、興味深かったという認識だけは残った
(その予感があったからこそ、購入したのだが)

気になった言葉は「開放系」「複雑系」
それらは社会は一視点からの因果関係だけでなく
多くの要素が入り混じっているから、最初から開放系、複雑系を
前提として考えるほうが良いとするものだ

これだけの本の最後のページまで行って
それだけのことしかわからなかったのか?
と少し情けない気分にもなるが、仕方ない

それにしてもこの本どのくらい売れるのだろうか?
どんな人が読むのだろうか?
と、そうしたことが気になった

そんなことを思っていたらyoutubeにこの本の紹介するものがアップされていた
それを見れば、自分が感じたものは正しい捉え方だったのかわかりそうだが
ちょいと長かったので、まだ見ていない
日曜日ですることは無いから見てみるか

【インチキ学問だらけ...】誰が日本社会を壊したか?| “正しさ”が暴走する時代の突破口を伝授(評論家 中野剛志)【ニュースの争点】





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「絶望の裁判所」が目に入ったのは

2025年04月06日 09時52分26秒 | 

行政裁判を経験した時に違和感を覚えたことがあった
(裁判は経験しないで済ませられるなら、それが一番いい)
「あれっ、もう終わり?」
「裁判官という人々は専門的な知識があるとはいえ
 普通の人が感じるように感じるのだろうか?」

行政裁判はテレビドラマのような証人が出て丁々発止で行われる
ものではなく、準備書面という原告・被告の言い分を書いたもので戦われる
相手側の言い分に対する反論は2ヶ月ほどかけて裁判所に提出されるので
裁判の進行はとてものんびりしている

行政裁判は2回経験したが、最初のものはゆっくり進んでいった
しかし、2回目の養鶏場のそれはあっけないほど早く終わりとなった
「まだ肝心な購入価格が高い安いの話が十分に戦われていないのに、、」
自分が覚えているのはそういう気持ちだった
「手続きの不自然さの指摘が終わって、さあ、問題の価格について、、」
と意気がったが、手続き論だけで判断がくだされそうになった
そしてその結果は「手続きに瑕疵はない」

外形的事実といわれる言葉がある
兵庫県の優勝パレードの問題では、金融機関に補助金を出すとした時期と
実際に金融機関がパレードにお金を出したタイミングが隣接して
しかも副知事が絡んでいるので、疑われても仕方ない(外形的事実があるということ)
と橋本徹氏も公言していたし、第三者委員会でもその旨が書かれている

このように普通の感覚ならそうだよな!
と思われることは自分たちの場合もあった
肝心な価格について、心理学にはアンカリング効果と言われる考え方で
価格決定に影響を与えると思われる行為が行政によってなされたのだが
裁判官はそれを奇妙だとは認識しなかった
(試しに数人に裁判の結果を知らせずに、行政の行為をどう思うか聞いてみると
  勘の良い人はその行為に「ええっ、なんで」と反応した)

同じものを見ても(聞いても)おかしいと思う人と思わない人がいる
白黒結論を決める人は、本当に正しい判断ができるのだろうか?
それが、ずっと頭に残っていた
そして公には結果が出たが、こころはスッキリしないでいた

そのせいか「絶望の裁判所」を目にした時、直ぐにアマゾン購入することにした


裁判絡みでは昨年に「裁判官の良心とは何か」竹内浩史の本を読んだ

竹内氏の本の中に「ヒラメ」という言葉で裁判官の出世主義を
紹介した部分があったが、どうもそれは竹内氏の独断ではなく
その空気は「絶望の裁判所」にも書かれていた

そしてこの本で頷いてしまったのは
裁判は素早く処理するもの、それが評価につながると書かれた部分で
「だからあの時もそうだったのか!」
とついわかった気になってしまった

裁判官という職業の人達の実態は部外者にはわからない
頭が良くて、正義感に燃えて、何事も公平に応じる
そうした人たちと思われるが、中にいる人達(竹内氏、瀬木氏)は
必ずしもそうでは無いとされている

瀬木氏は、失策をしない、手際良く片付けるなどの評価基準の検討
民間の常識的な判断力を活かすためにの裁判官任用のシステムなどを
提案している
ざっと読んだだけだが、ちょいと変わった人かもしれない
と思えないことも無いが、その指摘は的を得ている気もする
(キャリアシステムの変更や事務総局の解体など)

人間社会というのは、欠点のある人間同士がどこか折り合いをつけて成り立っている
できる限る妥当な落とし所を、理性と感情で求める様になっていると思っていた
でも実態は、必ずしもそうではなさそうな雰囲気だ

結局のところ、いろんなことは無条件(無関心)にスルーすることは良くない
ということかもしれない
気がついた人が声を上げたり行動したりする
それがあって初めて少しは良くなるのかもしれない
(悪いことが少なくなるのかもしれない)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ガラス玉演技名人」は外の社会に出ることにした

2025年03月30日 08時32分17秒 | 

コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」がきっかけで読むようになったヘルマン・ヘッセ
今でも彼は一番のお気に入り作家だ
だからドイツを旅したときは、ヘッセの生まれたカルプという小さな町にも出かけた
そこにはヘッセの記念館があったが、残念ながら入館者は悲しいくらい少なかった
記念品として彼の小説が販売されていた
大好きな「シッダールタ」を購入しようと思ったが
ドイツ語の本を手にする暴挙は諦めた

購入候補に挙げたのは「シッダールタ」の他に「メルヘン」と「ガラス玉演戯」
「メルヘン」は一つ一つが短いからドイツ語でも読めるかもしれない
「ガラス玉演戯」は最後の方にでてくる「シャボン玉」という詩が
とても気に入っていたので、手元に置きたいと思ったのだった

「ガラス玉演戯」はヨーゼフ・クネヒトがガラス玉演技名人となるまで過程と
なってからの精神的な動きを克明に描いたもので、正直なところ覚えているのは
ヨーゼフ・クネヒトは偉い人だな!という印象と、「シャボン玉」の詩だけだ

昔読んだ「ガラス玉演戯」は新潮社のヘッセ全集版の一つで価格は1800円だった


若くて経験も足りない時期に、難解なものをよく読んだものだ!
と自身の行為に驚くが、今でも主人公の行為は尊敬に値すると思っている

ガラス玉演戯とは空想の産物で、音楽と数学とを混じえた抽象的なゲームみたいなものらしい
名人は純粋培養されたような教団内で、その精神的・技術的な高さ故に名人となったのだが
彼は最終的に名人の地位をすてて世間に出る決心をした
彼は一種の象牙の塔にとどまることを良しとしなかった
むしろ人間の欲望とか野心とか、良くないものを含んだ社会の中に身を置こうとした
ガラス玉演戯はその世界にいれば、高度な抽象的思考の価値とかその有益性を実感できるだが
それでもクネヒト(奴隷の意味を持つ言葉)は外にでた

そこにいれば安泰で誰もが尊敬してくれるし生活も困ることはない
でも彼はその選択をせず荒野に旅立つ
自分が覚えているのは、この人は偉い人だなという記憶

そしてこれは、もしかしたら今の社会に求められているものではないかと思えて仕方ない
つまり、高度に体系化されて調和のある世界があるとしても
そしてそれは時間をかけて守っているものだとしても
人間社会の現実に向かう態度を持つ気概こそが必要ということで
政治家とか法律家は自身の世界の中で住んでいるだけではダメということで
昨日の大乗仏教の考えに近いが、一部の解脱者とか知識人で自己完結するのは良くない
ということだ

どうもうまく説明はできないが、とにかくこういう人が偉い人と自分は思っている
ところで心が落ち着く「シャボン玉」はこんな詩

 シャボン玉

長い長い年月の研究と思想の中から
おそくなって一老人が晩年の著作を
蒸留させる。そのもつれたつるの中に
彼は戯れつつ甘い知恵を紡ぎこんだ。

あふれる情熱に駆られて、一人の熱心な学生が
功名心に燃え、図書館や文庫を
しきりとあさりまわって
天才的な深さのこもった青春の著作を編んだ。

ひとりの少年が腰かけて、わらの中に吹き込む。
彼は色美しいシャボンのあわに息を満たす。
あわの一つ一つがきらびやかに賛美歌のようにたたえる。
少年はありたけをこめて吹く。

老人も少年も学生も三人とも、
現世の幻のあわの中から
不思議な夢をつくる。それ自体は無価値だが
その中で、永遠の光がほほえみつつ
みずからを知り、ひとしおたのしげに燃え立つ。

    高橋健二 訳

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「朝と夕」ヨン・フォッセを読んで

2025年03月25日 16時37分20秒 | 

ノーベル賞作家ヨン・フォッセの作品「朝と夕」を読んで
つい思い浮かべたのは少し前に読んだ同じくノーベル賞作家の
ハン・ガンの「すべての、白いものたちの」だった

両作品とも出産のシーンが書かれていることもあるが
全体的なトーンが似ている(静的な雰囲気)
饒舌な描写ではなく、むしろ反対の削ぎ落とした言葉と
内的な想像力を鼓舞する文章だ
そしてこういうの、好きだな!と思うのだった

こうした過度の描写がない文体は今トレンディなのだろうか
単なる偶然なのだろうか

何かドラマティックなことが起きるわけでは無い
淡々と語られていくのだが、出来事は夢の中の出来事のような味わいだ
それは自身が体験した大怪我をして生死を彷徨っていたときに
意識が明瞭なまま身体を離脱して上方から家や人を見おろす神秘体験の影響のようだ

ハン・ガンもヨン・フォッセも彼らの内面で起きていることは(描写していることは)
何となく分かるという実感がする
それは多分、自分との対話のそれと似ているせいだと思う

本を読んで、そのあらすじとか内容をうまく語るといった才能は自分にはない
だが、何かを感じることはできる
それはこの本のヨハネスの年齢が自分と近くなので
実感として思えるようになっているのかもしれない

ヨン・フォッセもハン・ガンも多くを語るよりも
読み手の中にある何かを呼び起こす力が優れているように思う

その分読みやすくて、目がしょぼく、気力が続かない今の自分には
有り難い存在だ
この本の評価は「優」としておいた


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「トランプ信者潜入一年」を読んで連想したこと

2025年03月02日 09時57分22秒 | 

ベルリンの壁が崩壊した後フランシス・フクヤマは「歴史の終わり」を書きあげた
人間が作り上げた制度、思想は進歩するものと捉え、その終着点として
資本主義・民主主義を標榜する陣営、特にアメリカが代表する世界観が
全世界を席巻するものと少しばか楽観的すぎる自説を展開した

そしてこの時代の覇者と思われたアメリカは
その力(兵力・経済力・理想主義)によっておそらく過度に世界に介入していった
ところが徐々に現実社会は、NHKの「欲望の資本主義」で紹介されるように
格差・少数者の支配などを始めとして世の中の混迷の度を深めていった
それは資本主義に内在する問題かもしれないと思えるところもあった

時が少し経って、今思うと予言のように出版されたのがハンティントンの「文明の衝突」だった
それには地政学的、歴史的に育まれた民族の思考法は、必ずしも西洋的な価値観での
それと一致するものではなく、むしろ対立を生む可能性を示唆している
アメリカとロシア、イラン、中国 それらは同じ価値観で同じ傾向の考え方をしない

結局のところアメリカの世界に対する相対的な影響力は低下していった
それでもアメリカは、経済的、民主的、人道的な面で支援を行うことは続けていた
それはノブレス・オブリージュと言われる、富んだ者、力のあるものは
弱いものを助けるといった余裕のあるところを見せていた

しかし相対的なアメリカの影響力や国内の社会環境はトランプ大統領が
「MAGA」(アメリカ合衆国を再び偉大な国にする)
と宣言しなければならないほどの状況になった

昨日からテレビでも多く報道されているトランプ大統領とゼレンスキー大統領の口論
個人的にはこれは「遅かれ早かれ、どこかで起きること」と思っていた
どちらかが現実を踏まえていなくて間違った行いをしたとうよりは
いずれ起きるに違いない出来事のように思えたのだった

ところで昨日読み終えた本がこれだった(トランプ信者潜入一年 横田増生)


自分はトランプ信者ではない、むしろその反対だ
対立する人間を敵と見なし、暴言を良心の呵責もなく繰り返す人物を
あのポジションのおいては駄目だと思っている
そしてアメリカ人が民意としてか彼を大統領に地位に選んだのは
実はアメリカの自滅だと思ってる
彼の得意なディール思考、それはノブレス・オブリージュとは対立するもので
それがあった故に「腐っても鯛」と世界からは信頼されていたアメリカが
自らその地位を捨てたのだと思えてならない

さてこの本の中で、日本人としては感覚的に把握しにくいのがキリスト教の影響だ
白人のキリスト教信者、トランプ氏の応援する母体がそれだが
そのメンタリティはインタビューを読んでもストンとか受け入れがたい
(人工中絶反対の考え方だけでなく)
そして実感と違っていたのは自己責任という概念の徹底されていること
それは日本人のそれとは随分違っているように感じる
日本では皆保険制度が当たり前のように存在し、困った時、弱者でも守られるようになっている
ところがアメリカでは、それがないことでも、そしてそれ故に大変なことになっても
自己責任だから仕方ないと考える人が少なくないようだ

そして現実社会に存在する人種差別
オバマ大統領の誕生は早すぎたとの考えもあったようで
それに対する反動もトランプ氏に味方したとあった

でも一番ショックだったのは、日本でも見られる傾向だが
SNS等の偽情報に無頓着なことだ
嘘でも真実でもどちらでも良い、役に立つものならそれが価値だ
そのような扱いで社会に影響を与え続けるメンタリティは
従来ならば出馬の時点で降ろされるのだが、日本でもそうだが
こうした人物を大衆が面白がって支持してしまう

とんでもない人物が誕生したり、登場したりすることの怖さよりも
大衆が面白半分に彼ら支持したり生み出してしまう怖さのほううがずっと怖い

社会にある程度必要なのは現実感覚だと思われるが
それに依存することは、ある意味で力による支配を認めてしまうことになる
世界は力関係だけで成り立って良いものか?

いま日本国内で起きている兵庫県の斎藤対反斎藤の対立は
まさに分断と言うべきもので、お互いが譲らないでますます激化しているかのようだ
それはトランプ対反トランプとよく似ている
つまりはこうした出来事も時代の必然なのだろうか?

それにしても、大衆がより良い選択をする!
というのはとても難しいことと思えてならない


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女の本、男の本

2025年02月25日 09時12分40秒 | 

気持ちはわかるけど、相性は良くないというものはあるものだ
読書モードになっている最近だが、この本は途中で読むのをやめたくなった
その本が「ドヴォルザークに染まる頃」町田そのこ著

作品の善し悪しと言うよりは、一言で言ってしまえば自分には合わないという感じ
それは「女の人の感覚についていけない」ということだと勝手に思っている

独白のような気持ちの描写が多いが、実生活を踏まえたそれはリアリティを覚えるよりは
かなわんなあ、、という気持ちのほうが強い(不倫とか離婚とか性的な描写等で)
そしてこれは竹内まりあのCDを1枚通して聴く時に感じる印象とか
マルタ・アルゲリッチの演奏を聴く時と印象に近い

あまりにも感情にダイレクトに攻めてくると、ちょいと遠慮願いたい
という気持ちになってしまうのだ
尤もこれは一般化できるほどの説得力を持つものではなく
単に自分がそう思ったというだけのことだ

これはブルックナーの音楽は女性にはウケず
それは男しかわからないという思い込みの反対の例のようで
この小説は女性にしか理解されないのではないか!とさえ思う

男女差による感じ方の違いというものは、絶対にあると思われるが
人にとってどちらの感じ方が正解というのではなく
ただそういう違いがあるというだけのことだ

今、なにかに導かれるように再読しているのが佐伯啓思の「近代の虚妄」

これなどは、男しか読まないのではないかと思われる本で
そう決めつけるのは独断に過ぎないかもしれないが
女性が読んでいるところをイメージすることは難しいよう思えて仕方ない

ところで前回この本を読んだ時、ブログにアップしていたが
その内容は以下のリンク先
「近代の虚妄」を読んで https://blog.goo.ne.jp/bitte1107/e/fbf85a5cd0e1d92d77bba5d81ab958ae

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする