最近、スピリチュアリズム関連で、ルドルフ・シュタイナーの研究をライフワークとして
行っています。
その中に、まずは「畏敬の念」が、とても大切だと訓えています。
この「畏敬の念」へと繋がる、「祈り」や「願い」や「感謝」する行為がどんどん減って
きているように思うんですよね。
神棚、仏壇に手を合わせる→神仏を拝む、ご先祖さまを拝む
いだだきます、ごちそうさまと手を合わせる→実りに感謝する、お百姓さんに感謝する
「畏敬の念」が遠ざかるにつれ、手を合わせる形だけが形式的慣習として残ってきていた
けど、それさえも無くなりつつありますね。
愛知の義理の祖父母は、東京で生活している子どもたちの安全・繁栄を願って東の方角へ
毎日欠かさずに祈っていたと、かつて聞いたことがあります。今朝は寝起きの瞬間に、
そんな光景が浮かんできたのでした。
で、頭の中を流れてきたのが、この楽曲でした。はああ・・・・名曲だなあ。。。。。。
案山子 さだまさし
太古の人たちは、霊能力を携えていたと言われます。現代と違い、自然の中で生き抜いて
いくためには、五官以上の能力を要求されたでしょうし、元々持っていた感覚であるとも
言われます。
それが科学や文明の発達に伴い、五官中心の生活となり、その能力は退化していったと思
われます。
人間の人知を超えたもの(神、大いなる存在、源泉、神聖なる知能・・呼び名はいろいろ)
に対する畏敬の念・・・・それはかつては宗教の役割でもあったでしょうし、土着の自然
崇拝や、神事の中にも見出せました。
仏壇に手を合わせる、神棚に手を合わせるというご先祖様や神仏を拝む行為は生活に溶け
込んでいました。
誰も見ていなくとも、お天道様が見ていますよ、という戒めもありました。
このような時代背景や形式的慣習から、さらに深い洞察がなされているスピリチュアリズム
の訓えや知識が、自分の精神(魂)に浸透していれば、より「畏敬の念」の気分や「祈り」
の本質も理解できるでしょう。
行っています。
その中に、まずは「畏敬の念」が、とても大切だと訓えています。
この「畏敬の念」へと繋がる、「祈り」や「願い」や「感謝」する行為がどんどん減って
きているように思うんですよね。
神棚、仏壇に手を合わせる→神仏を拝む、ご先祖さまを拝む
いだだきます、ごちそうさまと手を合わせる→実りに感謝する、お百姓さんに感謝する
「畏敬の念」が遠ざかるにつれ、手を合わせる形だけが形式的慣習として残ってきていた
けど、それさえも無くなりつつありますね。
愛知の義理の祖父母は、東京で生活している子どもたちの安全・繁栄を願って東の方角へ
毎日欠かさずに祈っていたと、かつて聞いたことがあります。今朝は寝起きの瞬間に、
そんな光景が浮かんできたのでした。
で、頭の中を流れてきたのが、この楽曲でした。はああ・・・・名曲だなあ。。。。。。
案山子 さだまさし
太古の人たちは、霊能力を携えていたと言われます。現代と違い、自然の中で生き抜いて
いくためには、五官以上の能力を要求されたでしょうし、元々持っていた感覚であるとも
言われます。
それが科学や文明の発達に伴い、五官中心の生活となり、その能力は退化していったと思
われます。
人間の人知を超えたもの(神、大いなる存在、源泉、神聖なる知能・・呼び名はいろいろ)
に対する畏敬の念・・・・それはかつては宗教の役割でもあったでしょうし、土着の自然
崇拝や、神事の中にも見出せました。
仏壇に手を合わせる、神棚に手を合わせるというご先祖様や神仏を拝む行為は生活に溶け
込んでいました。
誰も見ていなくとも、お天道様が見ていますよ、という戒めもありました。
このような時代背景や形式的慣習から、さらに深い洞察がなされているスピリチュアリズム
の訓えや知識が、自分の精神(魂)に浸透していれば、より「畏敬の念」の気分や「祈り」
の本質も理解できるでしょう。