スピリチュアル・ライフ by birch99

スピリチュアリズムを小脇に抱えて・・・スピリチュアルな視点で日常を綴ります。

16.普遍意識5-8

2011-02-21 17:50:55 | ◆「黎明」考察
地球生命系のTSI(時空間が存在するという幻想)等の物質世界特有の世界観や、
それぞれの民族が長い歴史の中で形成してきた強力な固定観念は、その内部で表現を
行っている意識にとっては極めて囚われやすい制約になり、普遍意識への解脱を妨げ
る一種のエネルギー障壁になっていて、地球生命系全体が、真実ではないある種の想
念のエネルギーが集約された、ブラックホールのような存在(幽界)を造りだしてい
ます。

人は、ちょっと環境が変わっただけで適応できない状態に陥ったりします。慣れるま
でに時間がかかったりもします。ですので、時空間の固定観念や長い歴史の蓄積から
生まれる思考を変えることは容易ではないでしょう。


この地球生命系という強大なエネルギーの場にいったんは埋もれ、その場に繰り広げ
られている厖大な時間を費やして、終に帰還した(普遍意識を自覚した)魂達は、他
の多くの生命系では決して到達することの不可能な、偉大な存在へと成長を遂げるこ
とができるのです。それは他の恒星系の個的表現や集合意識(地球外生命、宇宙人)
にとっても憧憬の的になる素晴らしい瞬間です。

ガイドの助けを得て、地球以外の惑星の宿主を選ぶこともあるらしい。地球は 過酷
な場所とみなされ、地球を選ぶものたちは’冒険的な魂’と呼ばれている。
(’死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」―退行催眠中間域全記録’
マイケル ニュートン 著)
上記のように、霊の側から見ると、地球は非常に過酷な場所のようです^^;;


分離意識をいったん持ってしまうと、魂によっては物質とそれに近い波動領域(幽界)
に留まったまま、地球上では大変な時間に相当する期間、迷妄の生活を続けることに
なり、極端なケースでは、何十万転生という長期間にわたって、地球生命系に滞在す
る場合さえあります。そしていつかは、自分の周りにある様々なことに疑問を感じる
ようになって、自らがどこからきたのかと言う、本源を求める時期がやってきます。

転生の回数に関しては、霊界通信によって様々です。数回という記述もあれば、数百
回と伝えているものもあります。分霊の概念や、インディビジュアリティとパーソナ
リティの考え方によって転生の回数のカウントの仕方も違ってくるように思います。


私達が自らの内に在る本源に意識を向けるようになって、たった一歩でも近付くため
の努力をするならば、その何倍もの援助が、私達の多くが識らないレヴェルで行われ
ています。そのときは全ての人にいつか必ずやってきますが、それを早くするか遅く
するかは、本人の熱意と過去世をも含む愛の表現の程度、それにどれだけ素直な心の
状態に成れるかに掛かっています。

魂が目を覚ますと、その奥に秘められたその驚異的な威力を認識するようになります。
その時から霊界の援助と指導とインスピレーションと知恵を授かる通路が開けます。
これは単に地上で血縁関係にあった霊の接近を可能にさせるだけでなく、血縁関係は
まるで無くても、それ以上に重要な霊的関係によって結ばれた霊との関係を緊密にし
ます。その存在を認識しただけ一層深くあなたの生活に関わり合い、援助の手を差し
延べます。
(シルバーバーチの霊訓1 P35)


普遍意識の顕現とは普遍意識が自ら行うのであって、私達の多くが日常自分だと思っ
ている個々の意識(現象我)が行うのではありません。従って、どのような手段を採
るにしても、解脱を目標に掲げてそのための努力に夢中になると、自分では気が付か
ないうちに自我意識を働かせていて、努力をすればするほど自我をますます強化する
作業になり、結果として却って解脱を妨げてしまうという、多くの人達が陥ってきた
罠に嵌ってしまう危険があります。ですから、当面の私達にできるのは、普遍意識が
外界に顕現する邪魔をしないこと、ただそれだけだと言うことを充分に理解して下さ
い。

そのひとつの方法は、心を働かせることを放棄して、完全なる沈黙の中に自らを置き、
一切を成すのは内なる生命であること。自我は幻影であり、自我の中で造られるあら
ゆる想念、感情、感覚は実在するものではないと言う真理を、徹底的に理解すること
です。

この辺りをどう解釈すればよいのか・・具体的にどのような事を行えば良いのか・・
座り続ければよいのか?
雑念を振り払い、無の境地になる・・・座禅、精神統一、瞑想・・・・
私は、座って目を閉じていると大抵寝てしまうので(笑)、立禅が良さそうだなあと
思っています。


普遍意識の顕現は、過去の多くの時代においては、ほんの一握りの天才が、超人的な
努力の結果として可能ならしめたものでしたが、地球人類の意識も徐々に進化してい
ますので、次第に普通の人達が普遍意識を顕現し始めるような時代に移って行き、や
がては産まれてくるほとんどの子供達が初めから普遍意識の中に在るように成って、
それに伴い、地球は大きな変容を遂げることになります。目覚めた魂が卒業して往く
過程は、地球生命系が、25764年周期の二分点のひとつに当る、魚座の時代から水瓶
座の時代に移る過渡期には、必ず大規模に起ってきたことなのです。

更に今回はそれだけに留まらず、地球の下限媒体としての表現が、物質的ヴァイブレ
ーションから、より高い波動領域に移行する、相対的に長い周期(およそ56億年)の
過渡期にも一致していると言う、際立った時期に当っているのです。これは人間も地
球自体も共に進化を続けており、人間がいつかは必ず普遍意識に目覚めなければなら
ないことと同じように、地球もまた地球上に生息する人類の意識の反映として、人類
の意識の変化に対応する、より高い波動領域での表現が中心になるように、自然法則
が働いているからです。

今、よく話題に上る「アセンション」の事なんでしょうか?25764年周期や星座の事
や56億年周期?・・はよく知りません。占星術等が元になっているのでしょうか。
ご存知の方がいらっしゃいましたらお教え下さい。


黒文字部分:「黎明・上巻」より

15.普遍意識5-7

2011-02-14 17:56:24 | ◆「黎明」考察
伝統的に多くの導師達は、観念によっては説明のできないものを弟子に伝えるという
問題に際して、幾つかの手段を用いました。比喩はこのような手段の中でも、よく使
われるもののひとつですが、既に識っている者に対しては適切な表現であっても、ま
だ識らない者に対しては、実際とは掛け離れたものの観念を、心の中に造り出すだけ
で終わってしまう危険も孕んでいます。

語り継がれている神話やおとぎ話や民話や昔話などにも比喩的な表現が多いのでしょ
うね。それは、音楽や絵本の世界にも通じるものだと思います(映画や小説やドラマ
やアニメも)。このような物語の中には、一つの切り口から全ての点と点が線で結ば
れるように入り込んでくる事があります。意図的に作り出されるものと、表現者が意
識していないのに(霊界からの働きかけによる?)生み出されるものがあるようにも
感じます。


真理の言葉も、伝える相手が自我意識の中で、過去の経験を寄せ集めて造り上げた観
念(迷妄)によって受け取った場合には、その真意が伝わらずに、むしろ躓かせるこ
とになります。また、この真理の言葉を知識(観念)として知っていることと、実際
に普遍意識を体験してその真意を識ることとは、全く別の問題である点を繰り返し注
意しておきます。

シルバーバーチの霊訓の言葉においても、同じシルバーバーチを敬愛する読者の中で
受け取り方が随分と違う場合があります。「・・・していけばよいだろう。」と思う
人もいれば、「・・・しなくてはならない。」と受け取る人もいます。脅迫的に受け
取ってしまうと、自我意識に頑固な殻を形成してしまうことになりかねません。おそ
らく普遍意識を体験すれば、自我意識を飛び越えた、ハッとするようなところからの
全く別な意識で捉えられるようになるのでしょう。


禅問答にはこの他にも「両手で叩くと音がする。では片手ではどんな音がするか」と
言うような設問があり、それに対して相手が何らかの答えをするという形式を持って
います。この問答には、言葉で表現できないものについて、弟子がちゃんと理解して
いるかどうかを確かめる答え合わせのような側面があって、どの設問にも、真理を理
解している人にとっては成程と思わせるような答え方ができるものです。この答えは
ひとりひとりによって異なり、また同じ人であっても、一瞬一瞬その内容が変わって
しかるべきものです。設問に対する模範解答集のようなものを丸暗記するなどは、全
く無意味なことです。

禅問答の答えは、向こうの世界からのインスピレーションによって得られるものなの
でしょうか?「なぞなぞ」も、一般化されていない広大なイマジネーションの中から
答えが得られます(あんまり関係ないか・笑)。


この他、禅問答にはもうひとつの仕掛けが含まれていて、自我意識によって造られる
考え、つまり個人の過去や経験や知識から論理的に答えを導く方法では、絶対に答え
の出ない設問について考えを巡らせているうちに、自我意識が思考停止、空白の状態
になることがあり、その瞬間に普遍意識が顕現してい悟ると言う、実体験のための手
段にもなっているのです。この方法は偶然に期待するようなところがあるので、本書
では特にお勧めするつもりはありませんが、自我意識の粗雑な波動が鎮まったときに、
それに覆い隠されていた本来の精妙な波動が知覚されると言う、基本的な原理は理解
しておいて頂くと良いでしょう。

脳科学の観点からは、脳内物質(セロトニンなど)や脳波(アルファ波など)の状態
によって心の状態が変わる説明がされていまね。設問についての考えを巡らせるうち
に、脳の状態も変わり、普遍意識からのインスピレーションを受け取り易くするのか
もしれませんね。


例えば肉体に激しい苦痛のあるときには、私達の意識はそのほとんどが肉体に向けら
れているため、日常の精神活動さえ行うことが困難になりますが、これは肉体の苦痛
という粗雑な波動が雑音になって、より精妙な感情や想念の波動に焦点を合わせるこ
とが難しくなるからです。これに対して肉体が充分にリラックスしているとき、リラ
ックスとは必ずしもソファに横たわっているような、肉体が何もしていない状態をい
っているのではなく、楽器を早いパッセージで演奏したり、スポーツをしたりという
ような、激しい運動を伴っているときでさえ、肉体の動きに無理がなく、感情や想念
のはたらきとも適切な連携プレーが行われているときには、その人はリラックスの状
態にあり、これが周囲の状況も含めて高度に調和したときには、普遍意識が顕現され
ることがあります。

「心・技・体」も最高のものを引き出す心がけでしょうから、音楽家の最高の演奏や、
スポーツでの神業なども普遍意識が顕現された状態なのでしょう。


アストラル体の波動領域においても、激しい感情の動きがあると、こうした粗雑な波
動に妨げられて、それよりも精妙な波動領域で表現される精神活動、例えば理性的な
思考ができなくなることは、日常よく経験されています。これとは反対に、思念の表
現領域の媒体である下位メンタル体が雑念を起こしていない状態で、なおかつアスト
ラル体に崇高な感情が表現されて昇華されると、普遍意識のヴァイブレーションと一
致することがあります。後者のような解脱のパターンは、アストラル体の発達してい
る人、すなわち論理的に考えるよりも、感覚的に行動することを得意とする人に多く
看られます。感覚的な判断といっても、全体を観通している普遍意識からくる直観的
な判断であるなら、個人意識の限られた視野の中での論理的な結論に比べて、判断の
正しさが逆転することも理解しておく必要があります。

日常生活においても、多角的に考え抜いて考え抜いて行う行動が、それでもやはり近
視眼的で、直感的な行動が数年後に正しかったりすることもあります。ある程度の幅
ならば良しとし、後は神のみぞ(己のみぞ?)知るという楽観的な思考も大切なので
はないでしょうか?(これではブレる?・笑)


もちろん人間の意識の発達のある段階においては、理性的な思考にも意味があるので
あって、粗雑な感情に振り回されて混乱した生活をするよりは、慎重に考えて行動す
る方が幾分ましであることは確かです。しかしながら、長期間にわたって(魂の計画
に因っては今生だけとは限りませんが)論理的な思考を中心とした精神活動を続けて
いますと、あらゆるものを既成の概念というフィルターを通して見るような習癖がで
き上がってしまい、その世界観が唯一絶対であるかのような錯覚が生じるようになり
ます。いったんこの様な状態に陥ると、元々は自分の心で造り出している概念に、自
分自身が支配されるという自縛の罠が完成し、その人はそれ以外の物の見方ができな
くなって、本来は完全な自由を持っている意識を限定し、固定観念という迷妄の檻で
囲った牢獄に閉じこめて、真実を観えなくしてしまいます(これは感情の領域でも同
じことが言えます)。自我意識が普遍意識の顕現を妨げる障害物にもなりますから、
思念の勝手な動きを鎮めることが、肉体的感覚や感情の統御の次にくる、重要な課題
になります。

この世で生きていれば、肉体的動物感覚や感情の起伏、ブレは発生します。思念もく
るくると巡ります。ある程度の振れ幅は仕方ないと思いますし、それがこの世を生き
ることでしょう。しかし自我意識に埋没していては成長することはできません。やは
り、各々の固定観念を打破するためにも、日常生活において、瞑想などを行うことが
大切だということでしょうか。


黒文字部分:「黎明・上巻」より