パンセ(みたいなものを目指して)

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責任について

2017年10月11日 08時55分41秒 | あれこれ考えること

ある人からそっと聞いた話から連想したこと

新城市には地域自治区制度があって、地域の問題は当事者である地域の住民が
(与えられた)お金の使い道を どのように使うべきかを自ら考えていくことになっている
その予算は、交付金用と自治区予算とに分かれており、交付金は地区の人々から活動したい事業を
所定の様式に則った書類を提出してもらい 、それを地域協議会のメンバーが選択することになっている
もう一つの自治区予算は、この地域協議会のメンバーが地域の抱えている問題について
どのように予算を使うか検討して、その結果を市長に建議し、その実行に至るというもの
新城市は10の地域自治区に分かれていて、その各地域自治区に割り当てられる予算額は
人口・面積(?)等の社会的条件によって異なり、多いところと少ないところは少しばかり差があるようだ
そして、この重要な使いみちを検討する地域協議会のメンバーは、ほとんどが区長さんが兼任する場合が多いようだ
今日の問題としたいのは、区長さんと地域協議会の役割は被っていないか、、区長さんの仕事が多すぎないか  
といった問題ではなくて、地域自治区予算の決定についての地域協議会の方の気持ちの問題

ある地域自治区は、その地域自治区予算がトータルで1000万円ほど近いもので、その大きな金額の使いみちを
果たして自分たちで決めてしまって良いものか、、本当にこれで良いのか、、との不安に襲われるのだそうだ
(これが聞いた話)
普通の生活をする人は(会社経営者でない人)1000万円近くのお金を使う経験はそれほど多くない
大金の出費は車とか家だろうが、これは適切であろうが間違いであろうが 自分のお金で覚悟もしている
ところが、自分のお金でもなく、みんなの生活への責任を持つものとしたら、心優しい心配症の人はこの様な
気持ちを持つことは想像できる(他人のお金だから責任感じずに使えるというタイプの人もいるだろうが)
少しばかり不安を覚えながらも、時が来れば粛々と進んでいくこの予算
心配症の人が安心できる(責任を軽くできるような)考え方が2つある
一つは前例に似たような事業であったと考えること
そしてもう一つは、自分たちは計画を建議したが、それを最終的に了解したのは別の人であったと考えること
建議してその計画が悪いものであったなら拒絶されるはず、、それが認められたとしたら
お墨付きを付けてくれたのだから、多少問題があるような計画であったとしても自分たちの責任ではない
この様に考えると少し安心できる
(実態は建議された自治区予算は否決されたことは一度もないそうだ)

話は飛んで、新城市の若者議会について
若者議会も地域自治区制度のように、年間使える予算が設定されている
若者たちの視点でどのように使えば市にとって効果的か、、時間をかけて
調査・討論し最終的に答申を行い、市長経由で議会に提出され可決されて実行に至る
ところが、さすがに若くて純真な人たちは素朴な不安に襲われる
こんな大金の計画を世間知らずの視野の狭い自分たちで決めてしまって良いものか、、

でも安心できるシステムになっていて、お墨付きをつける役割が別にあったのだ
それは議会の承認というかたち
ここでも現実的には若者議会で出された計画は否決されることはなくそのまま了解される
果たして議員さんたちに計画を精査する技量と熱意があったかどうかは分からないが
こうして若者たちの不安は解消される

ここで考えることは、人は過度の責任からは逃れたい
失敗しても自分たちの責任ではないとしたいし、
その保証が欲しい気持ちが当たり前のように存在するということ
これを過度に形式的に進めていくシステムが行政のそれで、
本当に一体何処に責任があるのかは分からずにイライラすることはよくある

先日読んだ「選択の科学」では辛い選択に安心感を与えてくれる例として
末期患者の対応についての話があった
治療してもしなくても望みのない状況におかれた人の家族に「安楽死」を選択させるのは、
他人が見れば適切と思われても、当人にはとても難しい
でも少しだけ自分を慰められる(納得させられる)方法があって
それは医師のアドバイスに従った  と考える事だ
自分が積極的に考えたわけではない、お医者さんが薦めてくれた方法を選んだだけなのだ、、、と

自分で選択、判断するということは思いの外難しい
自由だからどのように判断できるはず
でもその判断した責任は全部自分が負うのだとしたら
人はそんな自由なんて欲しくない、、と思ってしまうかもしれない
(こうした考察はフロムの「自由からの逃走」
 ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の大審問官の章に取り上げられている)

それでも、それでも人は腹をくくって、覚悟を持って
自分が納得いくように判断しなければいけないことがある(多分)
それは未来に対する責任のこと、
未来のことは分からない、でもわからないなら想像するしかない
その想像した未来が本当に良きものとして迎えられるかどうか、、
人は試されているかのようだ
人はその試験に合格するようにしなければ
ところで、未来に対する責任とは、、
国では22日、新城市では29日に行われるあのこと 



 

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