条件
どんな人間の中にも、感覚的世界を超えて、より高次の諸世界まで認識を拡げることのできる能力がまどろんでいる。
●神秘学徒の出発点(畏敬の小道)
○まず第一に畏敬の念を思想生活の中に受け容れること。
自分の意識の中にある不遜な、破廉恥な思考内容や軽蔑的な批判の傾向によく留意し、まさに畏敬という思考内容を育てることから始めなければならない。
われわれの文明生活は尊敬したり、献身的に崇拝したりするよりも、批判したり、裁いたり、酷評したりする方に傾きがちである。しかしどんな批判も、どんな裁きも魂の中の高次の認識力を失わせる。それに反してどんな献身や畏敬もこの力を育てる。
↓
生まれつき畏敬の感情をもっている人、もしくは幸運にも教育によってこの感情を育てることのできた人は、後に高次の認識への通路を求めるときの用意がすでにかなりできているといえる。このような用意ができていない人は、自分で今、畏敬の気分を育てようと努力しなければならない。われわれの時代にはこの点に特別の注意を払うことが非常に重要なのである。
太古の人たちは、霊能力を携えていたと言われます。現代と違い、自然の中で生き抜いていくためには、五官以上の能力を要求されたでしょうし、元々持っていた感覚であるとも言われます。それが科学や文明の発達に伴い、五官中心の生活となり、その能力は退化していったと思われます。
人間の人知を超えたもの(神、大いなる存在、源泉、神聖なる知能・・呼び名はいろいろ)に対する畏敬の念・・・・それはかつては宗教の役割でもあったでしょうし、土着の自然崇拝や、神事の中にも見出せました。仏壇に手を合わせる、神棚に手を合わせるというご先祖様や神仏を拝む行為は生活に溶け込んでいました。誰も見ていなくとも、お天道様が見ていますよ、という戒めもありました。このような時代背景や形式的慣習から、さらに深い洞察がなされているスピリチュアリズムの訓えや知識が、自分の精神(魂)に浸透していれば、より「畏敬の念」の気分や「祈り」の本質も理解できるでしょう。
どんな人間の中にも、感覚的世界を超えて、より高次の諸世界まで認識を拡げることのできる能力がまどろんでいる。
●神秘学徒の出発点(畏敬の小道)
○まず第一に畏敬の念を思想生活の中に受け容れること。
自分の意識の中にある不遜な、破廉恥な思考内容や軽蔑的な批判の傾向によく留意し、まさに畏敬という思考内容を育てることから始めなければならない。
われわれの文明生活は尊敬したり、献身的に崇拝したりするよりも、批判したり、裁いたり、酷評したりする方に傾きがちである。しかしどんな批判も、どんな裁きも魂の中の高次の認識力を失わせる。それに反してどんな献身や畏敬もこの力を育てる。
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生まれつき畏敬の感情をもっている人、もしくは幸運にも教育によってこの感情を育てることのできた人は、後に高次の認識への通路を求めるときの用意がすでにかなりできているといえる。このような用意ができていない人は、自分で今、畏敬の気分を育てようと努力しなければならない。われわれの時代にはこの点に特別の注意を払うことが非常に重要なのである。
太古の人たちは、霊能力を携えていたと言われます。現代と違い、自然の中で生き抜いていくためには、五官以上の能力を要求されたでしょうし、元々持っていた感覚であるとも言われます。それが科学や文明の発達に伴い、五官中心の生活となり、その能力は退化していったと思われます。
人間の人知を超えたもの(神、大いなる存在、源泉、神聖なる知能・・呼び名はいろいろ)に対する畏敬の念・・・・それはかつては宗教の役割でもあったでしょうし、土着の自然崇拝や、神事の中にも見出せました。仏壇に手を合わせる、神棚に手を合わせるというご先祖様や神仏を拝む行為は生活に溶け込んでいました。誰も見ていなくとも、お天道様が見ていますよ、という戒めもありました。このような時代背景や形式的慣習から、さらに深い洞察がなされているスピリチュアリズムの訓えや知識が、自分の精神(魂)に浸透していれば、より「畏敬の念」の気分や「祈り」の本質も理解できるでしょう。