稲葉 耶季さんの書かれた「食べない、死なない、争わない」の本を読みました。
食べない、死なない、争わない (人生はすべて思いどおり--伝説の元裁判官の生きる知恵)
2015/4/15 稲葉 耶季 (著)
内容紹介
食べないから健康、死なないから幸福、争わないから平和。
ベストセラー『食べない人たち』に登場する「不思議なI先生」こと稲葉耶季が遂にベールを脱いだ!
渋谷は公園通りの東京山手教会に生まれ、裁判所で判事を務めるかたわら、ヒマラヤで学校づくりに奔走し、
現在は尼僧−−−−本能のままに行動して、すべてを実現させる生き方を余すところなく紹介した一冊。
「いまを生きる16の知恵」を収載。 amazonより
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第二章は、霊魂不滅と生まれ変わりに触れているのですが、それらの見知を度台として、
どう生きるのか?どう死ぬのか?をこの本の全ての章を通して稲葉さんの見解が散りばめられています。
スピリチュアリズム全般の情報を考察するまでもなく、非常によくまとめられています。
ちまたのスピリチュアルな情報は、夢物語的な雲を掴むようなものが多いですが、稲葉さんは、現実的に、
この社会をおいて裁判官や弁護士をやられていて、その中で生まれ変わり、輪廻転生など、まさにあの世
とこの世のベールの境を超えた領域からどう生きるのか?どう死ぬのか?について言及されています。
僧侶でもありますので、当たり前と言えばそうですが、とても分かりやすく思考のブレもありません。
まさにこのような方こそスピリチュアリストなのではないでしょうか。
・私が死を恐れなくなったわけ
死は恐ろしいものではなく、それどころか、心待ちにしたほど楽しいイベントであうことがわかった。
なぜかというと、私たちの体が死んでも「本質(魂)」は死ぬことはなく、ふるさとの地に帰り、やがて
また次の生を生きると確信できたからです。幾つかの宗教の影響を受けているのは確かですが、特定の
宗教の話ではなく、私が個人的な学びや経験と通じてたどり着いた死のとらえ方です。
霊魂は死後も存続し、そして転生する・・・。スピリチュアリズムの文献を読むと、転生しない場合も
あるようですが、それはその魂の学び(類魂の進化も含め)の度合いに大きく影響するようです。大抵は、
勉強足らずで転生するようですし、何よりも霊魂は、肉体を離れた後でも生き続けます。学びが進めば、
この世で転生しなくとも、上位の階層間で転生する場合もあるでしょうし、更には、より天上界に近づく
いていくのでしょう。
・このうえなく安らかなインドの死に方
「自分は長く生きてきて、もうこれ以上は生きなくていいな」と思った時点で、「お水だけにします」
といって、ベッドで過ごす生活に入るのです。家族は「ああ、その時期が来たのだな」と了解して、
水だけをあげます。親族や友達が訪ねて来て、いっしょに楽しく過ごし、一ヶ月くらいでスーっと
静かに亡くなります。
先日、NHKスペシャルで「老衰死~穏やかな最期を迎えるには」をやっていました。老衰死の数は、高齢者
人口の増加とともに10年前から急増。2014年には、75000人を超えて、統計を取り始めて以来過去最高と
なっているようです。なぜいま「老衰死」に注目したのか?最後まで徹底した治療を行うよりも自然な死
を受け入れるという考え方の広がりが背景にあると見られます。
「高齢者ケアについての日本老年医学会のガイドライン(2012年)でも、「AHN(人工的な水分・栄養補給法)
導入後も、全身状態の悪化により、延命効果が見込まれない、ないしは必要なQOLが保てなくなるなどの
理由で、本人にとって益とならなくなった場合、益となるかどうか疑わしくなった場合、ANHの中止ないし
減量を検討してもよい」という見解が示されています。海外では死について語るのを避けるのではなく、
積極的に向き合う動きが広まっているようです。日本国内でも高齢者人口の増加に伴い、老衰死の問題は、
今後もクローズアップされていくように思います。死後の世界観も活発に議論されていくようになるの
ではないでしょうか。
・すべての人は旅の途中
裁判所は、本来は争いの場ではなく解決の場であり、最高の解決策を見出すのが、法曹界にいる者の任務
です。そのように、相手や場所がどうあれ、負の波動を受けずに、あるべき形に導ける力があればよいの
ですが、なかなかそうはいかない場合もあります。そんなときには、相手を傷つけないように工夫しなが
ら、うまくさけることもお互いにとって必要です。ただし、だからといって、相手を批判したり、否定し
たりする必要もありません。「あなたの考えはそうなのですね」と受容したうえで、自分と違っていたら
自分の考えで生きればよいのです。
転生をくり返しながら、私たちは無数の段階の中で、一人ひとり違うところにいます。すべての人は旅の
途中なので、「まだそんなところにいるのか」「そんなところにいてはダメじゃないか」などということ
もないのです。自分もかつてはそこにいたのですから、責めるのはおかしな話です。
これらの文言は、「魂は不滅で転生しながら進化をしている」事を基盤にしています。例えば、山の頂上
に霊魂の旅のゴールがあるのなら、頂上に至る登山道は登る人の数だけ存在し、真っ直ぐに上っていく
人もあれば、一度下ってから上る道を行く人もいます。ぐるぐる回りながら少しずつ上る人もいるでしょう。
いずれは、誰もが頂上へ向かいますが、そのスピードが違ったり、上り始めた時期が違ったりしている人
が、この世にはごちゃ混ぜに居るのです。忘れてはならないのは、誰もがかつては、霊的にオギャーと泣き
生まれ出でた赤ん坊だったという事です。
下記は「シルバーバーチの霊訓」より(「未熟」キーワード)
まじめに、あなたなりの最善を尽くすことです。そして他人に対して寛容と慈悲の
心を向けてあげることです。それができるということが進化しつつある霊の証です
。人間は誰一人として完全な者はいません。煩悩をそなえた存在であり未熟である
が故に、時には的はずれのことを考えて間違いを犯すものです。だからこそお互い
に寛容と慈悲と受容性と愛が大切となるわけです。
(シルバーバーチの霊訓12 P72-3)
私は’悪’とは同じエネルギーの用途を誤っていることだから許すべきではないと
いう考え方をとります。あなたが’悪い奴ら’と思っている人間は未熟な人間とい
うことです。その人たちが表現しているエネルギーは成長と改善のためにも使用で
きるのです。悪い人間というのは霊的成長における幼児なのです。
(霊訓12 P95-6)
・「ヘミシンク」でさらに深く理解
私は、2008年以降、アメリカのモンロー研究所や日本でヘミシンクのセミナーを何度も受けて、さまざまな
経験をしました。自分のガイド(守護霊)や、先人たちとも合うことができ、今生で何を学び、何を学んで
いないかを評価するセンターや、今生の人生を反省するセンターにも行きました。成仏できない本質を光の
世界へ連れて行く仕事もずっと続けてきました。こうした経験により、人が生まれ変わるということは、
疑う余地のない確かなことだとわかり、それにまつわるいろいろな事情も理解できてきます。
なんと、モンロー研のヘミシンクをやられていたのですね。それも相当しっかりと学ばれているようで・・・
驚きです。私も、モンロー研のゲートウェイの入り口までは自宅で聴いたことがありますが、途中で止めちゃい
ました^^; しっかりとセミナーなどで学べば違う世界を覗けるのかもしれませんね。
この章は、下記の言葉で締め括られています。
不食で生きていても、臓器はそれなりに衰えていき、「そろそろだな」と自分で感じることが来ることでしょう。
そのときに、自然の流れを大切にしながら、ある意志を持ってふるさとに帰るのも、なかなかよい逝き方では
ないかと思っています。