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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

教養について

2025年08月06日 08時51分38秒 | まとまらない話

新聞広告で見かけた「もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために」
(加藤典洋著)は今の気分にピッタリの本で運も寸もなく買い求めた
同じように目に止まったのが「文学は何の役に立つのか?」平野啓一郎著

だが自分は文学を「教養」という言葉に置き換えたいと思う
教養は物知り(雑学を知っていること)とは違う
きっかけが雑学であったとしても
そこから派生する疑問とか驚きを追求して自分の頭で何かを考え
ある程度の確信に至ったものを教養と定義したい

一時期「教養小説」が流行ったことがあった
ゲーテの「ウィルヘムマイスターの修行時代」「ジャン・クリストフ」がその例だった
先日紹介した「シッダールタ」もその部類に入る
確かに物語による体験は人に大きな影響を与える
だが教養の別の分野である音楽はどうなんだろうと考えてみる

音楽は実は何を言っているのかはわかりにくい
音楽は言葉で表現されるものとは明らかに異なり
楽しめているそのものは個人の感覚に終止しているかもしれない
でもその音楽が何故自分にとって心に響くかを考えたり
更に作曲家の生き様を知ってみたり、また構造を知ってみたりすることは
単なる雑学の領域を超える

つまりはきっかけとして音楽があったとしても
その付き合い方次第で、教養になったり物知りにとどまるかが分かれてくる

教養は何の役に立つのか?
を考えみると、現実的には教養のない人とある人の違いを比べてみるとわかる
(もっともこの区別自体が偏っているとか、偏見に満ちているともいわれそうだが)
メルケルさんとトランプさんのG7での揉め事は、その一例のような気がする
片や物理学者の経歴をもつ全人格的な人間
一方はビジネスの世界で揉まれた技術のみを盲信する人間
(彼は反知性主義者にウケが良い)

人間の脳は損得を測る部分だけが大きいのではなく、
コニュニケーションを司る部分こそが人間を人間あらしめているそうだ
つまりは人は損得だけでは動かないということだが
今のアメリカは自ら自分たちの世界を狭くしているような気がしてならない

といっても教養の世界はある意味抽象の世界で
それがどれだけ自己完結的な秩序に従い、美的なものがあるにしても
社会との関わりを関係なしに済むことはない
これは「もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために」の中でも指摘されていた

社会は関係性の中にあるので、住みやすいからと言って
そこにとどまるのはよろしくない!と自らの地位を捨てて
世の中に出ようとしたのはヘッセの小説の中のヨーゼフ・クネヒトだった
(ガラス玉演戯名人)

カラヤンの前のベルリン・フィルの指揮者フルトヴェングラーは
芸術至上主義者でそこから社会の良きものも生まれると信じようとした
だが現実はそうはならなかった
(彼の壮絶な内的な苦悩の時間は第二次世界大戦のあいだ続いた)
でも個人的には、だからといってフルとヴェングラーを批判できない自分がいる

話があっちこっち飛んでまとまらなくなったが
人は人として存在するためには、人の間に存在する大切な何かを
共有することが大事だと思う
そしてそれは「教養」と呼ばれるものだと思う
(あるいは自然法の範疇にはいるもの)

これらは昔読んだ「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか」
に影響されている考え方かもしれない

まとまらない話

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