パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「燃えよ剣」を見てきた

2021年10月31日 15時42分06秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

函館駅から10分ほど歩くと土方歳三のお墓がある

いやお墓ではないかもしれない
なぜなら此処には彼の骨も体の一部もないからだ
彼の身体は彼の味方によってどこか知らないところに運ばれた
それは官軍によって見つけられたならば、近藤勇のように人々の前に
見苦しい姿(さらし首)をさらされることを恐れたせいかもしれない
この石のモニュメントの隣には此処が彼の最後の地であったと書かれている


多くの土方歳三のファンがそうであるように自分も彼の足跡を訪ねた
生家はもちろん、会津、函館
そしてこの場所で少しだけ手を合わせた

土方歳三はある日突然やってきた
京都の八木邸の近くの壬生寺にものすごくハンサムな男の写真が飾ってあった
並んでいるのは京都の治安を守るといいながら、少しばかり物騒な新選組の連中だ
その場にふさわしくないほど端正な顔立ちだった
「誰だ、これは?」
最初に思ったのはこのことだった
なぜこんな顔の人物が血なまぐさい出来事に関与したのか?
かれは本当に自分のしたいことをしたのだろうか?
「土方歳三」という名前を深く頭に刻んで、家に帰った

その後、多くの彼のファンがしたように司馬遼太郎の「燃えよ剣」
を読んで、彼の生き様を知ることになった
彼のおおよその生き様はそれでわかった
だが、自分にはしっくり来なかった
あの顔とやってることのアンバランスは、「燃えよ剣」
ではどうしても解決できなかった

だから土方歳三関係の本を読み始めた
島田魁日記とか仲間の発言が残るもの、それから彼を扱ったフィクションも、、
そうするうちに自分なりの彼のイメージができてきた
そのイメージは一本気な男だけではなく、むしろ繊細な神経の自己の中に
美意識をもった極めて人間的な男と思うようになった

確かに彼の生まれ育った地は、徳川から優遇された場所で知らずしらず徳川家への
シンパシーを感じていただろうと思われる
それにその時代は今の時代ほど、個々にいろんな考えが生まれていたとは考えにくい
だが彼は、自分の内なる秩序が何よりも優先する性格だった(と思う)

内なる秩序とは人を管理する方法として、合理的かつ法に基づくものを良しとした
あの評判の悪い「局中法度」は、荒くれ集団をまとめるための現実的な方法として
法による管理を求めたものだと思われる

だが厳しすぎる法は、弊害ももたらした
それは却って現実的な方法ではなくなってしまったかのようだ

かれは時間を重ねるうちに、挫折を味わうに連れて彼本来の柔らかな感性に
よる管理の方法を好むようになった
人は理屈では動かない、、動くのは人間性によるもの、、
そうしたことを彼は感じるようになる
それは彼の発句集(豊玉発句集)で感じられるおおらかな感じに通じつものがある

彼はあの見込みのない戦いの中で、自分たちの素人集団の仲間に向かって
「今日は素人ながらよく戦った
 もっとついでやりたいが明日があるので、、このくらいに」
と一人ひとりに酒をついで周った
人が人のために動くというのは、こうした気遣い、感情の交流がないと駄目だ
と彼は最後に気づいたと思う

今日、映画「燃えよ剣」を見に行った
結果を知ってるだけに、いくらファンと言ってもどこか心が重い
それに一本気に見える性格設定は自分とは違うので
それも進んで見る気にならなかったのかもしれない

映画はこれで時間内に収まるのか?
と思われるほどゆっくりしたペースで進められた
京都に行くところから清河八郎の裏切り、芹沢鴨の暗殺
池田屋事件、山南敬介切腹、伊東甲子太郎との戦い、鳥羽伏見の戦い
その中で偉くなっていく近藤勇の精神的な変化も見え始める
かれは武士になりたかっただけ、、のようにさえ見える
「自分の思うようにさせてくれ」  
そういって去った近藤は実質的に土方歳三の秩序内で
いることが辛かったのかもしれない

土方歳三はもしかしたら剣術はそんなに強くなかったのではないかと思うことがある
だからこそ、合理的な勝つ方法の手段を考えついたと思われる
それは弱小集団のサッカーチームが知恵者の監督の元で戦うのと似てる
彼自身が剣術の使い手すぎると、それを基準に方法を考えるので
全部が全部そのレベルに達していない仲間では、うまく機能しない恐れがある
誰がやっても平均的に強い方法を考える
そういうことが彼は好きだったし、それを美しいと感じたのではないか

彼はモテた  と実家に手紙を書いて送っている
映画ではフィクションの「お雪」(柴咲コウ)という女性が登場する
硬派のバリバリの気張った筋道に息抜きのように現れる女性だ
「想い人」映画で出てきたこの言葉は、その言葉でしか表わせない世界のようで
美しい日本語のように思われた
歳三は、自分に生き様を描いてくれと絵の上手なお雪に依頼する
それは実家の義理の兄のところに自分の写真を届けてくれ!と依頼する感覚と似ている

それは忘れられることの恐れとか、自分たちの行動は間違っていたと
判定されることへの必死の抵抗のように思える

自分としては戦いを重ねるうちに起きた内面の変化が
もう少し見えると良いと思ったが、これは自分好みの性格設定なので
本当はどうかわからない

松平容保は運のない人だった
だが歴史の事実では孝明天皇から信頼されていた
会津と言えば官軍の敵の存在だが、松平容保の孫だったか(そのあたりの人)が
皇族と嫌婚している
それと比べて、自分が嫌な人物と思うのは徳川慶喜だ
人物を見出す力としては力量があったかもしれないが、
二条城を抜け出したところは人としてどうしても好きになれない

時間として2時間ちょっと、、の映画だが、その中で印象に残った音楽がある
池田屋事件の戦いの最中に流れていたのはオペラ、カルメンの中の「ハバネラ」だった
これが妙に効果的だった
そしてもう一つお雪さんとの重要なシーンに流れていたのは
オペラ「真珠取り」の「耳に残るは君の歌声」でこれも切なくてよかった
この音楽は最後のシーンでも使われていた

歴史上の人物像はフィクションでイメージづけられる
自分にとっての土方歳三は司馬遼太郎の歳三像とは違うが
ただ坂本さんばかりが注目される中、同じくらいの年齢の歳三さんが
この機会に注目されるのもいいかもしれないと思ったりする

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小泉今日子、香川照之、小川淳也

2021年10月30日 08時42分05秒 | 徒然なるままに

同じことを言っても、田舎のおっさんとタレントさんとか、それなりの肩書を持つ人とは影響力が違う
影響力のある人は、それなりの責任があるとするのが当たり前と思うが
日本ではなかなかそれが難しいようだ

先日、タレントの小泉今日子さんが、香川県の小川淳也さんとインスタグラムでライブ中継を行った
それが実現するに至る過程はさておき、ここでなかなかリアリティのある話が聞けた

まずは小泉さん
こどもの頃は夢見ることができた人生で、「疑うことがあまりなく、誰かに任せていたら豊かで素敵な未来がくる」
と信じていた。その後バブルの時代が来て、なんとなくそのムードを感じながら、疑いを持たずにきた。
「私たちの世代は割と社会や政治に関心を持つことをし忘れてきた気がして、それをすごく反省している

と述べている
時代が高度成長から変化してきて、彼女も年令を重ねて変化した
でもそこである行動をしたことへの世間の反応に驚く

反省するきっかけのひとつは、新安保法制に反対するデモが若い人たちを中心に起こったこと。
小泉さんはその若者たちの行動に、ツイッターで「いいね」をした。
たったそれだけのことで家の前に雑誌の記者が待っていて「怖いな、こんなことになっちゃうの?」と思い、
また時間が過ぎてしまった。

そこで終わらないのがこの人の素晴らしいところで、心は変化する

コロナ禍に。映画『なぜ君』での小川さんの生き方を見て、さらに「もうしわけない気持ち」になり、
「何か私にできることはないか?私の仕事や立場の中で何かできることはないのかな?」
と考えるようになって、今に至った。

そして覚悟を決める

社会的/政治的発言をすることで様々な反応にさらされ、もちろん中には手ひどくバッシングしてくるものや、
いろいろ反論もたくさんあった。でも、「私は黙っちゃいけないんじゃないか」と決意し、前に出て行く方がいいと考えた。
たとえバトルっても、政治のこと、話したらいい、どんどんと、って覚悟した。

そして

政治家の人は自分たちの代わりに仕事をしてくれてるけど、感謝はしても、自分たちよりエラいと思わないことが大事ですね。
自分は自分の生活や仕事を責任もってやって、自分ができないところをお任せして、次に誰がリーダーになるかわからないけど、
その人が信頼できる人なら、その人のために動く瞬間があるかも

この内的な変化は責任ある大人の好ましい成長の記録とさえ思えてしまう

彼女の覚悟を決めるきっかけになったのは小川さんだが、
その小川さんは今や絶滅危惧種と思われるくらいの政治家で、真っ正直、理想主義(だが具体策がある)
人の痛みがわかる、権力闘争が下手、何よりも言葉に力があるタイプの人だ
この人が普通の人と違うと感じられるものに以下の発言がある

人間はいい人と悪い人が二種類いるんじゃなくて、みんなの中によきものと利己的なものが同居してて、
リーダーの役割はすべての人からよきものを引き出すこと。社会が善で満たされた時の可能性は計り知れない。
それを思うと、根拠なくやれるはずだし、やるべきだし、やらなきゃ、という気がしてくるんです」

単純な善悪ではなくて人の中に潜む両面性を自覚している
これは西部邁さんも彼の著作の中で説いている
その両面性の中でどちらが表に出るか、それを決めるのは一種の教養としていて
それが保守の考え方としている
その良い面を引き出したい、、引き出すのがリーダーの役割と口にするのは珍しい視点からの発言だ

いよいよ明日は選挙当日
投票率が気になるが、テレビで香川照之氏がこんなことを口にした

「他の人のことは考えないでください。あなた自身が投票に行くことだけを考えてください。他の人は関係ありません。
もしあなたが投票に行くんだ、選挙に行くんだということを決断すれば、そして、そのあなたが10人いれば10票になります。1
億人のあなたがいれば、それは1億票になるからです」

行動するのとしないのでは、おそらく想像以上に心の変化がある
投票した人はその結果が気になる
その投票で勝った人はホッとするだろうし、負けた人は悔しい思いを持つ
この悔しい気持ちというのが大切で、スポーツの上の勝負のように「どうしてなんだ!」と反省を行う

行動すること、実は自分も行動的なタイプではなかった
だから横着な人の気持ちも分かる
でも、今はそれじゃいけないと思う
上から目線で言うのではなく、一人ひとりが自発的にいろんな感情を覚えるきっかけを
味わってほしいと思う
(いろんな経験をしたほうが人生は楽しい)

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探しものが見つからない

2021年10月29日 08時21分12秒 | 徒然なるままに

「探しものはなんですか  見つけにくいものですか」
井上陽水の「夢の中に」の冒頭の歌詞だ

今、嫌になるほどこれを実感している
探しものは見つけやすいもので目立つものだ
今の自分にとってはとても大事な腰痛のためのコルセット
でも、ずっと付けていると暑いので時々外したりしている

それが、、、、、ない
どこにもない
生活の場所は限られているのであるはずなのだが、、
ないはずがない
そう思うと余計に焦ってくる
下で見たり2階に行ったり、落ち込みそうなほど見つからない

落ち込みそうになるのは、少し前にメガネが同じように行方不明になったからだ
これも付けたり外したりしていたが、生活の場所は限られているのに
まるでメガネが隠れんぼをしてるかのように見つからない

結局、最近度が合わなくなりつつあったメガネは新しいものにせざるを得なかった
そして今も見つからずにいる
コルセットもマジックテープが効かなくなってきている
お腹周りの太い自分のせいか、すぐに外れをそうになる
これは新しいものに変えなさい、、というメッセージなのか

でもやはりショックだな
毎日毎日探しもの時間が増えていく
年令を重ねるとこのような時間が増えるというが、悲しいくらい実感してる
ほんと情けない

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当落予想の報道は必要か?

2021年10月27日 09時46分40秒 | あれこれ考えること

先日、喫茶店で4人が打ち合わせをするとがあった
ミルクコーヒ、カフェオレ、ウィンナコーヒー、普通のホットコーヒー
4人が頼んだ飲み物は全て違った

一般的な日本人の集まりでは、こういうことは少ないのではないか
多くは誰かの注文に合わせて、自分も、、、となることが多い気がする
もっとも飲み物の選択などは大して気にしていないだけの事かもしれないが

不意に、人に合わせることの多い日本の社会のことを考えた
自らの考えではなく他人の(しかも多そうな)意見に合わせ
それで安心するだけでなく、多いゆえにそれが正しいかのように
思い込んでしまう日本人
(だがこういう人々は、オルテガの定義する「大衆」であって
 日本社会に限ったものではなく、どこにでも一定数はいるのかもしれない)

話は変わって、自分で自由に判断しているようでも、実は何かに影響を受けていることはある
「アンカリング効果」と言われるもので、事前に与えられた情報がその後の意思決定に
影響を与えるというものだが、気になるのは選挙を間近に控えて当落の予想を伝える報道が
増えてきて、それがマイナスに働かないかと思えることだ

自分の投票の選択が報道に左右されるか否か?
アンカリング効果のように、事前にこのような当落の報道があることは個人の自由な選択を
制限してしまうのではないか、、と気になって仕方ない

人は多くの人の意見に左右される(同調圧力に屈する)という心理学的な実験がある
ソロモン・アッシュの同調圧力実験と名付けられたもので
与えられた課題は誰でも簡単にわかるもので、被験者は容易に正解を選択できる
ところが被験者に「多くの人は別の答えが正解だと思っている」と伝えると
何%かの被験者は自分の考えを変えてしまうというのだ
つまり自分の選択に自信を失い世間の同調圧力に屈することになるというのだ

一人一票は当たり前のように自己判断で行えることになっているとしても
人間の心理的な傾向を熟知した者たちが、アンカリング効果や同調圧力の効果を
フルに活用しようとしているとするならば、これは少しばかり怖いことのような気がする

そして無邪気なメディアがその怖さも理解せずに情報の垂れ流しをする
(勘ぐってしまうとメディアは既に何らかの方向性を持って伝えているのかもしれない)

事前の当落報道、現状分析の報道は、こうした意味合いから本当に必要不可欠なのだろうか
と思えて仕方ない

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まるで「ケインズの美人投票」状態

2021年10月26日 09時30分20秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

「ケインズの美人投票」という言葉がある
普通の美人投票は、美人だと思った人に投票するだけだが
この「ケインズの美人投票」は
「誰が一番になるかを当てた人には賞金を与える」
という条件を追加して投票を行うというものだ

無邪気に好みのタイプの人に投票していれば良いのと違って
欲のある人間という存在は、少しでも得したいと考えるので
できる限り自分の選択が当たるように考える
その結果、自分が美人だと思う選択よりは人は誰が美人だと思うか
を想像することになる
投票する人たちの性格・好みを知っていると迷いは大きくなる

現在、この状況に近いのが月末の新城市議会議員選挙だ
シンプルに「この人が良い!」で済むのなら簡単だが
個人的にはその判断基準では済まされない思っているからだ

現在の新城市議会は大きく2つのグループに分かれている
(今回の選挙には定員18人のうち現職が16人立候補している)
それは問題提起をし続けているグループと(別の見方によれば何でも反対?)
行政の説明を無条件に信じてしまうグループだ(別の見方によれば議員の役目を果たしていない?)

ただし前者のグループは、必ずしも議決の判断は一枚岩とは言えず
個々の案件によって異なる判断を行っている
それは纏まりがないというよりは、個々が付和雷同的な判断をしないことの現れだ

国政でもそうだが、行政と議会に緊張感のない状況は好ましくないと思う
例えて言えば、現在裁判となっている養鶏場の不当な価格での買上げ価格の案件でも
「議員は不動産鑑定の価格の参考とする場所が、
 新城市ではなくて豊川市にあることを知っていた」
知っていたなら疑問に思い慎重にことを進めるべき、、
と訴えるグループの意見を聞き入れて議決に臨むべきだったと思うが
それはなされずに、まるで儀式のように議決され、現在の裁判という事態に至っている

つまり議会がきちんとチェック機能を果たしていれば
裁判などという物騒な事態にならずに済んだ可能性がある

あの奇妙な住民投票の選択肢以来、議会ウォッチャー続けている身からすれば
(多少の偏見独断があるのは認めるとしても)
市議会は問題提起をしている人々のグループが増えるほうが良いと思っている

そこで今回の選挙ではその陣営が増えるような選択をしたいと思うが
困るのは、仲間が増えるように!と新しい候補者に投票すると
肝心な元のメンバーが落選してしまうかもしれないと思えてしまうことだ

誰に投票すべきか悩んでいる!
この状態がケインズの美人投票状態ということだ

このように良くするために、投票すべき人に悩むことはあるが
反対に絶対当選すべきでないと思える候補者は、残念ながら二人もいる
「今、言っていることよりも、今まで行ってきたこと」
を振り返れば、彼らにはその資格がないのは自明のことと思われるが
ここが一番の問題だが、大半の市民はそのやってきたことを知らない

当選のための一票だけでなく、落選のためにも一票がほしい、、
と、つい思ってしまう






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えらい人を選ぶこと?

2021年10月25日 10時03分30秒 | 徒然なるままに

月木の朝のルーティン、小学校の校門までの付添
その途中にポスターが貼られた選挙の掲示板がある

「なにこれ?」
いつも話しかけてくれる一年の女の子が聞く
「選挙って知ってる人?」
一緒に歩いているみんなに聞いてみる
5年生の僕が答える
「知ってるよ」
「何かな?」
市長選の方の掲示板を見て
「新城で一番えらい人を選ぶこと」

なんとなくは知ってるようだ
「でも、えらいって、どういうことかな?」
これは少しばかり難しい問だったかもしれない
「〇〇くんのおじいさんだってえらいよ
 いつもみんなのためにいろいろしてくれてるし
(ボランティアで資源回収の手伝いをしていてくれる)
 僕はえらいと思うな」
「、、、」

「お父さんと、市長とどちらがえらいかな?」
「市長!」
「本当にそうかな?
 だったら、日本のえらい人とアメリカの大統領とどちらがえらい?」
「アメリカの大統領」

小さな子に小難しい話をするのは良いことかどうかわからない
ただ言えることは、「選挙で選ばれた人はえらい人」
と子どもは無条件に思っているということだ

市議会議員も市長も、子どもたちにとってはえらい人たちに当たる
そのえらい人は本当にえらい人なのか、、
月末の選挙では、こうした子供の認識を覆さないようなひとが当選して欲しい
(残念ながら、言ってることではなく、やってきたことで
 正体が分かるような人物もいる)

以上はあちらからのコピペ

 

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応援したくなる人

2021年10月24日 09時33分53秒 | あれこれ考えること

選挙戦が始まって、何をしたら選挙違反になるのかわからない
そこでどうしても及び腰になってしまうが
今回の国政選挙で地元の選挙区以上に気なるところがある

「パーマ屋の息子」対「名家の御曹司」の戦いが展開されている
四国のある県の選挙区だ
彼の娘は「お父さんが総理大臣になったら、絶対世の中は良くなる」
と自信を持って口にしている
政治家は「清濁併せ持つ」ところがないと駄目だと言われるが
彼は正面突破の正直で正論を愚直に訴え続ける
その真っ正直さ故に異端児的な感じを受けるのは
如何に今の政治がおかしなことになっているかの現れだ

この政治家に注目したのは、一部の人には有名なあの映画がきっかけではない
例の「不正統計問題」の国会での質問を見て「これは誰だ?」と驚きを覚えたときだ
冷静で事実に基づき、わかりやすく、論旨もスッキリしていて、
とんでもなく頭の良い人だとびっくりして、名前を忘れないようにインプットした

その後、彼の質問タイムはできる限りネット中継で確認するようにしている

政治家は真っ正直な人よりは、清濁併せ持つ人のほうが良い
とするのは、ある意味そうかも知れないとも思う
だが、人はどうしても楽な方に流れる
その清濁のバランスの判断はいつの間にか崩れてしまう
このバランスを保ち続けるには、全人格的な人間性が重要なポイントとなる
現時点で彼は仲間に恵まれ、誠実正直一本で突っ走れているようだ
つい、頑張れ!と選挙区は違うが応援したくなる

同じ日に新城市では市長の選挙が行われる
ここにも真っ正直な性格で強行突破を目指す人物
(必ずしも政策がベストとは言えなくてもその正直さはわかる)
と、前任者の方向性を継承する人物の戦いが起きている

その二人の戦いは市民の投票の判断基準が「彼らのしてきたこと」
から推察されるより良い方の可能性であれば良いのだが
残念ながらそれを知るにはひと手間以上の時間を要する
(彼ら二人は市議会議員だったので、一般質問とか議決の判断で方向性はわかる)

この手間を市民自身が惜しまずに行い、その上で判断するというのが理想だが
そうしてくれないかな、、と切に思う



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仁和寺

2021年10月23日 09時09分17秒 | 徒然なるままに

将棋の竜王戦の第2戦の会場は京都の仁和寺
すごい場所で行われるんだな、、と驚いた

仁和寺は京都にあるお寺さんの中では好きな方で
禅的な緊張感のある佇まいというよりは
品の良い雰囲気に満ちていて、これを真似るのは難しそう!と、いつも感じる
この品の良さは、おそらく門跡寺院でお公家さんの好みが反映されているから
と勝手に思っている

特に好きなのは長い廊下(回廊)
行くたびに写真に撮るが、そこで生活している(生活していた)人の姿を想像すると
なぜかしらワクワクする


その仁和寺のどの部屋で行われるのか知らないが
将棋という文化が、とても大切にされていると実感する

そう言えば以前の将棋の観戦記で面白い記事を見つけた
その対局室はクーラーが効いて涼しかったが、対局者は額に汗が滲んでいたというのだ
座って黙々と考えているだけなのだが汗をかく
脳は想像以上にエネルギーを消費しているらしい
そして消費すれば熱を持つ状況は、今のパソコンと同じだなと思ったりする

仁和寺は徒然草のなかに、「仁和寺の法師」という段がある
それは仁和寺の若いお坊さんが、石清水八幡宮にお参りに行った時
彼が本殿と思った場所でお参りして、目的を果たしたと戻ることにしたが
何故か多くの人がぞろぞろと山に登っていく
仁和寺に帰ってからそのことを先輩に告げると、石清水八幡宮の重要な場所は
実は山の上にあったというのだ
(現在は、歩いて上り下りするのと、ケーブルカーを利用するのと二通りあるが
 数年前の初詣は、上りはケーブルカー下りは歩く方を選択した)
結局のところ、若い仁和寺の法師は石清水八幡宮にお参りしていなかった
何事も物事をよく知ってる人に聞いておくことは必要だ
というのがこの話のオチだ

仁和寺は源氏物語にもそれと感じさせる寺として登場するらしいが
それが物語のどの部分だったかは、自分には全然思い当たらない
(情けないが仕方ない)

今回は将棋の戦いの舞台となっているが、囲碁の戦いの場としても
仁和寺が使われることはあるのだろうか
源氏物語には囲碁をしているシーンの描写が数回あるので
使われても違和感はないと思うが、どうなんだろう

それにしても「そうだ、京都。行こう」
これが安心して実行できるのはいつになるだろう
(少なくなっているがまだ不安)

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あと味

2021年10月22日 13時33分06秒 | 徒然なるままに

「Yの悲劇」を再読した
こんな内容だったのか、、と記憶の欠如にがっかりするが、
この古典が現在、その扱いをされていないのもわかる気もした

「あと味が悪い!」
ミステリーは謎が解けてスッキリとなることが多いが
この作品は残念ながら、そうとはいかなかった
元俳優で推理力の優れたドルリー・レーンは
ホームズとかポワロを彷彿とさせる人物で
発売された当時はこの手のキャラクターが主流だったのかもしれない

いろんな作品の「あと味」とても大事な要素で、その毒のためにいつまでも印象に残る
ことはあっても、気分的には落ちこんでしまう

あと味の悪い映画に「ダンサー・イン・ザ・ダーク」がある
これは最後の1シーンのせいで、強烈な印象を受けるが、それ故にもう見る気はしない

あと味と言えば、大好きなブルックナーの音楽はどうなのかと想像してみた
彼の音楽は最終的には神への讃歌っぽいところがあって、全肯定的に輝かしく終わる
聞いてると、またやってる、、しょうがないなあ、
このひとの一番言いたいことだから仕方ないか、、、と許してしまう
(ロマンテックの最終楽章の最後の部分、徐々に輝きを増していく音響
 それはワンパターンでも彼が望んでいる世界観)

宮本輝の小説も、あと味が悪くないことが保証されているようで
安心して読める(最近は読んでないので違ってるかもしれないが)

やっぱり、自分は全肯定的なあと味のほうが好きだな



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選挙を前に思うこと

2021年10月22日 09時30分29秒 | あれこれ考えること

投票は(国民・市民の)義務なのか、権利なのか?
先日テレビでインタビューに答えて「義務」と口にした人がいたので
「おいおい、義務じゃなくて権利だろう」画面に向かってツッコミを入れた

せっかく先人たちが苦労して手に入れた投票という権利を
義務と勘違いしているならはイヤイヤでも投票するかもしれないが
正しく権利と理解していて、その上で面倒だからと放棄するのは
もったいない!と思ったりするが、現実を見てみるとこれが思いの外
簡単な話ではないことに気づく

国政と同時に新城市では月末に市長・市議会議員の選挙が行われる
そこでいろんな人に「市長に立候補している人をどのくらい知ってる?」
と聞いてみると、圧倒的に多いのが「よく知らない」という答えだ
せいぜい知っていること言えば、片方は鳳来地区の人、もう片方は新城地区の人
ということくらいで、もう少し知ってる人はふたりとも市議会議員経験者と言うことぐらいだ

よく知らない人のどちらかを選ぶ、、というのは、まるでくじ引きのようだ
知らないままでの投票ではまずい、、ということで、公開討論会が行われているが
10月2日のYoutubeの再生回数は1516回
10月7日は782回
10月14日は515回
となっている(10月22日現在)

この数字がリアリティのあるものかどうかが気になって
「Youtubeの動画を見たことがあるか?」
と合わせて聞いてみると
「見方がわからない」「見なきゃいけないけど、つい後回しに」
となっていて、自ら働きかけてチェックするというのは
なかなかむずかしいように思われる

制度的には権利の行使によって、正常な民主主義ができるようになっていても
その実態は、かなりいい加減なところで進んでいるように思える
いい加減でも、最終的には多数の意思は間違いの少ない方を選ぶということが
確保されればいいのだが、それは必ずしも保証されていないのも現実だ

最近、頭に浮かぶのは
「大衆は正しい(この定義がむずかしいが)選択をしうるものなのだろうか?」
という疑いだ

と言っても、この壮大な問に一人であれこれ考えていても生産的ではないので
今個人としてできることを行うしかない(何をしたらいいのか?)
「知らない人を、知らないままで選ぶ」という行為は恐ろしいことに思えるが
そのように感じていない人が多いのも事実(これが一番の問題かも)

とりあえず、国政の方は腹は決まっているが、市政の方は困った
(市長の方は決めてるが、市議会議員の方は全体のバランスを考えて選ばねばならないので)


 

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